放課後の美術室で

 放課後の美術室に顔を出して、俺はいつも置きっ放しにしている画材を片付けていた。まだ誰も来ていない美術室は、人の念が込められた作品に満ちていて、まるでその人がいるような気配が漂っている。そんな感じ方は不気味といえば不気味なのだろうが、今の俺にはぴったりな気がした。


 コトッ、と音がする。

 新入生の佐藤がイーゼルの陰にいた。


「いたのか」

「ゲン先輩、こんにちはっ。何だか声を掛け辛かったんですよぉっ」

「隠れる必要はないと思うけどね」


 こちらの気分にはお構いなしに、佐藤は元気一杯に笑っていた。そして、壁に掛けられた卒業生たちの作品を見ては、奇妙な歓声を上げ出した。


「佐藤。これをやるよ」


 新品の筆を差し出した。片付けていて、一本だけ使っていないのを見つけたのだ。


「嬉しい。いいんですか、ゲン先輩っ」

「ここで描くのは、これが最後だからな」

「――」


 じっと佐藤が俺の目を見詰めている。最後だと聞いて、何かを考え耽っている様子だった。


「ゲン先輩っ。私、魔法使いなんですよっ」

「魔法使い?」


 初対面では愉快な性格を見せてくれていたが、今回も奇抜な自己紹介であった。


「小さい頃、お姉ちゃんに魔法使いにしてもらったんですっ」

「佐藤のお姉さん?」

「いいえ、姉ではありません。お姉ちゃんですっ」

「んんん」


 姉? お姉ちゃん? 別人ということ?

 佐藤は受け取った筆をくるくると回して、まるで魔法の杖のように空中に輪を描いている。


「うちの家族は、三年前にこの町へ引っ越して来たんですけど、実はその前にもここに住んでいたことがあるんですっ」

「親父さんの仕事で出て行ったけど、また戻って来たとか言うことで」

「はい、当たりですっ。それで前に住んでいた所にいたお姉ちゃんに、呪文を掛けてもらったんですっ」

「ほう、それは羨ましい」


 魔法の杖をくるくる回しながら、満足げに微笑んでいる。


「ゲン先輩にも魔法を掛けてあげましょうか?」

「ああ、頼むよ」


 本物の魔法なら、今すぐにでも掛けて欲しい。失くした記憶を取り戻して欲しい。


「何になりたいですか?」

「ヒーローにでもしてくれるか」


 俺は少しふざけ加減に言ってみた。それは俺の憧れではあるが、下級生を相手に本気でなりたいなんて言えるわけがない。


「それは――っ」


 佐藤が俺の目をまた見詰めて、何か考えている。この変な間の意味は、何なのだろう。この時の佐藤は、本当は何を考えていたのだろう。


「それは魔法では無理ですね。ヒーローになるには、改造手術が必要ですっ」

「何だ、それ? じゃあ、そのお姉ちゃんに頼もうかな」

「――っ」


 また何か考えている。気になるじゃないか。


「そうそう。昨日、姉が先輩はやっぱり頼りになるって言っていましたよっ」


 くるくると魔法の杖を回して、そんなことを言われても、俺には何のことだか分らなかった。お姉ちゃんと呼んでいないので、また別人なのだろう。


「姉って?」

「あれ?」

「ん?」

「分からないんですか?」


 佐藤が俺の顔を不思議そうに眺めている。


「ほら、いるじゃないですか。ゲン先輩のクラスにっ」

 まじまじと俺は佐藤の顔を見た。ショートボブのさらさらの髪が輝いている。

「あっ!」


 俺の脳裏に、さらさらの長い髪の女子が浮かんだ。


「佐藤翠か」

「大正解ーーっ。それで私の名前が――っ」


 そう言いながら、名札を差し出している。


「佐藤藍」

「そうです。もう、とっくに気付いていると思ってたんですけどねっ」

「佐藤なんて、大勢いるからさ」

「でも、みどりとあいって言う色が名前ですから、分かり易いんですよっ」

「姉妹だったのか」

「あはははっ」


 出し抜けに笑うと、姉に似ているように思う。


「何?」

「姉が言っていた通りです。少し鈍いところがあるってっ」

「あいつは家でもそんなことを言っているのか」

「何でも話しますよっ。姉妹ですからっ」


 姉の佐藤がしてやったりという顔をしているのが想像できた。


「でも、頼りになるなんて、絶対に言ってないだろう?」

「いいえ、昨日はちょっと違っていましたねっ」


 佐藤の妹は、さらさらの髪を揺らしてかぶりを振っている。


「新学期が始まってから、ちょっと変だったんですよ、姉の様子がっ」


 俺は、昨日?と思った。クラスの女子たちが言っていたように、俺は佐藤と会っていたらしい。図書館で何があったのだろうか。記憶が全くない。思い出せない恐怖が襲ってくる。また何かを忘れてしまったらどうしようか。記憶を全部なくしてしまったら、俺はどうなってしまうのだろうか。


「でも、ゲン先輩のことを話していて、元に戻ったみたいでしたっ」


 佐藤の妹が笑顔になっている。姉が大好きだと言うのが、それだけで分かる雰囲気を存分に発していた。ぺこりと頭を下げたところに、二年生たちが美術室にやって来たので、さっさとそちらの方に行こうとした。


「図書館で何があったのか聞いているか?」

「いいえ、何も。ですっ」


 短く答えただけで、足を止めようともしない。おいおい、まだ俺と話している途中だろ。少し腹立たしくなったが、引き止めれば、俺に昨日の記憶がないことを明かさなければならなくなる。佐藤の妹には、まだそこまで打ち明ける訳にはいかなかった。

 俺はそのまま美術部にいる気分にもなれず、図書館に向かった。佐藤に直接訊くしかない。それが手っ取り早いし、案外何でもないことなのかもしれない。思い詰めたって仕方がない。ここは楽天的に行こう。俺はそう決断していた。

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