7食目 豚と村人
太陽の光が差し込む森を私とノエルは延々と歩いていた。木々は囁くように揺れ、枝に止まった鳥達は井戸端会議に勤しむ。そんな美しいとも言える光景の中、黙々と歩いてもう正午を過ぎた頃だろう。私は空腹と疲労の責め苦を受けながら必死に歩き続けた。先陣を切るノエルは時折振り向いては私の歩みを確認していた。彼の気遣いが痛いほど伝わってくる。
今朝、食糧難に陥ってしまったとわかると青ざめる私を尻目にノエルはすぐに目標の方向転換を図った。最短距離で町を目指すのではなく、遠回りだが近くの村を経由してから町を目指すというものだった。しばらく歩き通しにはなっても、一日もあれば到着する村で食料等の準備をするべきだろうという判断だ。森で狩りをしてもいいが、リスクも高く時間もかかる。幸い資金は洞窟に保存食等と一緒に備蓄されていて僅かながら持ち合わせている。これなら村人と取引をする方が早そうだ。
改めてノエルの聡明な頭脳に感謝しなくては。
「レティシア様、お体は大丈夫ですか? 休憩なさいますか?」
「いえ、大丈夫よ! それより先を急ぎましょう!」
私は辛い体に鞭を打って笑顔で答えた。太っているのに痩せ我慢、とは滑稽だ。ノエルが私を背負うことを提案されたがそれも断っている。甘えてばかりいては、ノエルに迷惑をかけてしまう。
「あまりご無理をなさらないでください。村までまだ遠いのですから」
実はさっき転んだ時に足を擦りむいたけど、こんなこと言っちゃうと負担になるわよね。手当ての時間も惜しいし。
見た目にはわかりにくいがノエルは疲れている。美麗な眉一つ動かさないが、長年共に暮らしてきたからわかる。主人である私に疲労の色を見せまいと努力している。
彼一人なら、もしかしたら一日もかからずに村に到着しているかもしれない。
―――私は足手まといかもしれない……私なんて、いないほうがいいのかもしれないわね。
疲労のせいか後ろ向きな考えが頭を巡っている。ノエルの大きな背中、いや私よりは小さいけれどそんな背中を見ていると頑張らなければと奮起した。
「レティシア様、止まってください」
突然、ノエルが前を見ながら私を制止した。瞬間、私の肩を押さえてしゃがませた。
「わわわ! な、何なのノエル? 急に―――」
「お静かに、前方に何かいます」
ノエルは人差し指を口元に当てて静かにするよう指示を出した。厳しい表情で前方を見据える彼の視線の先を追う。
その方向へよく耳を澄ますと、少し開けた小道のようなところから草木を分ける音と足音が聞こえてくる。それも複数だ。獣ではない何かが間違いなくそこにいる。
それにしても、姿も見えないうちからよく誰かがいるとわかったわね。ノエルは地獄耳なのかしら……?
私は感心しつつ、彼の顔をじっと見つめた。真剣な眼差しと潤んだ唇、そこに添えられた指は妖艶さを放っていた。何の気なく、近くだったから見ただけで疚しい気持ちなどないはずが、うっかり細部まで見つめてしまった。
「レティシア様、どうやらどこかの村人のようです」
私がうっかりしている間にノエルは相手の正体を既に見切っていた。私は少し動揺して慌てて彼の視線の先を見た。遠くに男性が複数確認できる。簡素な布の服を纏って槍や弓を携えている。長旅に適さない風貌からして近隣の村人だろうと推測できる。
「よかったわ! せっかくだし村まで案内してもらいましょう!」
私は草木を分けて前に出た。しかし茂みの枝が服に絡まって進めなくなった。
「あっ、引っ掛かっちゃったわ」
「レティシア様! いけません!」
ガサガサと衣服を引っ張って取ろうとするが余計に引っ掛かりが強くなってしまった。
ノエルが動くより早く、私のすぐそばを風が吹き抜けた。強くしなる音と鈍い音が聞こえたと思うと私はそれが風ではないと知った。
―――矢だ。
近くの木に深く突き刺さった矢、一歩ずれていたら私の頭に装飾品の如く刺さっていたであろう矢がそこにあった。私が感じていたのは風ではなく矢が通り抜ける感覚だったのだ。
「ひゃっ!」
私は小さく悲鳴をあげて尻餅をついた。その瞬間ノエルが飛び出して一瞬にして男性達に近づいた。草木でよく見えないが、ノエルが彼らの武器を叩き落としているようだ。打撃音が数回聞こえて男性の呻き声も聞こえてきた。
「ノエル……?」
しばらく呆然と座っているとノエルが戻ってきた。
「突然申し訳ありませんでした。彼らと話し合いが済みました」
「は、話し合い? 随分乱暴な音が聞こえたのだけど―――」
「いえ、話し合いです」
何事もなかったような顔をしてるけど、絶対話し合いじゃないわよね……。
「さぁ、彼らが馬で村に案内してくれるようですので行きましょう」
ノエルはにっこりと笑顔で私の手をとり歩き出した。どうも彼は私の事となると頭に血が上りやすい性質のようだ。
「だ、大丈夫かしら……」
ノエルに連れられて男性達の元へ来ると、申し訳なさそうな顔で迎えられた。中年男性が二人と若い男性が一人、ボロボロになった槍と弓を抱えている。幸い、先ほどの話し合いでの傷は無いようだ。
「す、すまんなぁ……わしら狩りをしていたもんで、ついつい音に反応しちまったんだ」
狩りの長だろうか、五十歳くらいの中年男性が謝ってきた。
「い、いえ! 私も迂闊に近づいてしまったのが悪いのです。謝らないでください。こちらこそ、狩りの邪魔をしてしまいました。ごめんなさい」
謝罪は人と人との潤滑油だ。にっこりお互い握手をして、いざこざはおしまいだ。何て和やかな空気なのだろう。いささか、背後からノエルの殺気を感じるけれども。
「いやー弓を放ったのはこっちの若造でな。豚だと思ったと言い出すんでさ。いやほんとすまんかったな、お嬢さん」
中年男性が若い男性を肘で小突くと、若い男性はふて腐れたような顔をしていた。
「ぶ、ぶぶぶぶ豚、豚……ですか。この辺りは豚がいるのですね、うふふふ」
「ん? どうしたんだい嬢ちゃん」
豚、という単語に思わず反応してしまった。中年男性はともかく、若い男性の方は私を豚と見間違えて矢を放ったのだから人間とわかった今も豚みたいに醜いと思っているかもしれない。目を見るのが怖い。
しかし、彼らに悪気はない。私の気持ちの問題だ。
「いえ、何でもないです! さぁあちらの馬で村に行くのでしょう? お願いします」
心の深傷、しかもかさぶたすらない生傷を抉られてしまったわ。
泣きたい気持ちを押さえつつ、幸運なことに私達は早々に村へ辿り着くことができたのだった。幸運と引き換えに、深い傷がまた深くなってしまった。
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