雨の日の教室で

 登校するいつもの場所で、俺は突っ立っていた。雨が降っている。傘の内側が頭に触れるくらいに深く差して、誰からも顔を隠すようにしていた。

 気分が重い。重たい。たぶんこうなることは分かっていた。清水が無視していたんだ。もう学校をサボってやろうかと、俺は考えていた。


「ハルカ、いつまでもこんな所にいたら、遅刻するじゃない」


 先程女子の集団の中ですれ違って行った佐藤だった。先に登校して行った筈なのに、また戻って来てくれていた。


「誰か待ちぼうけ?」

「う・・・ん」

「その人と喧嘩でもしたの?」

「してない」

「ふーん」

「痣を見たから」

「アザ?」

「何でもない」

「ふーん」


 学校をサボる切っ掛けを逃してしまい、佐藤に付き添われて俺は登校した。佐藤は昨日の似顔絵のことを何も言わない。俺がクラスメイトだと言ったことに気を遣ってくれているからだと思った。


 雨で少し制服の裾が濡れてしまった。教室の端でハンカチを押し当てて拭き取っていると、斜め前の席で坊主頭の高橋が、俺を見てにやにやしていた。


「おい、ゲン。女子たちとの付き合いは、うまくいっているのか?」


 そいつは野球部のごつい腕が日に焼けていた。いつも袖をまくり上げて自慢しているようで、俺はそれだけが気に入らない。異性の目に触れて欲しいという見え見えの魂胆が手に取るように分かったからだ。


「何だ。気にしてくれているのか」


 俺は誰もいない清水の席を見ながら返事をした。今朝の登校で、俺は一人きりでいるのを、この高橋に見られていた。だからにやにやしているのだと思っていた。


「お前も入るか、このグループに?」

「いや、入りたいが面倒臭いのは性に合わないからな。ゲンも大変だな」

「大変さは、お前ほどじゃないよ。どうなんだ、今回はレギュラー入りが出来たのか?」


 万年控え投手の高橋だ。三年生になってもこれでは、もう進退を決めなければいけない時期だった。


「ゲンには関係ないだろう」

「今度応援しに行ってあげようか」

「女たちを引き連れて来てくれるんならな。ハッハッハッ」


 奇妙な笑い声を上げる。


「まぁ、ゲンだけでも、いないよりはましっていう奴か」

「なら止めとく。女子たちは連れて行けないからね。男子たちなら連れて行くけど」

「要らないって。そんなむさ苦しい応援なんか」

「どうして、いないよりましって言ってるのに」


 高橋が立ち上がる。俺よりもずっと背が高い。野球部の中でも長身だった。

 どかどかと教室に男子たちが雪崩れ込んでくる。あっという間に俺と高橋が取り囲まれていた。


「何なに、何の話?」


 北野がずかずかと割り込んで来て、俺と高橋の顔を見比べている。


「ゲンはこいつの応援に行くのか?」

「無駄だよなぁ。こいつノーコンだし、いくら応援したって無意味」


 言葉の暴力で柴本が叩きのめす。


「優等科なんだから早く退部しろって、キャプテンが陰で言ってるぜ」


 口々に言いたいことを言い合う男子たちは、開放的で裏がない。こいつらは肩を組んで、じゃれ合ってさえいれば、仲間でいられる単純な奴らだった。

 そして何だかんだ言いながらも、結局は応援に行く約束をしているのである。全くもっておめでたい連中だった。


「ゲンも行くよね」


 男子たちの最終目的は、こちらである。俺を誘わなければ意味がない。高橋の応援はむしろおまけなのだ。


「当然だろう。ゲンが言い出したんだからな」


 北野が胸を張って断言した。いつの間にか俺は責任を取らされるかのようになっている。ここで行かないと言ったら、殺されそうだった。


 始業チャイムが鳴る。男子たちがそれぞれの席に散って行く。俺は斜め後ろから高橋の顔を盗み見ると、口元が上がっているみたいだった。嬉しいのかな。散らばって行った男子たちを見ても、皆が楽しそうな笑顔だった。単純な奴らだ。


 俺の制服の裾は、まだ冷たいままだった。


 清水が席に着く。視線を変えようとはしない、氷のような表情をしていた。男子に較べると女子は厄介だ。裏側を見誤って、表側の計算を間違えると一巻の終わりだった。それが今の俺。

 昼休みは俺も何とか補習も無くゆっくりしていた。


「ごめん。今朝、謝ろうと思っていたんだけど、昨日のこと」


 佐藤がまだ弁当を広げている。左手に単語帳を持って、目は時々そっちに向かっていた。


「別にいいよ。アンタの小学生の時のクラスメイトだったんでしょ。アタシだって、そうなっていたら動揺するって」


 本当にそう思ってくれているならば助かる。俺はまだ幽霊になった中岡真白のことを話したくはなかった。


「落ち着いたら、ちゃんと言うから待ってて」


 記憶が全部戻ったわけではない。心の声が未だに抑制している気がした。


「それがいいね。あの子だって、そう思っているかもしれない」


 いつもの佐藤の攻撃がない。弱みを見せれば斬り付けて来る一刀両断の刃を抜かないでくれていた。

 中岡真白は、俺と小学五年生の一年間だけが同じ学級になった。そして、六年生でも一緒になる筈だった。それが実現しなかったのは、真白が死んでしまったからだった。


 どうして死んでしまったのかとか、いつ死んでしまったのかとか、俺は全く覚えていなかった。ただ似顔絵から名前とクラスメイトだったことを思い出しただけだった。


 昨日、家に帰ってから真白の写真を探した。押入れからアルバムを出して来て、五年生のページを念入りに調べたけれど、真白は何処にも写っていなかった。遠足の集合写真にもいなかった。俺の記憶違いなのだろうか。真白なんて存在しないのか。


 では何故、俺は似顔絵を勝手に修正できたのだ。佐藤が言うホクロを、俺はホクロではないと言ったのか。五年生のクラスメイトと断言したのか。


 もしかすると、五年生ではなかったのかもしれない。そう思ったが結果は同じだった。俺が持っているアルバムの写真の中に真白は存在しなかった。ただ気になるのは、五年生のページの写真が何枚か抜け落ちていることだった。何の写真だったのかは、もちろん覚えていない。しかしどうしてだか、それが心の奥底に引っ掛かっている。そこに何かがあったんだと訴えている気がした。


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