皆がいる教室で

 翌日の登校は、気が重かった。高橋にどう接しようか。そればかりを考えていた。とにかく何も言わずに帰ってしまったことを謝って、今回は残念だったけどチャンスは絶対にあるって励ましてあげなければならないと、いろいろな言葉を探していた。


 教室で、高橋が奇声を上げている。昨日応援していた男子たちに首や胴体を締め上げられて騒いでいた。床に寝そべっては、互いの脚を絡ませて喜んでいるのだ。


 プロレスごっこ。


 俺は、絶対に高橋は落ち込んでいると確信していた。そう信じてこの教室に来たのに、このふざけた表情をしている高橋って一体何なのだ。これでは俺の方が馬鹿みたいだった。


「おはよう、高橋」

「オッス」

「元気だね、高橋」

「何だ、ゲン。元気ないな」


 よほど浮かない顔をしていたんだろう。昨夜からお前のことで悩んでいて寝不足になっているんだと言いたかった。それなのに、高橋からそんなことを言われてしまっては本末転倒だ。身も蓋もないじゃないか。


「ゲンーっ、一緒にプロレスしようよ」


 じゃれている柴本が誘ってきたが、馬鹿はこいつらだけで十分だと思った。自分の席に鞄を下ろすと、仮面ヒーローのぬいぐるみストラップが大きく揺れた。清水の痛い視線が、赤い眼鏡の奥からそれを睨んでいる。


 教室に入った時から、俺はずっと気になっていたんだ。体を横に向けて、左手で髪を耳に掻き上げながら、左の顔を向けていた。いつもそんな仕草で他人を見る。それが清水のいつもの癖になっていた。


 どこのグループでも関係なく付き合っている俺が気に入らないんだ。のけ者にしても、一向に困っていない俺が憎いのかもしれない。そしてまた違うグルーブの一員が、俺に近付いて来ていた。


「おはよう。妹は大丈夫かい」

「おはよう、ハルカ。アリガト。もう、前よりも元気っぽいよ」

「良かった」

「今日から部活に出るって言ってた」


 佐藤がさらさらの長い髪を揺らしている。


「分かった。部活に顔を出したら、図書館に行くよ。」


 中岡真白と向き合う覚悟を決めた。


「いいの、それで? アンタ、いろいろ抱えてそうで心配。それに誰に尋ねても、あの子の名前――真白って言った途端に話してくれなくなるしね」

「ごめん。言い方が悪くなるけど、佐藤はヨソモノなんだよ。ここの小学校の卒業生じゃないから、秘密は打ち明けられない。ここにはそんなことがたくさん埋もれている古い場所なんだ」

「閉鎖的な土地柄ってこと?」

「放課後に」


 教室では言い難いことだと察してくれたのか、佐藤は頷いて席に戻って行った。その後ろ姿を、清水が目で追っている。そして、嫌な話を聞いてしまったという顔をして、冷たく見つめていた。


 俺は気付いていない振りをする。目を合わせないで机に左の頬を付けて目を閉じた。耳に机からの振動と反響音が直接伝わってくる。遠くで誰かが走っている。金属を叩く音もする。換気扇のモーターの音も聞こえた。それらの音が何故か懐かしく感じる。他には何も聞こえない。


 少しまどろみそうになりながらも、俺の今の姿を俯瞰して想像した。変な形に丸まった背中が醜いだろう。皆に見えているのは、そんな背中なんだな。益々嫌われるかな。だけど、どうして嫌われたのかな。


 蒼い痣。白い腿にくっきりと浮かび上がった痣が、閉じている瞼に浮かぶ。どうしてあんなところに痣があるのだろうか。清水の綺麗な膝小僧。その先に伸びている太腿の付け根には、透き通る白い肌とは対照的な醜さだった。


 目を開ければ、それは目の前に見える筈だ。横に並んで歩く者が嫌になるほど美人なのに、その美しさとはかけ離れた汚点は、ずっと隠しておくべきだったに違いない。


「何だ。まだ喧嘩しているのか」


 机に反響する高橋の声がした途端、俺の頭が鷲掴みにされた。補欠投手でも力では、敵う筈がない。ぴくりとも頭が動かせなくなっていた。


「はぁ、喧嘩? 誰と?」


 清水が否定しているが、馬鹿にしている口調だ。俺は手足をばたつかせて、高橋の手をどけようともがいていた。


「痩せ我慢だな」


 高橋が机の上で頭をバウンドさせた。バンバンと鈍い音がして、俺の耳はキーンと変な音が響いている。


「何、言ってんのよ」

「お前が正直になればいいじゃないか」

「高橋には関係ないでしょ」

「そうか。そう言うことなら、邪魔して悪かったな」


 でかい手が急に頭から去って行った。咄嗟に顔を上げると、高橋の背中が見える。そして、真っ赤な顔をして唇の端を噛みしめている清水がいた。だけど、その瞳は赤いフレームの眼鏡を掛けてしまって見えなくなった。泣いているのか。怒っているのか。笑っているのか。俺にはいつも見えない。


 高橋の背中の向こう側に、佐藤が心配そうにしているのが見えた。


 そうだ。高橋がいるじゃないかと思った。こんな時なのに、俺は中岡真白のほうを優先して考えてしまった。また嫌われるに違いない。でも俺は自分が止められなかった。


「高橋。今夜は皆既月食だよな。お前と話がしたい。放課後、五年生の時の教室に来てくれ」


 俺は言ってしまった。


 その途端に教室中で、ワッと大歓声が巻き起こった。男子も女子も、黄色い声を上げている。清水の赤い眼鏡が、どうしてなのか片方だけが光ったような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る