第2話

 大公邸が禁軍に包囲された日の夜、女魔導士はぼんやりと夜道を歩いていた。彼女は大公が謀反の罪に問われ、現在逃亡中であることや、彼女の属する組織の魔導士たちがその探索にあたっていることなども知っていた。彼女はもちろんその任務には今のところ携わっていない。ではなんのために夜道をふらついているのかというと、彼女自身もよくわかっていなかった。

 ただそうしたかったとしか言い様がなく、ここしばらく彼女はこうして夜道を歩かずにはいられない気持ちに駆られて、ある夜は月明かりの下、またある夜は雨のそぼ降る中、なにを考えるでもなくただただ歩くと言う夜を過ごすことが多かった。

 その日は闇夜だった。はるか頭上に厚い雲が横たわり、月や星の儚い光をさえぎってしまっていた。それでも彼女はごく初歩の魔道の力で夜目が効き、フクロウのくぐもった鳴き声を近くに遠くに聞きながら進んでいった。必用のない限り魔導士は定めれられた服装でいなければいけない。それは何の飾りも無い暗い灰色の衣で、糸に編み込まれた魔道で人の目をくらませて景色に潜むことができた。そうした不気味な衣をまとって、彼女は静かに静かに歩いていた。

「もうすぐ冬が来る」

 秋の夜風の中に、かすかに冬の匂いが混じり、それが夜ごと微量ずつ増えていくのを彼女はそっと味わった。精巧な銀細工のような冬の香りが彼女は好きだった。

「……?」

 夜気の中に異質なにおいがあった。彼女は頭巾で覆われた頭を巡らして、黒い森の中の気配をうかがった。これは、人間の血の匂いである。彼女が魔道を使っての仕事で、さんざん嗅いできた匂いだった。

 夜の森は、人外の技で造られた巨大な伏魔殿に見える。暗闇に住まう彼女にとっては恐れるものではなかったが、普通の人間が深夜に訪れるには勇気が必要な場所だろう。血の匂いがする、ということは誰かがケガでもしているのだろうか。彼女は人助けというよりは、単純な興味で森の奥へ入っていった。血の匂いが近づくにつれ、低いうめき声が聞こえてきた。

 狩人か旅人か、道に迷って傷を負ったのだろうか。もちろん彼女はその傷の程度によっては見捨てるつもりで、苦悶の声の主を見るために藪の中を進んで行った。

 そうしてようやく見つけ出した。消えかけた焚火の側に人が二人、倒れ伏している。彼女は小さな鬼火を呼んで、彼らの姿を照らし出させた。

 呻いているのは老人だった。そうしてその側に、若い男がいた。疲れ切っているらしく、老人の呻吟の声も耳に入らないくらい眠り込んでいた。

 女魔導士は、苦しむ老人にそっと近づいた。老人の負った傷は刀傷のようだったが、携帯する薬草や感覚を鈍くする魔道の技で手当てをした。すると少し楽になったのだろうか、老人は目と表情で彼女に感謝を伝えた。そして、そのまま意識を失うように眠り込んでいった。

 人間が、物事を潤滑に遂行するためによく使用する、今のような真摯で素朴な優しい態度や言葉。それらが、時折仕事の経緯の中で、何も知らない町の商人や村の農夫婦、貴族の侍女や御者といった人々から彼女にも投げかけられることがあって、それらはいつもふいうちで、彼女をひどく不安にして、暗い気持ちにさせた。

 気を取り直してよくよく見ると、老人は身なりもよくその人品も卑しからぬ様子で、さすがに女魔導士はおかしいと思った。彼女は多少はやる気持ちでふりかえって、若い男の顔を覗き込んだ。もしかして、例の逃亡中の大公ではないか――。

 感情を弛緩させることが大前提の帝国魔導士に、ひとめ惚れなど起こりうるのかどうか。第一、ひとめ惚れとは赤面や動悸をひきおこすのが一般的だけれど、どういうわけか彼女の場合は青ざめて、心臓が停止した、あくまで彼女の気分だけのことだが。

 誰か他人を好きになるという劣情は魔道での諜報に利用されるだけのもので、許されないどころか、自分がそのような感情を持ち得ることさろくに認識していない彼女であるから、しかたのないことだった。自らの感情に混乱させられて、彼女はほとんど恐怖に近い思いで眠る男の顔を見つめた。

 日に焼けた精悍な顔立ちだった。その金色の髪は日焼けのせいか毛先が白っぽく乾いていた。悪い夢を見ているような表情だった。額が広く、顎の辺りに高貴な人の酷薄さが感じられた。

 現在感じているものが一体なんなのか理解できないうちに、女魔導士の心に悲しい気持ちが湧き上がってきた。

 つまり、これが彼女の非常につたない初恋だった。

 非情な訓練と魔道の技を以て感情を無効化された帝国魔導士も、こと恋愛に関しては普通の娘と変わらず、愚かしくも美男に参ってしまうものらしい。

 気配を消すことは、彼女には息をするのと同じくらい自然なことだったはずなのに、彼女はそれを醸し出してしまった。今は朝敵となった大公はふと目覚めた。大公は辺境で小さな戦場をいくつか経験している若者でもあるから、人の気配には敏感だった。

 彼は無言のまま、自分をうっそりとみつめている黒い小さい人影に襲いかかった。あっという間に女魔導士は地べたに顔を押し付けられていた。

「おまえはいったい何者だ?」

 そう聞かれても、力まかせに抑え込まれては声も出ない。どうもこれは面倒なことになってしまった。と、同時に女魔導士は男が目を覚まして、つまり自分を見ているのだということに気づき、妙に心が騒ぎ立つのを感じた。彼女は見られたくないととっさに思ったのである。それも痛烈に。一瞬、彼女は自分が非常に醜悪でおぞましい姿をしているような不安に駆られたのである。

 彼女はすぐに鬼火を消し去った。

「殿下……」

 老人がただならぬ気配に目をさましたらしい。その言葉で、女魔導士は自分がやはり逃亡中の大公を見つけてしまったのだと確信した。

 帝都の屋敷を脱出してのち、大公はこの老臣とともにこの帝国の中央部に広がる丘陵の森林地帯へと逃れたのである。そうして森伝いに北上し、彼の母の故郷である草原の国をめざしていた。

 負傷している忠実な老臣に、大公は暗い声で言った。

「おおかた盗人だろう。……答えろ、お前は盗人か?」

 大公にそう聞かれても、彼女はひどく混乱してまったく口がきけなくなっていた。彼女は逃げることなど頭に無かった。この場から逃げられる魔道の技をいくつも知っていたにも関わらずである。

 それよりもこの人をもっと見ていたかった、と同時に見たくなかった。あきらかに女魔導士は混乱していた。

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