第3話
「口がきけぬのか、この盗人は」
大公は冷酷に笑って、小柄な盗人を殴りつけた。盗人は声もなくぐったりとなり、首をのけぞらせて倒れた。
大公は焚火の火を起こしてみて、その女魔導士の白い顔ときゃしゃな喉元を見て目をみはった。
「女か?」
大公が気絶した女盗人をぞんざいに抱き起してみると、長い髪の柔らかい感触と細い肩とが、大公の疑問に雄弁に答えていた。
「まだ小娘ではないか」
自分も若造なのに、と大公はおかしくなった。それから、いくら分からなかったこととはいえ、女を殴ってしまったことを不快に感じた。先刻殴打した際の力は、自分がいま抱いている女盗人にふるうには狂暴に過ぎたものだった。
「まあしかたない。こいつはなんだ?身なりからして、町娘でも村娘でもないな。貴族の娘でも侍女でもなさそうだ」
その疑問に、彼の老いた忠臣は、自分の胸の傷を指し示して言った。
「殿下、わたしの傷をこのように手当てしてくださったのは、あなた様でございますか」
「手当?」
「この娘が手当したのならば、いったいどういうことでしょう。この娘は帝国の魔導士の衣を着ています」
老臣はさらに説明した。帝国の魔導士は人目をあざむくために魔道を編み込んだ糸で暗い灰色の衣服を作り、壁や森、土にまぎれてしまえるのだと。
老臣が静かに言うのを聞いて、大公はまじまじと得体のしれない女魔導士の顔を見た。
大公はすぐにその体を地面に置いた。そうしてみると、女魔導士の姿はなお一層か細く見えた。
☆
大公は確かに文武ともに抜きんでてすぐれた愛すべき青年ではあったが、巷間の噂に比べるとじっさいはもっと人が悪かった。母親の生国は宮廷では重要度が低い国とされ、大公は皇子だったときもあまり顧みられず、ほとんど草原の国で暮らした。結果厳しい自然が造り上げた大公の鍛えられた風貌は、それとまったく相反する現皇帝の軟弱ぶりを強調し、おそらく事実以上に大公の評判をよくしてしまったのだろう、噂はひとりあるきして、方々で尾ひれがつけられた。
自分の麗しい評判を聞いて、大公は己が二人いるというおとぎ話を思い起こして、陰気な楽しみを感じたりもしていたのである。
もともと彼はすこしばかりひねた若者で、武勲を続けざまに立てて都で暮らすよう命じられてから、宮廷にうずまく陰謀をいやというほどみせつけられた。なにより彼はまだ若かったし、武勲だとて側近や兵士たちに助けられてのことで、供に恐怖を押し殺して戦い、必死で奇跡的に得たものだ。それが鳥の羽よりも軽く扱われる宮廷というものを見て、ますますひね具合に磨きがかかった。
頭の良い彼だったので、巻き込まれるということはなかったが、宰相との勢力争いに敗れた貴族たちがひそかに結託して自分の元を訪れ、我欲丸出しの見通しの甘い謀反の計画をとうとうと述べたてるようになりだしてから、さすがにたかみの見物と決め込むわけにはいかなくなってきた。さてどうするかと悩んでいると、この騒ぎである。
「さすがに宰相どのは処置が早い」と、森の暗闇の中で大公は好青年風の顔に似合わない皮肉な笑みをもらした。
彼はあまり権力を欲しなかった。生まれ育った草原の国では、今年生まれた仔馬の数だとか、雨量や風向きなどを心配していればよかった。それはじぶんたちの命に直結する問題だったからである。
それに比べると帝都はたしかに気候も温順で、すばらしく堅固で美しい石の壁に守られ、きれいな水の流れる水路や、立派な道路が方々に張り巡らされ快適で、食物をはじめとしてあらゆる品が大陸全土から運ばれて、とても豊かな場所だった。もちろんその豊かさの維持のためには多くの労苦が影にあるのだが、宮廷ではそれらは日々の現象のなかに埋没してしまっていた。そんな帝都において認識されるところの権力など、彼にはたいして価値のあるものとは思えなかった。肥え太って特権の享受を当然のこととしている醜悪な貴族どもに招待されて、ひととおり女や、芸術、狩りや美食だのを楽しんだりしたが、それもいつか飽きてしまって、それらを楽しむための財をなすことにもあまり興味が持てなかった。
どうも大公は物分かりが良すぎるきらいがあると母妃や忠臣たちはすぐに見抜き、彼にさまざまな忠告をした。宮廷において利用される側へと陥るのではないかと彼らは心配したのである。そういわれても、なまじ特権階級に生まれたことは賢い彼から強烈な上昇への情熱を奪ってしまったようで、そのことは彼も自覚していた。
自分の弱点はおそらくそこにあって、同時に強みでもあるといえるが、権力や富を欲し得ないということは、なんとも退屈なことだった。
そこへこの事件、この災難である。大公はなぜかわくわくとしていた。そもそも元から持っていた性質なのか、変化を常に期待し安定を嫌うという気持ちが、ちかごろでは全ての欲望に取ってかわっていきつつあったからである。
つい先日も、黄金と絹と花と酒にあふれた屋敷の中で彼は、以下のようなことをよく考えていた。
「人は独自の体内時計を持っているというのは、目新しい考えではないが、俺の中の時計は繰り返す時間というのにうんざりとしている」
それから続けて彼の考えは飛躍する。
「時間とは直進するものであり、変化するものである。変化とは、俺のうちでは建設や前進と同等のものだ。と、同時にそれは破壊とも交換可能ではないか」
帝国はいまや爛熟の極みにあった。安定と保守の醜悪な花がむせかえるような芳香を放って、上層どころか下層にまで染み渡りつつあった。
「俺にしてみれば、帝国の時間はいまや反復運動に堕している」などと、銀狐の毛皮がしきつめられた寝所で遠い遠い南国の果物をつまみながら思ったものだが、数日後のいま、泥と濡れた落ち葉にこの身を横たえても、同じことを思う自分を大公は発見していた。
それでまことに不謹慎な話だが、彼は心中ひそかにこの状況を楽しんでいたのである。
それにしてもどうしたものだろうか。なんとか屋敷から逃げ出したのは良かったが、途中で刺客に襲われて大切な家臣の何人かを失ってしまった。大公は傷を負った老臣をみやった。幼いころから慈しんでくれた者に、怪我を負わせてしまった。
草原の国に逃げたところで、おそらく何も解決するわけでなし――第一、あの小国を巻き込むわけにはいかない。彼は母の故郷に逃げ帰る計画を、そこであっさりと捨て去った。
かといって、唯々諾々と殺されてやるのは業腹である。
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