ハルカ

ベッドの中で

 窓から差し込む朝日が眩しい。まだ眠い目を擦りながらベッドから抜け出した。何だかいつもより頭がぼんやりとしていて、まるで夢の中にいるような感覚だった。


 私は、取り急ぎトイレに行きたくなった。ベッドなんて私の家にあったのかなって、回らない頭で考えていたけど、眠いのでそれ以上は考えるのが面倒臭くなった。


「お母さん、おはよう」


 挨拶をして、廊下の向こう側にあるトイレに入った私。母は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに目の形を勾玉みたいにして、にんまりと笑っていた。私はいつもの母の悪ふざけが始まるのかなって思った。母娘二人きりの家族でも、少しも寂しくないのはこの楽しい母のお陰だった。


「うぅ、眠いよぉ」


 パジャマのズボンと下着を下ろして、便座に座った私―――


「きゃーーーーーっっっっっ」


 便座から転げ落ちた。さらに悲鳴を上げながら、下半身を隠すのもそこそこに、トイレの扉を突き破るようにして飛び出した。


「きゃーーーーっっ、男ーーーーっ」


 トイレの前の廊下でのたうち回って、壁で後頭部を派手に打ちつけてしまった。ごんっと、自分でも驚く程の音がして、壁に穴でも開いたのかと思った。


「きゃーーーーっっ、きゃーーーっっ」


 クロワッサンを頬張りながら、母が私の様子を窺っていた。また勾玉みたいな形をした目になっている。


「どうしたの。いつもより気合いが入ってるじゃないか」


 笑っている母は、私のこの非常事態が分らないのだろうか。私にとっては、この世の終わりみたいな状況なのに、何故食事をしながら笑っているのよ。気合いが入ってるって何?


「女の子みたいな悲鳴を上げたって、声が男のままだからねぇ。残念だけど、イマイチだったね。明日は冴えたギャグを頼むからね」


 ヒヒヒヒっと甲高く笑って、母は女の声を強調した。


「待って、お母さん。この体、男になっちゃってる」


 ヒキガエルのような低い声がしている。これが私の声?

 クロワッサンをゴクンと飲み込んで、母は仰向けに倒れている私の胸を触った。


「うん、正真正銘の男の子だね。あんたの母さんなんだから、そんなこと分かってますって」

「お母さん」

「さぁ、ゲン。いつまでもふざけてないで、早くしないと遅刻するよ」

「でも、お母さん」

「ゲン。もういい加減にして、いつもみたいに母さんって呼びなさい。お母さんなんてねぇ」


 ブルッと身を震わせて、気持ち悪いことを聞いた時みたいにした。


 私は母に急かされて、自室で身支度をする。男子高校生の学生服に腕を通すと、玄関の姿見の鏡に映っているのは、見たこともない男の子だった。


 母に乱暴に突き出されるようにして玄関から追い出された。木製の分厚い扉からだよ。私の家は団地で、玄関には薄っぺらな鉄製の錆の浮いた扉だった筈なのに。


 三階の狭い共同通路を通って、これまた狭い階段を降りて行くような公営団地だのに。コンクリート地がむき出しで、所々のひび割れを補修した痕が残っている。そんな築何十年なのかも分からないような古ぼけた建物だったのに。


 木製の扉の外には、広い庭があった。薔薇が一面に咲き誇り、ツツジやシャクナゲが生垣になって門に続いている。その向こうには、広大な田園風景が広がっている。どこまでも真っ直ぐに続く銀杏並木の両側には、新緑の耕地がある。高く広い空は、深い海のような群青色をしている。もこもこと浮かんでいる雲の白い色が対照的で、際立つ眩しさに輝いていた。


 振り返ると私の家は、もはや団地なんかではない。パステル色に彩られたまるでお菓子のおうちだった。家ではなく、おうちと呼ぶ方がぴったりしている。そんな家が目の前にあった。


「ここは、何処? そしてこの体は、誰?」


 ふざけて言っているのではない。むしろふざけて言えるのだったら、どんなに幸せなことなのかと思えた。ここは知らない世界になっている。

 女の子の私は、低い声を出す逞しい男の子になっている。


 きっと夢を見ているんだ。夢だから、こんな日本にはないような景色があるんだ。そうだよね。これは夢だよね。



 私は自分の両肩を抱いて、必死に自分に言い聞かせているのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る