知らない教室で

 私は絶叫したが、高橋の翼を羽ばたく音と風を切る音で、完全に消されてしまっていた。何を言っても誰にも聞こえない。でもこのまま暴れていて、高橋に落とされでもしたらと気掛かりになってきた。しばらく大人しくしていて、私に何が起きているのか確かめるのが肝心だと思った。


 鳥人間たちが集結して行く建物がある。尖った塔が幾つも聳えた急勾配の黒い瓦葺きの屋根を持つ巨大な建築物だった。各階の窓が大きく作られていて、飛行してきた鳥人間たちがそこから内部に入っていた。


 高橋が飛行速度を落とさずに窓に飛び込んでいく。私はぶつかるんじゃないかと、恐ろしくて目を開けていられなかった。


「ゲン、行こう。数Ⅲの授業が始まるぞ」


 いつの間にか着地していたんだ。体重を二本の足に直接感じる。何という安心感なんだろう。落下するかもしれないという恐怖が、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。人というものは飛ぶようには出来ていない。それを身を持って実感した時だった。


 建物の内部は、長い廊下と幾つもの部屋に分かれている。その規模が膨大にはなっているが、ここは学校みたいだった。翼を人の腕に戻した学生たちが、川の流れのように廊下を移動していた。


「ゲン。何してるんだ。急げよ」


 高橋の手が、私の肩を掴んでいた。人の姿に戻ってくれていたので安心した。しかし、見る物が全部珍しいものばかりだった。廊下の両側に並ぶ石像は十二神将みたいだし、高い天井には飛天が飛び交う絵画が描かれている。天女の彫刻が立つ壁には、滝がとうとうと流れている。何故こんな所にって感じて滝壺を覗くと、驚くことに底無しだった。地下深くに落ちていく水の音に吸い込まれてしまいそうになった。


「ヤバイ。先生が来る」


 高橋が慌てた声を上げると、私は急に投げ飛ばされてしまった。柔道とかの投げ技ではなくて、ボールを投げるように飛ばされたのだ。しかも教室の入り口でカーブして飛び込み、席のど真ん中に見事に納まった。


「ストライク!」


 周りで男子学生たちが騒いでいる。私は椅子の上で目をパチクリとさせたまま、教室の天井をポカンと見上げているしかなかった。


「高橋。今日もゲンのお迎え、お疲れサン」

「寝坊助ゲン。起きてるか?」


 男子学生が上を向いたままの私の耳を引っ張った。


「イタタタタッ」


 耳が千切れそうになった。尚も引っ張り続ける手を払いのけようと男子を睨むと、知っている顔だった。


「柴本?」

「あれ? ゲンが起きてる?」

「ホントだ、ゲンが起きてる」


 隣には北野がいた。クラスメイトがいる。ここは全くの別世界ではない。私の知っている世界。ではないが、少なくとも知人がいる世界だった。


「こりゃ、災厄が起きるぞ」


 口々に言いたいことを言われていると、教師が教卓の前に立っていた。


「何スかぁ、そこ。授業を始めるぞ」


 数学教師の西沢が、そこにいた。いつもの先生だった。黒縁眼鏡を掛けて、何スかぁというのが口癖の教師だ。


 私はまた安堵した。知っている人がいるというだけでほっとする。それよりも、今は天井が気になっていた。天井が青空なんだけど、この教室は外ではないと思っている。なのにどうして空が見えるのか不思議だった。天空から見た瓦葺きの屋根を思い出しながら、どうしたらこんなことが出来るのかと考えてばかりいた。


(あれ?)


 視界に違和感がある。天井を見詰めていて、広がる空に浮かぶ雲が天球全体に見えた。


(何で?)


 私は右目を手で隠した。天球の右側が消える。


(見える! 右目が見えるんだ)


 右目だけではなかった、右耳に手を当てると、ガサガサという音がする。聞こえる。足の付け根を力いっぱい手で押さえてみても、少しも痛みがなかった。


(同じじゃない。違う体になっている。しかも男の子になっちゃったんだ)


 左右の瞼を交互に開きながら、久しぶりの視界の変化を楽しんだ。右目と左目では、物の見える位置が少しずつずれている。そんな微かな違いが楽しかった。


 コツコツと背中を指先で突かれている感覚がした。ずっと呆けていた私はやっと我に返って、

黒板を見ると西沢先生が数式を指しながら、こちらを見ているのだった。


「清水、この問題を解いてみろ」


 微分法の演習問題だった。こんなのは私にとっては簡単なこと。だって数Ⅲなんて、二年生には学習が終わっているからだ。優等科の教育単元は、それが当たり前だった。


 私は解答を黒板に書き終わって席に戻ろうとすると、西沢先生に呼び止められてしまった。


「何スかぁ。解答を途中で諦めると」


 途中?

 私は黒板の解答をじっくりと見直したが、正解を書いている自信があった。これくらいの問題は初歩だと思う。受験問題にもならない基本的な例題程度のものなのだ。


「先生。正解してる筈ですが」

「問題を全部読んでいるのか?」

「はぁ?」


 そう言われれば、数式しか見ていなかった。問題には、数式の後に文章がある。


「この微分法を解き、花瓶の水を消滅させよ」

 ???


 ふざけているのか。私は西沢先生がからかっているんだと思った。花瓶の水を消滅させるって意味が分らない。お手洗いに行って捨ててくればいいのか、窓から撒くのか、はたまた飲み干せばいいのか。


「俺がやります」


 北野が手を上げている。いつも悪ふざけばかりしているのに、この時は眼つきが優等生みたいになっていた。


 私と交代して、北野が教壇に立った。そして、あからさまに歯をむき出して笑顔を作っている。明らかに私を挑発している態度を見せている。だけど、私にはどうして北野がそんなことをしているのかが、まだ分らなかったのだ。


 北野が黒板に書かれた私の解答に手をかざすと文字が浮かび上がった。私はそれを見た途端、総てを理解した。魔法だ。魔法で花瓶の水を消滅させるのが、この数式なんだ。


 その予想通り、北野は黒板にかざしていた手を花瓶にやると、水が突如沸騰し一瞬にして消えてしまった。


「よし。北野、よくできたな。清水は調子が悪いのか。お前らしくないじゃないか」


 北野がまだ歯をむき出しにして笑っている。親指を突き立てて、己の正解を自慢しているのだった。


「惜しかったな、ゲン。ほとんど正解だったのに」


 高橋が休み時間に声を掛けてくれた。私は惜しいとか思わなかったけど、ウンとだけ返事をして自分の立ち位置を探していた。西沢先生の口ぶりでは、私は優等生みたいだ。今日は体調不良で正解出来ないと思っている様子だった。


 この高橋はどう思っているのだろうか。私には魔法が使えない。試しに先程の解答をノートに書いてみて手をかざしたけれど、何も起こらなかった。教科書を見ても、元の私の持ち物のノートを見ても、何も分からなかった。ただ数式の答えだけが理解できるのだが、そこから派生する魔法への転換が出来なかった。


 違う。そうではない。私は人間なんだ。人間が魔法を使える筈がないじゃない。元の私が何だか知らないけど、今の私は私なんだからどうしょうもないと思う。

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