第6話
彼は、老臣をそっと横たえ引き寄せられるようにして女魔導士の傍らに座った。声を殺して泣く彼女をこれ以上罵ることは、もうしてはいけない気がした。
「そういうものなのか。本当に泣くのが初めてなのか?」
心からいぶかしく思いつつ大公は聞いた。
「俺のところへ箱詰めにされて運ばれるのだって、嫌なことだったろう。なんで今ここで泣くのだ」
「わかりません。ここであなたにお会いしてからです、あなたが私の姿をご覧になってからです」
それから女魔導士は老臣に呪いの毒をしみこませてしまったこと、その時は平気で忘れていたこと、今それをどうにか治したいがもうどうもできないことを、つかえながら、何度も話を前後させながら話した。
大公はどきりとした。彼は他人の不幸にいちいち共感する人物ではなかったが、目の前の少女がなにか本気で苦しんでいるのは分かった。ましてや自分に会ってからとは、まるで恋の告白のようにも聞こえる。
少女は――この時不覚にも、大公は女魔導士を少女として見てしまった――泣き止まず、それがどうやら自分のせいであるらしいのを、彼は不思議な気持ちで眺めた。
☆
女魔導士の恋は、傲慢な大公が彼女をふつうの少女として認識したときに成就した。大公が困惑した表情で自分を見つめているのを知り、女魔導士は泣き止もうと努力した。
そんな彼女を見ながら、大公は言った。
「おまえ、名を持て」
それから大公は明るい声で言った。
「自分で名づけろ。そうだ、ここで会ったのも縁だ。俺も考えてやろう。……いっしょに考えてよいか?」
しょせんは高貴の生まれの尊大であるはずの大公は、彼女に許可を求めた。彼女は驚きながらもかすかにうなずいた。彼は、少女の許可を得たこと、ともに名前を考えられることに、わくわくと嬉しい気持ちになった。
――実はこのときすでに、宰相の放った魔導士たちが、この森の中に大公がいることを嗅ぎつけて、すぐ側まで迫りつつあった。そんなわけで女魔導士、いや少女が思いがけない喜びに、その永遠に暗いままであろうと思われたすみれ色の瞳を輝かせることができたのは、ほんの一瞬に満たなかった。
大公が覚えているのは、少女が突然表情を一変させて、刺客がすぐそばに近づきつつあることを大公に告げたこと、彼が剣の柄を握りしめつつ老臣を助け起こそうとしたとき、ふいに頭に奇妙な衝撃があり、身体が麻痺し意識が遠のいていったことだけである。
目が覚めると大公はやはり森の奥のさらに深い茂みの中にいて、まだ生きていた。いつの間にか夜が明けて、あたりは朝の光を含んでほの明るかった。
森はやはり密度の濃い見晴らしのない場所だったが、木々のざわめきと厳しいまでの清らかな空気に満ち溢れ、あの女魔導士の姿も追手の姿も見えず、何も感じることができなかった。いったい、何が起きたのかといぶかる大公に、老臣は動揺を隠せぬ様子で言った。
あのとき少女は大公を魔道の技で気絶させた。それから驚く老臣に彼女は言った。彼女は落ち着いていて、凛として見えた。
「この方を逃がします。あの藪の中に隠れて、この衣をかぶっていて」
言われるままに主を抱え藪に転がり込み、自分と主ごと長衣をかぶると、少女は走り出した。枝が衣服を裂き、ときどき下草や石につまづいてよろけながらも彼女は走っていく。真の闇のはずなのに見えた。そのうちに歌が聞こえてきた。少女が歌っているようだった。楽しそうに歌っている。頭がどうにもぼんやりしてきて老いた彼は気を失った。その直前に遠くのほうで、銀色の閃光と、朱色の火柱が激しく光った気もする。今から考えると、魔道士は人の意識の流れを追うことができる者もいるという。もし自分と殿下に意識があれば、隠れていてもすぐに見つけられてしまったのではないだろうか。あの娘が魔道の技で自分たちを眠らせたのではないか。……
老臣はそう大公に語った。
数日ののち大公は老臣と森を抜け、ほどなく反宰相派の貴族の館に迎え入れられた。大公と共に辺境の戦に出陣した下級貴族だった。森に慣れている彼の配下の者たちが大公たちを探し出したのである。
もちろんその下級貴族は、大公の屋敷でゆるい謀反の計画を述べた貴族ではなかった。
☆
女魔導士が森で死んでからしばらくして、巷では不思議な歌が流行りだした。
真珠の小川 瑠璃の山
珊瑚の洞窟 象牙のお城
瑪瑙の塔に 黄金の寝床
蝶の姫君 独り歌う
といった歌詞で、ほとんど意味がなかった。が、その旋律は多くの人の心をとらえたようで、ついには宮廷にまで流れるようになった。音楽好きの皇帝の耳にそのしらべは快く響いたとのことで、庶民の歌が皇帝をも楽しませたという帝国末期の文化の爛熟度がうかがわれ、良いことではあった。が、この歌詞の通りの庭園を造ろうと皇帝の側近が言い出したのは、あまりよくなかった。
帝都の湖の南岸がその場所にあてられた。その付近に住む民は当然のように追い立てられて家を打ち壊された。真珠と珊瑚を得るために、沿海の洲は誰もが海に潜らなければならなかった。なにしろ皇帝の注文は大量の真珠を、の一点張りだった。金銀、瑠璃やメノウなどの宝石の鉱脈を持つ州は、畑を捨てて鉱山に入るよう強制された。象牙はそもそもゾウがこの大陸にはいなかったので、大金を投じて遠い遠い異国の地から贖われた。このように非常に大量の財宝類が、皇帝のもとにあつめられた。
ところがいくら財宝を集めても、都からはまだ足りないと言ってくる。そのうち地方官など、帝国中の官吏たちが人命よりも皇帝の命を重んじだした。嵐で荒れ狂う海や豪雨の降り注ぐ山に、人々は追い立てられ宝玉類を集めさせられるようになった。さらには頻繁に増税が通達されて、ひとびとは皆絶望に顔を見合わせるようになった。
宰相はまだ、皇帝の道楽が無邪気でたわいのないものだと信じ切っていた。彼はもちろん、自分の地位を脅かす存在に関しては常日頃から注意を払っているつもりだったが、それはあくまで身近な貴族高官が対象で、帝国の民はその範疇でなかった。彼らが人で、人であるからには飢えたり憤ったりすることを、宰相は多忙のためうっかりと失念していた。宰相が、皇帝の道楽がすでに道楽の域を超えて帝国の財政をひっ迫させていることに気付いたのと(残念ながら、彼は国の民を呻吟させていることは最後まで思い及ばなかった)、各地でいっせいに謀反が勃発したのとは、ほぼ同時期である。
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