午前三時の小さな冒険

野森ちえこ

週に一度のパトロール

 起床時間は午前二時。


 おれは人と会いたくない。人と話したくない。いわゆる、ひきこもりというやつだ。ただ、かんちがいしてもらいたくないのだが、おれは人と接触したくないだけで、外に出たくないわけではない。

 しかし空が明るいときは、どこに行っても人がいる。だから、出かけるのは深夜になってからだ。ベストは二時半ごろから三時半ごろまで。一時くらいではまだ終電帰りの酔っ払いなどがフラフラしているし、四時になると新聞配達や、朝の早いじいさんばあさんが散歩していたりするため、人との遭遇率が高まるのである。


 なぜそこまで人と会いたくないのか。自分でもよくわからない。イヤだからイヤなんだという、およそ三十をすぎた大人がいうことではない理由しか浮かんでこない。きっかけもあったはずなのだが、今となってはよく思い出せない。それで困ることも特にない。


 なぜなら、おれは外に出なくても、人と会わなくても生きていける。

 世間では名家といわれている実家を出る際、生前贈与という名目の手切れ金を渡された。それを元手にはじめた株式投資が成功したのだ。

 親子であっても相性があわないことはある。だから、実家とは縁を切ることになったが、運はよかったのだと思う。

 そうしておれは株で資産を増やし、現在は所有している不動産の家賃収入で生活しているというわけだ。


 趣味らしい趣味もなく、日中は最低限の家事をして、ネットや動画をながめて、夕方眠りについて深夜に起床する。特別イヤなこともないが、特別たのしいこともない。死ぬ理由がないから生きている。そんな毎日である。きっと一生、このままなのだろうと思う。



 ☆



 ジジジ……と、切れかかっている街灯の音がはっきりと耳に届くほど、ひっそりと静まり返っている道をおれは誰に遠慮することなく闊歩する。


 週に二、三回。こうして外の空気を吸いに出るのだ。コンビニやバーなど深夜営業をしている店がある通りを避ける以外は、特にコースなどきめていない。だが一か所だけ、必ず立ち寄る場所があった。裏通りに面した月極駐車場。そこに唯一の顔なじみがいるのだ。でっぷりもっちり、妙に貫禄のあるサバ白のノラ猫である。会えるかどうかはそのときによる。


 これまで人間と出くわしたことはなかった。しかしこの日、駐車場に足を踏みいれたおれは、思いがけない光景を目にした。

 小学校高学年か、せいぜい中学生だと思われるショートカットの女の子が、街灯の薄白い明かりの下、むっちりまるい猫とたわむれていたのである。


 見なかったことにしよう。そう思ったのだが、おれがきびすを返すより一瞬早く女の子が顔をあげた。バチっと目があう。


 いや、気のせいだ。


 今度こそくるりときびすを返す。と、ダダッと女の子が正面にまわりこんできた。


「ちょっとおじさん」

「おじ……」

「こんな真夜中にポツンと佇んでる、いたいけな子どもをスルーする? フツー」


 これはツッコんだほうがいいのだろうか。まったく佇んでなどいなかったし、猫と遊んでいたと思うのだが。

 生身の人間と話すなんて、ひさしぶりすぎてどう対応したらいいのかわからない。というか、できればかかわりたくない。だがしかし。女の子は行く手をはばむように、腰に手をあてて仁王立ちしている。

 どうにか逃げようとしたのだけど、右に足を出そうとすれば女の子もおなじ方向に動く。左、右、右、左、右、左……すこぶる反射神経のいい子どもである。おれがトロいだけかもしれないが。息が切れてきた。おれは観念して女の子に向きあった。


「どうしたの……って聞けばいいのか? こういう場合」

「ええ? それをあたしに聞くの?」

「すまない。人と話すの苦手なんだ」

「ふーん。大人なのに」

「大人でも苦手なものは苦手なんだよ」


 ふんなぁ〜と鳴きながら猫が足にすり寄ってくる。このもちむち猫は『にゃー』ではなく『なぁー』と鳴くのである。


 しゃがみこんで、顎の下をなでてやると、目を細めてゴロゴロとのどを鳴らす。赤色っぽいスウェットスーツ姿の女の子も、猫をまんなかにはさむようにしておれの正面にしゃがみこんだ。


「きみは、小学生?」

「うん。五年生」

「家出」

「じゃないよ」


 ピシャリと否定された。会話がつづかない。


「おじさんはなにしてたの」

「散歩……かな」

「なんだ。ドロボーさんかと思った」

「え」

「服は黒ずくめだし、人の顔見て逃げようとするし」

「ほんとうに泥棒だったらどうするんだ。危ないだろう」


 さすがに驚いてすこし声がおおきくなった。だいたい本物の泥棒だって、なにしてたのと聞かれて『泥棒しに行くところです』とは答えないだろう。

 ちなみに、おれがパーカーとチノパンと上下黒ずくめなのは、たとえ人とすれちがうことがあっても闇にまぎれこめるようにという気持ちからくるものである。泥棒するためではない。


「へーきよ」


 そういいながら、女の子はスウェットパンツのポケットから防犯ブザーと催涙スプレーをとり出した。用意周到である。いや、しかし。


「それでも危ないよ」

「……あのね、あたし『いい子』なの」

「うん?」

「勉強も運動も得意だし、親や先生のいうこともよく聞くし、友だちもたくさんいる」

「そうか」


 これはなんだ。自慢なのか。それにしては声が暗い。


「でもね、たまに疲れちゃうの」


 女の子は深々と、それこそ人生に疲れたおっさんのようなため息をついた。それから、そんなときは深夜にこっそりと家を抜け出すのだとつづけた。誰の目も気にしないで走りまわるとスッキリするのだという。


「でも、それもすこし飽きてきてたんだ。そしたら怪しいおじさんがきたからチャンスだと思って!」


 なんのチャンスだ。


「ドロボーだったらこのスプレーで動けなくして、ヒモで縛って警察に電話するの。で、名のらないで去るの。かっこよくない?」

「正義の味方ごっこ……?」

「そう!」


 パッと女の子の顔が輝く。まるで肌の内側から明かりをつけたみたいだ。


 この子のいう『いい子』は、たぶん優等生という意味なのだろう。すこし話しただけでも、本来はとても奔放な子なのだろうとわかる。それを『いい子』の枠に押しこめているのだとしたら、さぞかし息がつまるだろう。それでも。


「ダメだよ」

「なんでさ」

「なんでも」


 べつに、この子がどうなろうが関係ないというのに、どうしておれは止めようとしているのだろう。だいたい、この子を説得できるだけの言葉も経験も、おれは持ちあわせていない。バカのひとつおぼえみたいに『危ないから』としかいえないのだ。なんだか情けなくなってきた。


「なんでおじさんが落ちこむのよ」

「なんでだろうな。とにかく、怪しい人間をみつけても声をかけたりしちゃダメだ」

「おじさん、いいこと教えてあげる。子どもはね『やっちゃダメ』っていわれるとやりたくなる生きものなの」


 それは、そうかもしれない。なんなら大人だってそうだ。しかしそれじゃあどうすればいいんだ。

 じーっと見つめてくるふたつ……いや、よっつの目。なぜ猫にまで凝視されているのだろう。


「そうだ!」


 女の子がぴょんと立ちあがった。


「おじさんも一緒に街をパトロールしよう」

「……は?」

「あたしひとりだからダメなんでしょ? だったらおじさんが一緒にきてくれればいいんだよ」


 なぜそうなる。


「えーっと、どうしようかな」


 女の子はあごに手をあてて、またじいーっとおれの顔に視線を固定する。強いまなざしにプスプスと穴があいていくような錯覚をおぼえる。


「クロジ」


 やがて女の子はぽつりとつぶやいた。


「は?」

「黒いおじさんだからクロジ」

「え、おれのこと? なんだよその呼び名は」

「コードネームにきまってんじゃん!」


 きまっていない。断じてきまっていない。というかなんだコードネームって。おれの理解が追いつくまえに女の子の話はずんずん先に進んでいく。


「隊長はあたしね。クロジとむっちゃんが隊員」

「むっちゃん……?」

「そう。この子、すごいムチムチしてるでしょ?」


 女の子が両手で猫を抱きあげる。されるがままの猫――むっちゃんは「なぁー」とひと声鳴いた。


「ね、今何時?」


 おれはチノパンのポケットからスマートフォンをとり出した。


「あと五分で三時だな」

「じゃあ金曜……じゃない、もう土曜日だね。毎週土曜日の午前三時に集合。雨なら中止。これでどう?」

「どうって……もしおれがこなかったら」

「いいよ、こなくても。そのときはむっちゃんと行くし。むっちゃんもいなかったらひとりで行くもん。そのかわり、ほかの日にはやらない」


 女の子は、これが最大限の譲歩だといわんばかりにそっくり返った。


「……おれが悪いやつだったらどうするんだ」

「悪いやつなの?」

「そういうことじゃなくて、どこの誰ともわからない人間だぞ」

「どこの誰かわかってても、悪いことする人はするよね」


 ぐっと言葉につまる。その通りである。


「クロジは悪い人じゃないよ。だってむっちゃんがなついてるもん」


 なるほど。信用しているのはおれではなく猫だったわけだ。しかし、しっかりしているようで無防備というか危なっかしいというか、心配になる子どもである。


「てことで。クロジ隊員、むっちゃん隊員、本日のパトロールに行きますよ」

「今日からかよ」

「あたりまえでしょ。あ、あたしのことは『隊長』と呼ぶように! では、しゅっぱーつ!」



 ☆



 翌週の土曜日。


 おれが行く必要はないと思った。あの子がどこの子なのか、名前すら知らないのだ。先週はなりゆきで街をあちこちひきまわされたけれど、この先つきあう義務はない。というか、深夜に小学生と歩きまわるなんて、ヘタしたら誘拐犯扱いされる可能性だってある。そう思った。そう思ったのに。


「クロジ!」


 薄白い街灯の下で猫とじゃれあっていた女の子は、おれに気がつくとパッと笑顔になった。



 ☆



 自分が行かなかったせいであの子に万が一のことがあったら寝覚めが悪い。それに、子どもの遊びだ。きっとすぐに飽きる。そんないいわけじみたことを考えながら、おれの足は次の週も、またあの駐車場に向かっていた。


 ほんの三十分。あの子を隊長としたパトロールは、おれにとってはちょっとした冒険のようだった。


 あの子が特別なのか、それとも子どもはみんなそうなのか。このへんの裏通りは迷路のように複雑なのだが、あの小さな『隊長』は、どこの道がどことつながっているとか、抜け道などに驚くほどくわしいのである。それに、あの子といるのは不思議と苦にならない。



 そうして一か月。



 おれの日常は変わらない。

 起床時間は午前二時。


 おれは人と会いたくない。人と話したくない。けれど空が明るいときは、どこに行っても人がいる。だから、出かけるのは深夜になってからだ。


 特にコースはきめていない。しかし一か所だけ、必ず立ち寄る場所がある。裏通りに面した月極駐車場。そこにはおれの数すくない顔なじみがいる。でっぷりもっちり、やたら貫禄のあるサバ白のノラ猫むっちゃんと、お転婆小学生の隊長である。


「クロジ!」


 ちびっ子隊長が笑顔で駆け寄ってくる。猫のむっちゃんが「なぁー」と鳴く。


 週に一度。パトロールという名の小さな冒険が、今日もはじまる。



     (おしまい)



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午前三時の小さな冒険 野森ちえこ @nono_chie

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