鏡の中で

 もう止めよう。そう思って佐藤を窺うと、頷いてくれていた。真白の為になる違う手立てを考えよう。そう決心した時、


「ゲン」


 高橋の口調がまるで変わっていた。静かに深い悲しみが伝わってくる。


「ゲン。お前がみんなにそう呼ばせているのは、辛いことだって分かっているのか?」


 言われている意味が分らない。俺が気に入っている名前なのに、高橋はそれこそ理不尽なことを言っていると思った。


「真白の幽霊が出るって、俺らが中学生の時に噂になった。でも、みんながゲンの為だからって気にしないことにしてたんだ。分かるか? お前の為だったんだぞ」


 静かな高橋の口調が続く。


「今もお前をゲンと呼ぶ度に、みんなが縛られているんだ。分かるか?」


 高橋が俺に近付いて来る。俺は右に顔を向けて、高橋を見た。とても正面からは見られない。高橋の言葉が怖かった。


「そうだよな。そうやって、お前は右を向くんだ」


 腕を伸ばせば届く距離にいる。背の高い高橋が俺の右目を覗き込んでいた。


「お前の右目は見えないんだろう。右耳も聞こえないんだろう。みんなはそれを後悔しているんだ。永遠に許してもらえない出来事だったから」


 俺は右目に手をやった。ゆっくりと近付けていくと、手が視界から消えていく。その手を右耳に押し当ててみる。しかし、どんなに手を擦りつけても、どんな音も聞こえなかった。


「なぁ、もう許してくれないか。お前だって、自分を誤魔化して一歩も進めないでいるじゃないか。中岡真白から離れられないんじゃないのか」

「だって、ヒーローだから」

「まだ言うのか。みんなだって知っているんだ。お前の為だから、俺は言うぞ。恨まれたって構わない。お前の為なんだからな」


 高橋は佐藤姉妹を見た。ついに言ってしまうぞと目で合図をするのだった。


「ヒーロー、ヒーローって、お前はいつからヒーロー好きになったんだ?」

「何言ってんだ。小学校に行く前からに決まってるじゃないか。近所だったお前も知ってるだろう」

「有り得ないんだよ。お前は魔法少女だったんだ。佐藤の妹に魔法を掛けて、魔法使いにしてやったのはお前じゃないか」

「はぁ、失礼な奴だな。魔法少女って何だよ」


 俺は悔しくなって、だらりと下げている両手を握り締めた。力を込め過ぎて爪が肉に食い込んだが、そんなことを感じている余裕がなくなっていた。


「ゲン――いや、ハルカ。もうちゃんと自分を顧みろよ」


 高橋が突然カーテンを開けた。俺が折角閉めておいたというのに。


「見てみろよ、窓を。あそこに映っている俺たちを」


 明るい教室の窓硝子が、暗い外に反射して鏡のように四人を映し出していた。


「誰がいる? 俺の前にいるのは誰だ?」


 力を込めて握り締めている両手が見えた。その拳が学生服のスカートのプリーツを掴んでいる。少し右を向いている顔には、赤い眼鏡が掛けられている。片方だけ掻きあげられている髪は、左耳を出していた。


「清水はるか。お前はゲンではない。ハルカなんだ。清水玄なんだよ」


 白い半袖のブラウスに、えんじ色のリボンを付けた女子高校生の清水玄が、窓硝子の鏡の中に立って、じっとこちらを見詰めていた。


「違う」

「高校入学直前に、お前は自分の髪を切って変身したんだろ。何故そうしたのかみんなが知ってるよ。辛かったんだろ。どうしょうもなかったんだろ」


 くるくる。

 くるくる。


「ハルカ先輩は、中岡真白さんを殺したっ」


 佐藤の妹が魔法の杖を回しながら呟いた言葉が、心の奥深くに襲い掛かって来た。


 そうだ。この窓から私は真白を突き落としたんだ。満月を見ながら一緒に落ちて、私だけが生きていた。でも、右半身に重傷を負った。右目と右耳を失い、足にはひどい打撲傷が残った。それを隠すために、私は知らず知らずに、顔を傾げて見るようになった。よく聞こえるように髪を掻き上げて、左耳を出すようになった。


 記憶が蘇った。残酷な記憶だった。腿の付け根の蒼い痣が痛み出した。痛い。痛い。激痛で、意識が遠退いてしまう。痛いよ、助けてよ。


 下半身を見ると、真白がそこに取り憑いていた。白いポロシャツに、淡い黄色の半ズボンとスニーカー。背中まである長い髪の隙間から、目の下から耳に掛けて一直線に並んだ五つのホクロが見えた。


 私は、女の子よ。俺なんて言うのはもう嫌。清水玄【しみずはるか】に戻りたい。


 くるくる。

 くるくる。

 くるくる、くるくる。

 くるくる、くるくる。


魔法の杖が回っている。


「ゲン先輩、ゲン先輩。《わたし》を探してくださいね。きっとですよっ」


 真白の声の佐藤の妹の魔法が掛けられた。私の目の前の風景が滝のように流れ出し、再び現れたのは、不思議の世界だった。

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