第4話

 とはいっても、ここは彼のよく知らない土地だった。どこまでいっても鬱蒼と木々が生い茂り、見晴らしの悪い事このうえなかった。早晩宰相の手の者が、自分を見つけてしまうことはまずまちがいなく、「こうなると生きているというよりは、まだ死んでないといったほうが適切だろうか」と彼は考えた。

 しかしもうそれ以上考えるのは止めた。無駄だからである。

 さて、この女魔導士はいったい何者だろうか。

 何者とも表現しない簡素な、暗い色一色の、首から足先までを覆い隠す長い衣をまとっている。顔が、整った少女の顔だけにいっそう不気味に見えた。

 老臣がこの小娘を魔導士ではないかと言ったときは、納得すると同時に不快な気分になった。彼が都で気に入らないものは数々あったが、その中でもとくに嫌いなものが魔導士たちの存在だったからだ。

「とりあえず、始末してしまおう」

 陰鬱に大公が剣を抜こうとすると、なぜか老臣は首を振った。

「殿下、こんな場合にこそ人を大事にせねばなりません。あなたはそれができる御方でございます」

 終始暗い表情だった大公は、屋敷を逃げ出してからはじめて明るく笑った。

「それこそこんな場合に、よくまあ変わりばえのしない説教ができるな。第一、魔導士は人じゃないのだろう」

「たしかに、宮廷の方々は皆そう言いますな。犬とさほど変わらぬ者とされます」

 草原で生まれた二人には、あまり理解のできないことだったし、そもそも知ることも許されていない。老臣の方が、長く生きている分大公よりも宮廷のことをよく見知っていた。

「わたしからみたら、素晴らしい不思議の力を持った者たちでございますが」

「火や水や風を使うあの不気味な力だろう。あれをもっと、広く誰でも使えるようにすれば良いのに」

「とにかくまだ間諜と決まったわけではありますまい。その少女が我々の命を狙うなら、どうして今こうしていられるでしょう。この者は、わたしを手当てしてくれました」

 大公はしばらく考えてから、女魔導士を殺さないことにした。少女を殴ったことに一抹のうしろめたさを感じていたせいか、彼女が魔導士だと分かったとたん大公は乱暴に彼女を縛り上げた。外見は美しい少女だが魔導士など、うすぎたない存在である。老臣は痛ましげにをれを見やっていた。彼らはそのあと枝葉の生い茂る大木の下に小さな焚火を囲み、貧しい食事をとった。そうしてひとりずつ眠ることになった。

 しかし、大公も老臣も疲れ果てていた。彼らの疲労は、体の酷使よりも精神のそれから来ていたので、いつしか二人とも眠り込んでしまった。

 大公が苦しい夢を見て目を覚ましたとき、火は消えかかっていた。魔物がすぐそばまで忍び寄って、息を殺して待ち構えているかのような、不気味な匂いが闇の中に立ち込めている気がした。まだまだ夜明けまでは間がありそうである。大公はもう眠るのをやめた。こうして大木の木の根の合間に身を横たえていると、棺桶の中に入っているような気がした。ふと、幼いころ好きだったおとぎ話を思い出した。草原の国に昔から伝わる神話の一つで、箱の中にいるお姫様の話である。いや、蛹の中の姫君というべきか。



 ――荒々しい騎馬の民らしからぬ、笛を吹くのが好きなおとなしい王子がいた。激しい野分の吹いた翌朝、天幕の前に小さな蝶の蛹が落ちていて、王子はそれを拾ってきれいな箱の中に花といっしょに入れておいた。蛹が孵化すると、蝶ではなく女の赤ん坊になり、王子は彼女を姫として育てる。しかし姫は口がきけない。あるいは足が悪く歩けない。あるいは目が見えない。—-その辺りは部族や地域によって言い伝えが異なる。ともかく笛の好きな王子は蛹の姫をいつくしんで育て、姫は王の危機に不思議な力を発揮して王を救うのだ。ある話では異国の軍勢を追い払い、またある話では国中に広がった疫病を治癒し、またある時は荒れ狂う自然をおさめてくれる、という筋書きである。

 大公はどういうわけか、幼いころからこの蛹の姫の話が好きだった。小さな場所に、かわいらしい美しいものがちんまりと入っている感じがただただ好きなのだ。

 これを皇帝が聞き知ったらしく、皇帝からの褒美だというので、戦場の天幕に女を遣わしてきたことがある。

 そういうどうでもいい趣味嗜好を、魔導士を使って探らせたのに違いなく、ただひたすら不快であった。恥ずかしくもあったし、薄気味悪くもあった。ご丁寧に女はたしか、箱の中に花や宝石とともに詰め込まれて運ばれてきたのだった。いかにもそう年の違わない、美しいもの好きな皇帝が考えそうな幼稚なことで、しかしまあそれはそれでけっこうおもしろかったのだが、礼だけ述べてすぐ追い返した。

 ふと大公はその時の様子を思い出した。そう遠くもない過去である。

 それから、確信をもって身を起こした。あの箱の中の女は、この女魔導士によく似ている。

 大公は立ち上がって、傍らの老臣を見た。彼は苦悶の表情を浮かべていたが、眠り込んでいるようだった。それから、冷たく湿った地面に倒れ伏した魔導士を見下ろした。うつぶせになっているので顔が見えない。その長い髪をつかんで、彼は魔導士の顔を焚火に近づけた。



「おい、起きろ。おまえはあの時、箱に入って俺に贈られてきたものだろう」

 女魔導士はもうかなり前から、すでに目を覚ましていた。そもそも自分がなぜ、あの老臣を何も考えず手当てしたのかも、その時すでに思い出していた。

 そう遠くない過去、初冬のことだ。遠い辺境の戦場まで、宝石や造花とともに箱に詰められて送られたことがある。べつに高貴の人に気に入られなくてもいい、ただ高貴の人が興味をもち、ほんの一瞬だけでもよいから、指先一本だけでもよいから、己に触れさせるよう命じられた。

 それはもちろん手の込んだ術で、大公が触れたとたんに女魔導士の身に宿された呪毒が彼に染みこみ、緩慢な死、けれど早すぎる死をもたらすはずだったのだが。

 しかしそれは失敗した。

 失敗したのはこの老臣が、彼女の腕を大公より先につかんでしまったからだ。主が皇帝から賜った贈り物に、主より先に手を付けるなどありえないことだった。

 呪毒はあっという間に老臣の体へと染みこんでしまった。

 老臣はただ薄絹しかまとっていない彼女に、草原の人々が着る防寒具を着せようとしただけだった。凍え死んでしまう、と彼は朴訥に言った。

「まあよいか」とその時は思ったのだ。死はいつか訪れるし、この老いた人の良い忠臣にとってはそう遠くない未来のことだろうと思ったのだ。


 

 

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