4食目 忍び寄る影

「ふぅ、少し休もうかしら……今日は随分没頭してしまったわね」


 昼食後、書庫から移動し自室で痩せるための勉強をしていたが、いつの間にか太陽も沈んで夜が訪れようとしていた。

 窓から見える空は地平線で黄や赤や紫の色を重ね、あと一寸で完全な夜を迎えようとしている。


「綺麗な空……私も、あんな風に美しくなりたい」


 ため息混じりに空を見つめ、頬杖をつく。そういえば、そろそろ夕食の頃合いだ。

 本日の晩餐に舌鼓……あくまで妄想ではあるけれど、ほろほろにとろけるまで煮込んだ肉の味を想像してにやにやと頬が緩んでしまう。


「今日は午後のティータイムも抜きだったし、夕食くらい楽しんでも罰は下らないでしょう? 神様?」


 その時、空の彼方で黒い点が揺れているような気がした。ゆらゆらと揺れながら点は少しずつ大きくなる。こちらに向かっているように見える。


「ん? 鳥? こんな夕暮れに―――」


 言いかけて、目を疑った。点は一つ二つ、ざわざわと数を増し次第に形をはっきりと捉えることができた。鳥のように翼を羽ばたかせているが、体が鳥のものではなかった。


 あれは、鳥じゃない!


 肌が緊張でふつふつと立ち、あれが危険であることを全身で感じる。


「ここにいたら危ない……避難する場所は……!? あぁ! どこにあるかわからないわ!」


 初めての経験に手段が思い浮かばず部屋をうろうろするばかりだ。ここに向かっているとも限らないが、この地域一帯は森や草原以外に何もない。もし目的があるとすればこの搭しかあり得ない。


 気持ちが焦って何もできない、どうしたらいいの!?


「落ち着いて、本当は何もいないかも!? 虫の群れが変に見えただけかもしれないわ!」


 私は一抹の希望を胸に再度窓から外を見てみるが―――


「やっぱり来てる! そうよね! うん、そんな訳ない!」


 今までこの塔で暮らしてきて初の異常事態だった。頑丈に作られているとはいえ、破壊されない保証はない。

 ふと、庭先に目をやると使用人が複数人庭掃除を終えて塔へ戻るところだった。黒い何かは勢いを増してこちらに向かっている。このままでは、彼女達が襲われて被害が出てしまう。


「貴方達! 今すぐ塔の中へ入って! 何かがこっちに向かっているの!!」


 私は窓を開けて外に向かって叫んだ。しかし、声には気が付いたものの私の言葉までは聞き取れなかった様子で不思議そうにこちらを見ている。


 駄目、ここからじゃ高すぎて聞こえないんだわ!


「早く! そこから逃げて!!」


 喉から声を必死に絞るが彼女達には届かない。

 その時、黒い何かが彼女達を空から大きく覆い被さるように襲う。先程までは暗くてあれが何なのかわからなかったが、塔の明かりに照らされて一瞬形が浮かび上がった。

 人の風貌によく似て、漆黒の鳥毛を羽ばたかせる。本の中でしか見たことがなかったが、奴等は人を殺し、食べ物や金品を奪い、時に女を拐う。獰猛で残忍な種族、黒影鷲こくようしゅう



―――間に合わない! 殺される!


「いやぁぁぁー!!」


 もう駄目だ、そう思って叫んだ瞬間だった。重い打撃音と共に黒影鷲が遠くへ吹き飛ばされていく。


「あれは……ノエル!?」


 黒影鷲をノエルが蹴り飛ばし、使用人達を守ったようだ。一瞬のことで驚いているとノエルが彼女達と共に塔へ走り込んでいく。ノエルは私に何かを叫んだがよく聞こえなかった。


「私も、ここから逃げないと……そうだ。確か、地下に防御結界の張られた部屋が―――」


 唯一の逃げ場を思い出し扉に向かった瞬間、背後で窓が大きな音を立てて砕け散った。


「きゃあ!」


 鋭い硝子片が飛び散り、私の腕を僅かに切り裂き痛みが走る。


「痛い……!」


 痛みに顔を歪めていると、室内に侵入した者の声と硝子片を踏み潰す音がした。


「やぁ、こんばんは。今宵も素敵な夜だな、お嬢さん?」


 振り返ると、黒影鷲の男が微笑みながら佇んでいた。黒髪と漆黒の翼、黒を基調とした衣服。夜に活動するに相応しい出で立ちだ。

 私は襲撃を受けた恐怖で体が硬直して動けなかった。


「そんな顔をしないでくれ、驚かすつもりはなかったのだよ? こちらにちょっと金目の物と酒を拝借に来ただけで……あと、麗しい女性もいると嬉しいと思ってね」


 男は気怠そうに言い、髪を掻き上げて見せた。

 恫喝などはなく、むしろ落ち着いた様子に私は恐ろしさを感じた。この男は人を殺すことに喜びも悲しみも感じない、そんな男なのだと手に取るようにわかる。


「こ、ここには何もないわ! 酒もないし、宝飾品もないわ! こんな辺鄙な場所、来るだけ無駄足だったようね!」


 私は何を言っているの。

 こんな挑発するような言い回しをして、彼の逆鱗に触れてしまえば命はないというのに。

 私の中の王族としての自尊心だろうか。なんて愚かな。


「おや、それは残念だ。部下達もさぞ悲しむだろう……しかし」


 男は一歩、また一歩とにじり寄ってくる。心臓が五月蝿いほど脈打ち逃げろと叫ぶが、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けない。


「丸々としているが上等なお嬢さんがいるとなれば、話は違ってくる。なに、酒も金品も他から奪えばいいだけのことさ」


 この人……上等なお嬢さん、なんて口にしているけど皮肉にしか聞こえないわ。


 気が付けば手が届く距離まで近づかれていた。鋭い爪が頬を撫で、ひりついた痛みと赤い筋を作った。少しずつ後退りして距離を取っていたが既に真後ろは扉、避けようにも下がることも出来ない。


「丸々とは女性に対して失礼ね。これからもっと綺麗になる予定なの、邪魔しないでくれるかしら?」

「ほう、それは失礼したな。まぁ、君の場合は焼いて食うのが一番適した取り扱いだと思うがね」


 男は喉の奥でくつくつと笑い、私の心臓に爪を立てるように指差す。散々酷い言葉を言い放ってくれたものだ。しかし、私には対抗する手段がない。このまま、心臓を抉られるだろう。

 そう覚悟した瞬間だった。扉を貫通した鋭い切っ先が、私の頭上から現れた。


「きゃあっ!!」


 男は首を傾けて避けたようだった。さもなくば男の顔に風穴が一つ空いていただろう。数歩後ずさりして私から距離をとっていく。

 穴の空いた扉はぱらぱらと木屑が落ちて開かれ、剣を構えたノエルが鬼の形相で入ってくる。


「この御方に触れるな、薄汚い鳥風情が……!」

「やれやれ、面倒なのがやって来たな。私はこのお嬢さんと話をしていたのだが? 君に用はない」


 男は困ったと言わんばかりに両手を広げて見せた。男からは依然として余裕を感じる。切っ先を向けられても尚、勝てるという自信に溢れている。


「ノエル! 来てくれたのね!」

「遅くなり申し訳ありません。使用人達の保護と侵入者の排除に少々手間取ってしまいました。お怪我は―――」

「少し怪我をしたけれど、平気よ。ノエルこそ無事で良かった」


 ノエルは私の頬と腕の傷を見て目を見開いた。彼は無言で傷を凝視し、先程とは比較にならないほどの殺気を放っている。


「……私のレティシア様によくも傷を付けたな。この報い、貴様の命を奪っただけでは足りんぞ」


 優しい彼の口から聞いたことのない、地の底から響くような声で相手を凄む。


「報いるつもりはない、君こそ自分の状況をよく理解した方がいいと思うが。どうやら、私の部下を痛め付けてくれたようだしな。せっかく楽しい夜になるところだったのに、邪魔をされては私も不愉快だ」


 男は先ほどの怠そうな様子から一変し、鋭い威圧的な眼差しを向けてきた。黄金色の瞳は私達を捕らえて離さない。

 相手は殺しも厭わない輩。強さもわからない上、他の奴等が来ればどうなるかわからない。ここは逃げるしかない。

 そう、塔の向こう側へ。


「ノエル、ここは逃げ―――」


 ノエルは剣を大きく振るって男を横へ退かせると私の腕を引っ張り窓へ走った。


「レティシア様、少々ご無礼を!!」

「え!? えぇぇ!?」


 まさかまさかまさか……!


 嫌な予感は当たるもので、私とノエルは開かれた窓から一気に雪崩れ込むように下へ飛び降りた。もっとも、私は自分の意思とは無関係に引き摺り落とされたのだけど。


「きゃあぁぁぁ嘘でしょぉぉー!」

「私にしっかり掴まってください! 降りますよ!」


 逃げると言っても、窓から何てそんな!


 夜の冷えた空気を切り裂きながら落ちていく中、必死にノエルに掴まる。横抱きになりながらそのまま地面に重々しい音を立てて着地する。

 嘘のようだが、ノエルは巨大な私の肉体を抱えたまま塔の最上階から飛び降りたのだった。地面が深々と抉れ、その衝撃の強さを物語る。


「さぁ、レティシア様。森の中へ向かいますよ!」


 ノエルが私を抱えたまま門へ走り出す。到底、普通の人間では私を抱えて走ることなどできないが、ノエルの身体能力はそれを可能にしているようだった。


 どこにそんな力があるのかしら、今までそんな素振り見せなかったのに。


 必死に掴まりながらさっきまでいた私の部屋の窓を振り返る。逆光になっているが、さっきの男がこちらを見下ろしているのが見えた。どうやら、私たちを本気で追いかけるつもりがないようだ。部下と言っていた他の黒影鷲達が彼の元へ集まっていく。


「ノエル! 森へ行ってどうするの!?」

「わかりません。とにかく、ここから逃げます。それが貴方を守る最善の策です」


 息を乱すことなく、彼は門へ向かって走り続ける。そして、門の前へ来ると扉を足で蹴りつけ無理矢理鍵ごと抉じ開け、目の前に広がる森へ入っていく。

 今まで私を閉じ込めていた高い壁は、呆気なく私を解放した。

 遠く見えなくなる壁。不安や恐怖が入り交じった感情の中に私は春の芽吹きのような高揚を感じていた。


 こんな形で塔から出るなんて思ってもみなかった―――


 いつか壁の向こうへ行ってみたい、どんな世界があるのか思いを巡らせた日々に別れを告げ、私は十年以上過ごしたこの愛着ある塔を離れることとなった。

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