プロローグ

 通過列車の空を切る衝撃波と耳をつんざく大きな警笛音が、全てを吹き飛ばした。

 車両の妻に弾かれて瞬間的に運動量が増大した空気塊に殴りつけられた、全身が芯から揺さぶられた。

 辛うじて直立を保っている体と、真っ白に剥き出しとなった思考が、硬直する。

 全く想定外のことであった。

 けれど、俺の中の時間が止まった原因はこれじゃ無い。

 元はと言えば、その間際にあった『あるはずのない感覚』に捕われ、両足が止まったしまったからこそ、こうなっているのであり。

 未だに纏わりつくその幻覚の正体を見んと、ゆっくりと首を後ろに回す。

 視線の先。俺の、左腕が、引かれていた。

 細く、白い手が、俺の左の二の腕を力一杯掴んでいた。

 全身の毛が、これ以上ないくらいに逆立つ。

 目で辿る。

 その手の主は女だった。おそらく……いや、間違いなく、人間の女。

 すぐに確信が持てなかったのは、自身の体と同様にまったく動く気配がなかったため。

 確信に至ったのが、女のコラールレッドのグロスが微かに上下に揺れているのが確認できたため。

 見た目は30前後。鎖骨をゆうに超える程の長さの黒髪。カーキー色のアイシャドウ。すらっとした薄手の白いシンプルブラウス。コードレースの黒のタイトスカート。典型的なオフィスカジュアルに身を包んでいる。

 俺が頭の中で女のパーソナリティを整理している間も、彼女は真っ直ぐ俺の顔をとらえていた。


「…………」


 視線同士がぶつかるも、俺も相手も何も言わない。

 女は、俺の行為を問いただすわけでも無く、責めるでも無く。

 ただ、その双眸は驚きの表情とともに見開かれたまま、瞬きも忘れ固まるばかり。

 それは、彼女自身何が起こっているのか理解が追いついていないことを示している。

 そんな中、レールを擦り上げるスキール音が鳴り、車両が完全に停止する。

 周りの音が、一気に蘇る。

 スマホ画面を見つめる若者。電話越しに相槌を繰り返すサラリーマン。車両から出てくる人の流れに巻き込まれないよう、手をつなぎ合う親子。

 駅のホームにいつもと変わらぬ雑踏が姿を現す。

 人たちは、俺と女の存在に意を介すことなく、忙しなく歩を進め、車内に収まっていく。


「…………」


 やがて。

 人の流れに合わせるかのように、女の瞳の奥から深い憂いの色が表れ、広がっていく。

 そうか。この女だけは、気づいたのか。

 などと、かすかによぎる疑問は、けれど惟るに至ることはない。

 どうでもいいと思っていた。そのはずなのに。

 ここにきてようやく自分の役割を思い出したのか、全身の肌から汗が噴き出てくる。

 体から力が抜けて、両足は自重のなすままに崩れ落ちる。どこからともなく沸き起こる熱に全身が焼かれるような感覚に襲われて、なす術がなかった。

 酸素を求め、肩が波打つほどの深く、大きな呼吸をゆっくり繰り返す。


「…………」


 それでも、目の前の女の口は結ばれたまま、何も言葉にしなかった。


 2018年7月15日。肌を焦さんばかりに差し込む陽射しが、ピークを迎える午後2時。

 俺は、まだ、生きていた。

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