第2話 それはマンションの地下にある

―2―


 古澤尚人はどこにでもいる21歳だ。

 見た目は至って普通の中肉中背。

 どこにでもいる、つまりはどんなものとでも同化して馴染むことのできるタイプである。

 行くあてもなくふらふらしていたところを渡辺さんの黒い手紙に誘われて、2年前からここにいる。

 手先が器用なので機械工具類などを担当している、いわば裏方だ。

 無職なので家事全般も彼の役目になっている。

 そして、今彼の目の前で、堂々と下着姿でクローゼットを漁り、今夜の仕事着を見繕っているのが、

 中原絵里。24歳。

 大きな会社の受付嬢をしている、美人で派手な外見の女だ。

 彼女は持ち前の美貌もさることながら、もはや特殊メイクの域に到達しようとしている変装の達人でもある。

 主に覆面担当。要するに情報収集と囮役を担っている。


「ねぇコレどっちが良いと思う?」

 絵里が両手に、ハンガーに掛けたままのワンピースをふたつ持って尚人を振り返る。

 風呂上がりだからすっぴんのはずだが、彼女の高い鼻と濃い睫毛、赤みがかった唇は、それだけで既に彼女を美しく見せた。

「豚だっけ? 今日」

「違うのよ、豚の知り合い。子豚ちゃんよ。外堀から埋めるんだってさ」

 絵里がさも面倒くさそうに、唾でも吐きそうな面持ちでずいっとふたつのワンピースを掲げてくる。

 尚人は一歩引いてうーんと唸ってから、白と黒とピンクがまだらになったような色味のものを指した。

「こっちじゃね? 初回だろ。そっちの黒っぽいほう、あからさまだしな。さっさと着ろよ髪セットしてやっから」

「ピアスちゃんと隠してよ」

「当ったり前だ。俺の自信作を見つかって壊されたらたまんねぇかんな」

 絵里はさらりとした着心地のそれをさくさくと身に纏い、ドレッサーの前に座って化粧を始めた。

 どの引き出しにも大量に入っている化粧品の中から、今夜の相手に一番相応しいものを選んでいく。

「あの人あんな顔で清楚系が好きなんですって」

「あんな顔だからだろ。ああいやいや、まあそう言ってやるなよ、顔と趣味嗜好は別物だ」

 尚人は絵里の後ろに立って、絵里のふわふわした長い髪の毛をブラシで梳いていく。

 清楚系、清楚系、と意識しながら、わざとらしくない程度にその髪を結う。

 耳元は隠すように髪を垂らした。

 絵里がつけている少し大ぶりな白と金のピアスは、尚人が自作した超小型の通信機だ。

 1、5キロ圏内であれば音声をお互いに送り合うことができ、そのデータは尚人自作のデータ管理システムに保存される。

 だから絵里が仕事に行くときには尚人も車で近くまで追跡していることが多い。

 今日も時間差で出てGPSを頼りに追跡をしなければならない。

 今日は現場の近所にネットカフェがあるから、仕事を終えるまでそこで籠もっていてもいい。

「それにしても毎度思うけど、全部筒抜けっていうのも微妙よね」

「安心しろー。耳元にお前の喘ぎ声が響いてる俺もいつも微妙だ」

「ま、それもそうよね。お互い様か。じゃあしっかり聞いといてよ、子豚ちゃんの情報。あ、結季帰ってきた」

 広い玄関ホールで乱暴にドアを開閉する音がして、絵里がそれに耳聡く反応する。

 開け放しだった絵里の部屋のドアの前に現れたのは、学校から帰ってきた槙野結季だ。

「たっだいまー。あれ、絵里ちゃん今日仕事?」


 槙野結季は16歳の女子高生だ。

 陸上部に所属している。

 肩までのところで切り揃えられたまっすぐな黒髪に、大きな釣り目。

 我が強く態度は横柄で、彼らの中では主に体力面を担う、いわゆる主力実践部隊である。


「そうよー。結季はこれから走り込み?」

「うん、風呂して着替えたらね。尚人唐揚げは?」

「まずは持って帰ってくれて有難うだろお前」

 尚人が横目にじとりと睨むと、結季はさも馬鹿にしたような目で尚人を見返した。

「あーハイハイアリガトネー、あ、冷蔵庫か。風呂入って来るからチンしといてー」

 結季はそれだけ言うと、絵里の部屋を離れて自室へ向かった。

 学生の鞄は、いつまでも持っていると重い。

 いつもの風景が繰り広げられる。

 やれやれと立ち上がった絵里はすっかり別人の顔に変わっており、絵里本来の顔立ちよりも少し柔和な雰囲気を漂わせていた。

「どう、イケる?」

「完璧じゃね」

「オッケー。じゃ、お仕事行ってきまーす。尚人、あとでね」

「おう」

 ヒールの高いパンプスに足を通す絵里に、荷物を降ろした結季も玄関まで寄ってきて後ろから声をかける。

「絵里ちゃん行ってらっしゃーい」

 絵里がひらひらとその細長い指を振ってから玄関を閉めると、尚人は今度は結季をせっついた。

「おい、お前も早く風呂行って来い。俺ももうすぐ出るんだから」

 ところが結季は絵里とは違い、尚人に向かってあからさまに舌打ちをした。

「偉そうに指図すんなよ尚人の癖に」

「なんだとゴルァ。お前誰のお陰で日々快適に生活出来てると思ってやがんだ」

「優秀な実践部隊である結季ちゃんが仕事を失敗しないからでしょ何だやんのかコラ」

「やらねぇよ! お前とやり合ったら100パー俺が死ぬじゃねぇかよ」

 林檎を左手で握り潰す握力と、毎日走り込みで鍛えている脚力の持ち主には、いくら成人男性とはいえ尚人でも自分からは立ち向かいたくはない。

 彼は体力面担当ではないのだ。

 一番歳が近いし、結季なりに尚人に甘えてるんだよ、と渡辺さんは言っていたが、尚人からしてみれば結季の態度は腹立たしいことこの上ない。

 それでも主力実践部隊と裏方、歳上と歳下、男と女、あらゆる要素が重なり合って彼らのパワーバランスはギリギリのところで保たれている。

「死ね死ね。あーあ風呂はいろー」

 日常の光景が繰り広げられる。


 そして、彼らにはもうひとり仲間がいる。

 速水雪也。28歳。

 IT関係に勤める黒髪短髪インテリ眼鏡の色男で、彼らの作戦担当、最強頭脳である。

 たまに絵里と同じ仕事もしたりするが、残念な事に彼は今日もサービス残業だ。

 尚人は唐揚げをチンするために冷蔵庫に向かった。

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