お母さんがいる自宅で
「お母さん。お昼ごはんは、私が作ってあげるからね」
「おや、嬉しいね。あんたの手料理なんてね」
朝食を終えて食器を洗いに、私は流し台に立った。母には背中を向けて、私は泣いている。心が泣いている。悲鳴を上げて泣いている私は、いったい誰なんだろう。
今日は家の中にいるように言われた私は、母がいそいそとお昼の買い物に行くのを見送ってから居場所を失くしていた。
私の勉強机には読み掛けの文庫本や雑誌が整然と並んでいる。参考書と問題集もきちんと元のままに積まれている。昨日勉強していた通りにノートにも私の筆跡で記述があった。
窓の外は向かいの高級マンションに見下ろされて、私のいる古い団地なんて眺められる景色が全く違うように思う。共同通路や階段の狭さは、日本の高度経済成長期の遺産だ。公営団地が総てここのように古いわけではないが、この町はそんな伝統のようなものが大切にされた地域だった。
高級マンションの脇は開けていて遠くまで眺められる。窓から首を少し出して、五月の日差しを避けながら、頑張って覗き込んでみる。神社の木立やスーパーマーケットの赤い屋根が見えた。時折柔らかい風が吹いて、頬を優しく撫でていく。
「ありがとうね。母さん」
私は感じてしまったんだ、この家が本当の私の家ではないことを。お母さんも違う。きっと私のこの体も、本当は男の子のゲンのものなんだと思う。私の為に、元の女の子の体にしてくれたんだよね。
魔法の世界で苦しんでいる私を、ゲンの母さんが救ってくれている。我が子は息子なのに、本当の娘だと思ってくれている。思いやりの嘘。愛情の嘘。そんな嘘をついて、母は私をこの家で安らぎを与えてくれているのだった。
私の本当の母は、私をハルカとは絶対に呼ばない。
いいえ、呼べない。
これも私の母の愛だから。私の悪い記憶を失くす為の嘘なんだと思う。私はこうして皆に愛されている。私からは何も出来ないのに――
お昼には、カルボナーラスパゲッティを作った。私のリクエストで材料を買って来てくれた母は、とても嬉しそうにして食べてくれた。私もこのパスタ作りには自信があったので、美味しく出来上がったと思う。でも、期待以上に美味しそうにして食べてくれた母の気持ちが伝わって、私は泣きそうになってしまった。
「美味しいわよ、ハルカ」
何度もそう言ってくれる。娘がいない母だからかな。息子では出来ない経験をすることが出来たからかな。それでも私は嬉しかった。
これまた美味しそうにお茶を飲み干した母のコップに、私はお代りを入れようとテーブルの端に置かれた大きなペットボトルに右手を差し出した。
これが私の大失敗になった。
私は右のものを取る時は気を付けないといけなかったのに。悔やんでも悔やみ切れないことをしでかしてしまった。
右の視力がない私は、右手の指先を軽くペットボトルに当ててしまった。距離感がないのに、もっと注意しなければいけなかったのに。
「あっ!」
私はそう叫んでしまって、自分の口を押さえだが、もう遅かった。
母も、しまったという顔をして、目をぎゅっと閉じてしまった。
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