第5話

「おまえは皇帝陛下からの褒美だった。だからおまえは宰相の手の者だろう」

 女魔導士は自分があのとき毒を盛るべきだった相手が、今逃亡している大公だったのだと理解した。

 皇族の若君は掃いて捨てるほどいる。大公はその中でもひときわ抜きんでた人物、帝国に従う弱小国の妃から生まれたくせに突出した才を持ち、年の近い皇帝にひどく嫉妬されている人物とされている。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。なぜだろう、あの天幕で出会った時はこの人を「調略する相手」としか思わなかったはずなのに。あの時大公は皇帝の贈り物を受け取るために麗々しく正装した美丈夫だったが。今の彼は髪を乱し、土に汚れて、怒りと焦燥をその身にたぎらせ、何も持たない、もしかすると命さえもう無いも同然の身の上に落ちぶれているというのに。なのにこの男は、生き生きとしてまぶしく輝いてさえ見える。楽しそうにすら見え、自分は炎の前の蛾のように惹かれてしまう。なぜなのか、いくら考えても彼女にはまったくわからなかった。

 とにかくこういう場合、魔道士ならばどう答えるのがいいのか、またどうやって逃げるかは何通りも方策が決まっている。しかし彼女は、そのうちのどれも思い出すことができなかった。彼女は恐れながら大公を見た。

 彼女は自分が恋をしているという自覚が無いわりに、この恋が決して自分に幸福をもたらすものではないということを瞬時に悟った。大公を見るとひどく不安定な気持ちになり、それがひどく苦しかった。大公の方は、彼女の記憶には一切斟酌せず、さっさと話題を変えた。

「おまえ魔導士だそうだな。俺を追ってきたのだろう」

 彼女は答えられなかった。焚火の炎は彼女にとってはあまりに明るく、自分の姿を照らし、大公の真冬の空気のような瞳に否応なく映ってしまうからである。

 ふいに強烈な羞恥と自己嫌悪が彼女に襲い掛かってきた。大公は彼女の細いあごをつかんで強引に仰向かせた。大公が自分の顔を見ていると思うと恐ろしく、今にも息が詰まりそうだった。

 そして、彼女は自分自身を深く嫌うことによって、ついに明確に自己というものを知ってしまったのである。

 一方女魔道士がその内面で大きな変化の波にもがいているとも知らず、またそれが自分のせいだとも知らず、大公は名案を思い付いていた。老臣がさきほど説明した通りなら、この魔導士の衣を利用できるのではと考えたのである。森や岩や町並みに溶け込んでしまえると、老臣は言っていたはずだ。少なくとも、怪我をした者一人くらいなら助けられるのではないだろうか。この手負いの年寄りは、逃げるには足手まといである。

 大公は彼女の縄をほどいた。

 大公の意図が分からず女魔導士は身をすくませた。しかし大公は無言で無理やりその暗灰色の衣を脱がそうとする。彼女は混乱した。この衣の下は、町娘風の簡素な木綿のドレスだったが、そんなことが問題ではないのだった。

「消えてなくなろう」

 とっさに女魔導士はそう思った。様々な魔道の技を自分に向けて同時に、そしてめちゃくちゃに放った。それらは偶然と偶然が重なり、さらに必然も重なって、ただただ銀色の氷の結晶が冷たく乱舞し、きらめく炎の粒がふわふわと無数に浮いただけだった。またしても彼女は失敗した。

 大公は驚いて手を止めた。それから驚いてしまったことに立腹した。腹立ちまぎれにほとんど引き裂かんばかりにその長衣をはぎとった。

 すると――闇の中にまるで手品のごとく、少女が現れた。

 長いつややかな紫がかった黒い髪、白い肌とすみれ色の瞳。失敗した術の名残がきらきらまたたいて彼女を照らし出した。肩も手も足もきゃしゃだった。老臣を手当したという言葉がふいに腑に落ちた。

「なんだ」と大公は思った。

 ふつうの、人の娘ではないか。そして、ふつうに美しいと大公は思った。そのときふいに、彼の脳裏にあの蛹の姫の物語がよみがえった。大公は氷の粒と炎の粒が淡く照らし出す女魔導士をしばらくのあいだ見つめつづけた。

 もう一瞬大公が身動きしはじめるのが早かったら、女魔導士は魔導士たちが危急の際に自死する方法をちゃんと思い出して、消えてなくなるという願いを完遂させられたし、そうして、帝都の宮殿で眠っているはずのまだ若い皇帝が、現王朝最後の皇帝にならずに済んだのだったが――。

「おまえは名前をなんという」

 大公にこう聞かれ、叱られたかのように身を縮めて女魔導士は言った。

「名前はありません」

 大公は驚いてしまった。確かに草原の国では、食べて消耗してしまう生き物にはいちいち名などつけない。むくむくと「気に入らない」という気持ちが湧き上がった。氷や炎を操る術も持っているくせに、目を伏せておどおどしているのも気に入らなかった。

「虫かなにかのようだな、名も無くてよく正気でいられるものだ」

 いらついた気分が高じてくるのを感じつつ、大公は女魔導士の顔を覗き込んだ。

「まさか俺の同情を引こうと作り話をしているのではあるまいな」

 その言葉を受けた彼女の顔に浮かんだ表情は、ひねくれた大公を気まずい気分にさせた。彼女は名前が無いということが、なぜ他者の同情を買うのかよく分からない様子だったからである。

「まあべつにいい」

 大公は眠っている老臣にそっと長衣を着せかけた。

 それから用心のために、大公は女魔導士を再び縛り上げた。彼女は黙ってなすがままにされている。その身体はきゃしゃで細く、白い細いあごから首筋にかけての柔和さを見ると用心などと言って縄で縛りあげるのがばからしくさえなる。結果ずいぶんと甘い縛り方になった。

 大公はべつに彼女に同情したわけではなかった。魔道の是非はともかく、このような虫けら同然の生を義務付けられている者がいつの時代もいるものだ、と高貴の人らしく残酷に結論づけた。しかし、先刻蛹の姫君の物語を思い出したこともあって、この奇妙な女魔導士がいったいなにを考えているのが、大公はきまぐれで聞いてみたくなった。

「お前はあの時、なんで箱の中に入れられたか知っているのか」

 わからない、と悄然として答える彼女に、大公は手短に蛹の姫の話をした。

「それなら知っています。……ですがそれをまねたものだとは知りませんでした」

 彼女の答えに大公は嘆息し、嘲笑が浮かんできた。

「なるほどな、物事と物事を己で結び付けて考えることができないのだな。知っているのに、それでは知らないのと同然だ、いや、魔道士ならその方がいいのだな」

 少女はうつむいてしまった。

「ほう、俺がお前を嘲っているのは分かるのか」

「分かりません」

 大公は失笑した。女魔導士の目から涙があふれてきた。

「泣くな、うっとうしい。とにかく、俺は逃げる。この長衣はもらうぞ」

 大公は老臣を長着でくるんだ。どこかの村にでも、捨て置いていくつもりだった。

「気分が悪くなりそうだから、お前は殺さないでおいてやる」

 女魔導士の目から、涙が流れ続けている。老臣の身体を包んだ長着が突然、ほの暗く光って森の闇と同じ色になった。大公は目を見張った。

「おまえがやったのか」

 女魔導士は答えない。その暗いすみれ色の瞳から涙のしずくがあとからあとからこぼれてくる。

「泣き止め」

「わたしは泣いているのですか。どうやって止めたらいいのかわかりません」


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る