ハジメの前で
ペットボトルが空中で浮いている。
それが、私が叫んでしまった理由。母が反射的に魔法を使ってしまったんだ。私の失敗を繕うために。今は魔法の世界を隠して、私を元の世界に戻してくれているのに。
「ごめんなさい、お母さん」
手を伸ばしてペットボトルを掴んだ。
「気付いていたの。優しいお母さんだから、甘えちゃってたの」
母は悪くない。ここへ来た理由は、母には関係がない。そうだった。佐藤の妹を探さないといけない。漸く学校でのことを思い出していた。気分が悪いということで、先生に奈落の底に落とされたみたいだった。
「学校から緊急早退の連絡をもらってね」
力なく視線を落として母は語り出した。
「戻って来た時は、よく眠っていたのね。今朝から息子じゃないって感じていたんだよ。だから、悪いと思いながら、記憶を覗かせてもらったんだよ」
母が私を抱きしめてくれた。優しく力強く包み込んでくれる。
「娘が出来たいい気分になれた。嬉しかった。だからハルカの記憶通りの世界を作ってみたんだよ。――ゲンだったんだね、あちらの世界でも」
「お母さん。嬉しかったよ。お母さんに愛されている気がしたよ」
「でも、母親失格だね。ハルカにこんなにも気を遣わせてしまったね」
「お母さん」
本物の母にもこれほど甘えたことがない。ずっと私はハルカではなかったんだから。そうよ。ずっと私は私ではなかったんだから。
「ハルカ」
母が口調を変えている。
「ハルカが探している人を知っているわ。人族の佐藤翠と藍ね」
人族の佐藤?
何故佐藤を知っているのかと思ったけれど、人族と言われたほうに興味が行った。人族というからには、人族じゃないものが存在すると予想できる。
「この世界は、魔法を使う私たちの魔族と魔法を使えない人たちの人族。そして、五大精霊たちが治めているのよ。平等に世界を三等分されて、互いの領土を侵せられないように制限されているわ。それはね。魔族は他の領土には出られない禁則が掛けられているからなの。そうすることで、人族と違って魔法が使える魔族は、領土を拡大できないようにされているのよ。でも、人族にはそんな制限がない。どこへでも行けるわ。精霊たちもね。私たちの魔力よりも絶大な力を使える精霊はほんの少数しかいない。それなのに同じように三分の一の領土を持っているから、絶対に魔族にも人族にも関わらないと決め込んでいる。それがこの世界なのよ」
私にはすぐには理解できなかった。ただ単に魔法使いは他の種族と交流がないのだと思っただけだった。
「精霊には七百年の寿命があって、今は風の下位精霊の一人が交代の時期を迎えているらしい。下位精霊は人族から候補が選ばれるのが古来からの習わしというわけね。精霊の領土に行き来できる人族の特別な資格だね。その候補者が佐藤姉妹だと聞いたことがある」
人が精霊になるなんて、凄いことが出来る過程が理解できないけれど、ともかくこの世界に佐藤がいる。佐藤に会わなければ、私の未来は続かないと思う。
「佐藤に会いに行かないと」
「魔族は、精霊と人族には干渉できないよ。こちらの領土からは決して出られない」
「魔族じゃないわ」
私は、そもそも魔法使いも精霊もいない世界から来たんだ。どの領土にも関係がない筈だ。
「風の精霊は、何処にいるの?」
「詳しいことを知りたいのなら、先生に訊くのが一番だね」
学校へ行くように勧められても、私には魔法が使えないので手も足も出せない。
「大丈夫。母さんに――お母さんに任せなさい」
母がにんまりと笑った。私の両肩を抱いて真っ直ぐに瞳を見詰めてくれた。
「猫の手も借りたい時の魔法」
ふふふと笑って、母が部屋中に呪文を書き始めた。床に魔方陣が出現して、壁一面に不思議な文字が浮かび上がった。
「息子の本当の名前は、ハジメ。清水玄。ハルカと同じく『玄』の文字を与えられた私の息子。今、目の前に息子と娘が現れる。この世界の息子。そして、かの世界の娘。共に出でよ」
私は少し宙に浮くような感覚がした。実際に浮いたわけではない。体が軽くなったような不思議な感覚だった。
「ふふふふ」
母がまた笑った。魔方陣も呪文も消えてしまっている。何かの魔法を使ったのだろうか。私は背後に人の気配を感じて振り返った。
「ハジメ。ハルカをよろしく頼むね」
母が頼もしそうにその人の肩をぽんと叩いた。
そこには、昨日の私が立っていた。
男の子だった私。
清水ハジメが、そこにいた。
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