小5の教室で

 児童たちが全員帰宅した校舎は、薄暗い廊下が幾つも曲がっている。日が暮れかけていて、そろそろ電灯の明かりが恋しくなる頃だった。


 佐藤が俺の後ろを歩いている。そして、


 くるくる。

 くるくる。


 佐藤の妹が少し遅れてつま先立ちで追い掛けていた。


「高橋、もう来てるかな」

「ハルカ。あの言い方って、誤解されてるよ、きっと」

「何を? 高橋と話がしたいって言っただけなのに?」

「雰囲気かな。真に迫ってた」

「何の?」

「さぁね」


 佐藤がくすくすと笑っている。ちょっと振り返って佐藤の妹の様子を見た。姉らしい仕草で、早くおいでと手招きをした。


 くるくる。

 くるくる。


 絵筆がいつまでも回っている。


 俺の五年生の教室は、廊下よりも少しだけ明るかった。夕日の残りの光が、南側の窓から射し込んでくれていて、逢魔時の昼と夜が移り変わる不思議な空間を作り出していた。それが過ぎると、今夜は月が完全に隠れてしまう皆既月食が始まる。七月十二日の皆既月食なんだ。


「高橋は何をしているのかな?」


 少し期待したけれど、教室にはまだ来ていなかった。格子が取り付けられている窓から、並木通りを見下ろしても高橋の姿はなかった。


「もう帰ってるのかも」


 俺はカーテンを引いて電灯を点けた。小さな空間の教室がカーテンに閉ざされて、もっと狭く感じてしまう。まるで四角い箱の中に入ったような気がした。


 佐藤姉妹が教卓の前の席に座っている。


 くるくる。

 くるくる。


 俺はカーテンを閉ざした窓際に立ったまま、黒板の横の掲示板に貼られている時間割表をぼんやりと見つめていた。


 突然、教室の扉が派手に開け放たれた。


「何だ、本当にいたんだ」


 長身の学生服が扉の梁に頭を打ち付けそうになりながら現れた。高橋だった。鞄を肩に担いで、教室にいる俺たち三人を確認していた。


「あれ、何で佐藤もいるんだ?」


 高橋が戸惑った声を出している。それに反応して、佐藤がアッと小さく叫んでしまって、慌てて口を手で押さえていた。


「ほら。やっぱりだよ、ハルカ。誤解してるよ、高橋の奴」


 佐藤が両の掌を上に向けて広げ、肩をキュッとすぼめた。


「そりゃそうだ。冷静になって考えれば、告白なんてあり得ないよな。みんなにからかわれたんだ」


 高橋は天井を見上げて、顔を歪めていた。クラスメイトに踊らされた哀れな男が、そこにいた。


「何で男になんか、告白しなきゃいけないんだよ」


 そう言う俺に、高橋は白い目で見返している。


「佐藤。ここへ来させたのは、お前の入れ知恵か?」

「アタシはそんなことしない」

「お前はみんなに、あのことを訊き回っているらしいじゃないか。小学五年生の時のことは、忘れなければいけないことなのに、それを知らないお前が余計な事をするなよ」


 野太い声を出して、高橋が威嚇する。佐藤はたじろいでしまった。佐藤の妹が、魔法の杖代わりの絵筆を突き出して、二人の間に入いろうとしていた。


「入れ知恵じゃない」


 俺はこの様子にうろたえながら、上擦った声を出していた。


「あれは自分の意思で言ったんだ。それに、知っているなら教えてくれ。あのことは佐藤と二人で調べているんだ」


 高橋は再び白い目で、カーテンを背にしている俺を見た。どうしてそんな目をするのだろうか。一緒にいる佐藤には、そんな眼つきをしないのに、俺だけを軽蔑するかのように冷たい視線に苛まれているのだった。


「ゲン。お前は知らないんじゃないぞ。忘れてもらったんだ。俺たちみんなで、そう決めて、そうしたんだ。だから、このことは何も訊かないでくれ」


 高橋の声はほとんど叫び声だった。軽蔑の視線が一変して、苦悶の表情になった。


「そんなので納得しろって言うのか」

「納得しろなんて言っていない。お前たちに頼んでいるんだ。言い方が悪かったのなら、謝るよ。お願いだから、中岡真白のことは忘れてください。頼みます」


 高橋が頭を下げた。俺には信じられなかった。どんな過去があったにせよ、高橋がプライドを捨てて、そんなことをするなんて想像も出来なかったんだ。


「何故? 何故、高橋がそんなことまでする。違う。何故そんなことまで出来るんだ。そんなことをされたら、真白の幽霊を成仏させてあげられないじゃないか。ヒーローだから、約束したのに。ヒーローだから、真白を救ってあげなきゃいけないんだ」


 俺には俺の理屈がある。それでも、俺の絶対的不可侵はこの高橋にも適用される。無理強いして高橋を困らせる訳にはいかなかった。

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