Quartet
夏緒
第1話 取り敢えずはオムライス
―1―
6月の木曜日の午後2時少し前。
古澤尚人は昼飯を食うために、いつものようにその喫茶店の扉に手をかける。
どこにでもあるような古い喫茶店だ。
住宅街から少し離れたところに、いつもひっそりと佇んでいる。
カランと軽い音を立てて、続いて立て付けの悪い音を響かせながらダークブラウンの扉を押し開いて店の中に入ると、左側のカウンターの中には白髪頭で細身の紳士面したマスターがグラスを磨いている。
ほんの少し暗くした照明と、窓から入る日の光が上手く調和して、店の中に落ち着いた雰囲気を醸し出している。
尚人の姿をちらりと見たマスターはいらっしゃいとも言わずにまず、
「ああ丁度良かった。尚人、渡辺さん知らないかい」
と、おっとりとした調子で訊いてきた。
「渡辺さん? 知らんよ。マンションの管理人室には居なかったから、またどっかそこら辺で迷子の振りして徘徊してるんじゃねぇの」
尚人が狭いとしか言いようがない間隔で置かれた、カウンターに備え付けられた小さなスツールに勝手に座ると、細身の老齢マスターは
「そうかぁ、うちもさっき連絡したんだけど、繋がらなくてなぁ」
とぼやくように言いながら水と、オレンジ色したドレッシングのかかった小さなサラダと、フォークを尚人の前に置いた。
「なに、急ぎ? 渡辺さん連絡しようか」
「ああ、そうしてやってくれ。お客さんだよ」
狭いカウンターの向こうからマスターが指でつつくようにして示す先を見れば、奥の窓際の隅の席に男がひとり、表情を強張らせたようにして座っていた。
他には誰もいない。
30代、かな。
スーツでいるあたり、仕事はしてそうだ。
陰気な雰囲気。
隠し事が下手くそそう。
ふーん。
尚人はジーンズの尻からスマホを出して電話をかけた。
「あ、渡辺さん? マスターが呼んでるよ」
尚人はそれだけを簡潔に告げてすぐにその電話を切った。
目の前に出来立てのオムライスが来たから。
話しの長い渡辺さんの会話に付き合っていると冷めてしまう。
一緒に出されたスプーンの紙ナフキンの包みを雑に外し、端の方から掬って、大口で食べる。
いつもの有機ケチャップの味だ。
窓際の「客」は押し黙って、尚人が食事をする様をちらちらと見ていた。
「で? 用件は?」
オムライスを口いっぱいに頬張りながら尚人はくるりとスツールを回転させて反対側を向き、まっすぐに窓際の男に尋ねる。
食事を黙って注視されるのは気分が悪かった。
背後からの不躾な視線に苛ついたのだ。
急に横柄に話し掛けられた窓際の男は、戸惑ったようにきょろきょろと目線を彷徨わせてから、助けを求めるようにしてマスターを見た。
「ああ、コイツがあんたの捜し物ですよ」
マスターが愛想よくにこりと笑いかけると、その男は小さな声で呟いた。
「あなた、が……?」
「そ。ま、うちは4人組だけどな。あ、マスター、結季が今日は唐揚げ食いたいって言ってたから、あとで来ると思うよ」
「そうか。あの子のことだから、学校終わって走ったあとだろうから、暗くなってからかな」
「多分な。女子高生が毎日毎日飽きもせずよくやるぜ。で? あんた。依頼は何。渡辺さん来る前に俺にも教えてよ」
自分よりも明らかに歳の若い柄の悪い男にどんな態度を取れば良いのか分からないらしく、その「客」は口ごもった末に質問には答えなかった。
「わたなべさん、っていうのは……?」
「ああ、管理人だよ。マンションの。あんた何も知らずに来たのな」
「あ、すみません……」
「いや、別に良いけどさ。うちに来んのなんか訳アリばっかなんだから、別に話すのに遠慮なんか要らねぇよ、オニイサン」
オムライスもサラダもすっかり食べ終えて、尚人はその「客」に改めて向き直った。
鷹揚にニヤリと笑ってみせる。
「あんたの依頼を請け負うかどうか、決めるのは俺らじゃねぇ。渡辺さんだ。でもそのあんたの依頼を叶えてやるのは俺たちなんだから、俺にだってあんたの話しを聞く権利はある」
男は、迷った末に渋々、あの、と話し始めた。
「連れ出してほしいんです、ある人を」
カラン。
続けてギイイと鳴って、店の扉が開く。
タイミング良く入って来たのは渋味がかった濃緑の着物姿の、細い眼鏡をかけた男だった。
「あ、渡辺さん」
窓際の男は尚人のその声に釣られてそちらを見る。
「いやぁ、遅くなってしまった。お待たせしてすみません。別に忘れていたわけではないのですけれども、ちょっとそこいらで迷子になってまして。マスター、僕にもオムライスください」
「はいよ」
渡辺さん、と呼ばれたその人は、迷う事なくまっすぐに窓際の席まで寄り、彼の向かいによいしょ、と座った。
まだ若くも見えるし、老齢にも見える。
ぺったりと張り付けたような愛想笑いのその人は、どこか掴みどころのなさそうな、不思議な雰囲気を纏っていた。
そうしてまず尚人を振り返った彼は、へらりと笑う。
「尚人、さっきコンビニで結季に会ったよ。ここに居るんなら、ついでだから唐揚げ持って帰っといてくれって。なんか機嫌悪そうだったなぁ」
「はあー? あいつ一番年下の癖にどんだけ人使い荒いんだよ。渡辺さんが結季を甘やかすからだろぉ。あと機嫌悪かったのは、こないだの豚の依頼をあんたが請けたからだよ」
「金回りは良かったからなぁ。まぁ結季はまだ16だしな、思春期なんだろう。絵里も同じくらい甘やかしてるつもりなんだけど」
「甘やかしてんのは否定しないんだなロリコンめ」
「フェミニストと言ってくれないか。ああ、そういえば今日は絵里が早く帰るよ。仕事頼んだから」
「じゃあ晩飯は要らねぇな。雪也はどうせまた残業だろうし、結季は唐揚げあるからな」
「帰ったらまた絵里の服選びに付き合わされるんじゃないかな」
「他人事だと思って気楽なもんだぜ」
まるで「客」の存在を忘れたかのように内輪の話しを続ける彼らの前に、出来立てのオムライスが割って入った。
「渡辺さん、びっくりされてますよ」
マスターに言われて二人はやっと思い出したかのように、隅で縮こまる男をもう一度見た。
「あ。いやぁすみません。ちょっと所用を話し出したら止まらなくて。あ、いいですかね、コレ。僕お昼がまだでして」
既に目の前に置かれてしまっているオムライスに駄目とは言えず、その男はどうぞ、と呟いた。
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