幸せな家で

「ハルカ、ハルカ。目を覚ましなさい」


 台所から母の呼び起こす声が聞こえた。私は布団の端を掴んで、頭まですっぽりと被って惰眠を貪った。薄っぺらな布団から足が出てしまうけど気にしない。体を小さく丸めて左耳を枕に押し付けると、私だけの静かで怠惰な世界に浸ることが出来た。


「まだ具合が悪いのかい?」


 母が布団からはみ出している足をくすぐる。私の急所を知り尽くしている母の攻撃なのだ。我慢して寝ている振りを続けていても、いつまでもやられっぱなしで耐えられるほどに私は不感症ではない。


「お母さんの意地悪」


 がばっと布団を跳ね飛ばして起き上がると、母のにこにこしている顔が目の前にあった。


「おはよう」


 いきなり私の髪の毛に母は十本の指を刺し込むと、くしゃくしゃにして弄んでいた。


「もう、お母さんったら止めてよね」


「うん。正常だね。でも、今日一日は家にいなさいね。病み上がりは大事にしなきゃね」

「病み上がり?」


 パチンと両手で私の頬を挟んで、母が瞳を覗き込んできた。柔らかい手だ。母が大きく頷いてくれると、訳も無く安心できた。


 私はまた忘れているんだ。何か都合の悪いことを忘れ続けてきた。そうやって生きてきたことだけは、忘れていなかった。


「台所に朝ごはんが出来てるよ」


 壁一枚隔てた向こう側から、ずっといい匂いが漂ってきていた。これはハムエッグとお味噌汁かな。


 布団を押入れにしまって、洗面所で顔を洗った。洗面所って言っても、部屋とはカーテン一枚で仕切られているだけの狭い空間だった。トイレと風呂がここに押し込められている。1DKの団地の一室が、私たち母娘の素敵な家だった。


「何だか、変な夢を見ていたのよね。みんなが魔法使いになっているんだよ。なのに、私だけが魔法を使えなくて焦ってるの。それにこの家だって、パステル色になってて、大平原の一戸建てになってるの。玄関も分厚い木の扉になってて――」


 ちらりと首を傾げて玄関を見ると、新聞受けが真中にある薄汚れた鉄扉があった。見慣れたいつもの部屋の様子に安心した。


「――広い庭もあるんだよ」


 母がにこにこしながら話を聞いてくれていた。


「どっちがいい、その家とここ?」


 私は左手で髪を耳にかき上げた。


「もちろん、決まってるよ。絶対にこっち」

「あんたも広い家に住みたいって言ってたでしょ」

「うん。でも、ここが一番だって分かったから、もういいの」

「欲が無いねぇ。それとも、ハルカはヒーローになるのが夢だから、家は関係ないと言うことなのかい」

「??? ・・・まぁ、そんなとこ――」


(―― あれ?)


 違うの? 違うのはどっち? お母さん? 私?


「ねぇ、ハルカ。お昼ごはんは何が食べたい?」

「・・・?  まだ、朝ごはん中だよ」


 そうなんだね。私は充ち溢れている愛情に涙が出そうになった。

 今の私の身に何が起きているのか想像できた。


 そして、ハルカと呼んでくれる母が、私はとても大好きになった。

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