香りに包まれ
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近づいてきたあなたを、あたしは最初「怖い」と思いました。それは直感。この人に、あたしの何もかもが奪われてしまいそうな、そんな気がして。警戒するあたしに、先輩は言いましたね。『友だちになりたい』と。このときすでに、あたしはあなたに、ふたつのものを奪われていたんです。ひょっとしたら、気持ちをおさえられないかもしれない。あたしがそんなふうに思っていたなんて、想像できましたか?
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「先輩、もしかして、猫飼ってます?」
正式に友人になったあたしたちは、さも当たり前のように昼休みの時間をともにしていた。中庭のベンチに、ふたり並んで座る。木陰になっているこの場所が、彼女のお気に入りらしい。今日は陽射しが強く、暑くて窓際では寝られそうになかったので、あたしは内心よろこんでいた。
「どうしてわかったの? 毛色が真っ白い子が、ひとりいるわ」
猫に『ひとり』とは、先輩らしいというか、なんというか。きっと、家族の一員として、すごく大切にしているのだろう。同じ猫好きとして、親近感がわく。
「久美ちゃん、優しい目をしている」
「そう、ですか?」
「うん、そう。でも、わたしにじゃないのが、ちょっと残念」
「それって、どういう──」
「ううん。おかしなことを言ってごめんなさい」
先輩はあたしの言葉を遮り、「もう、おしまい」と言わんばかりに、謝罪を口にして会話を切った。『わたしにじゃない』とは、いったいどんな意味を持つのだろう。何かをごまかすように立ち上がった先輩は、スカートの裾を整えて数歩進むと、くるりとあたしに向き直る。彼女の体の動きに合わせて流れる髪も、ひるがえるスカートが描く円も、その一挙手一投足が本当に優雅な人だ。
「久美ちゃん。あのね……」
柔和な瞳に、わずかばかり決意を秘めたような、そんな視線に射抜かれる。この人と目が合うと妙な緊張が走り、鈴を転がすような声に、心が落ち着きをなくす。あたしは人見知りするほうではないのだけれど、先輩とのふれあいは、なぜか慣れないでいた。
続く言葉を待っていると、彼女の目がぱちぱちとまたたく。あたしの瞳に向けられていたそれは、顔より下、胸元のあたりへうつったようだ。
「もう。久美ちゃんたら、こんなにだらしなくして」
どうやら、あたしのネクタイの結びかたが気になるご様子。締めつけられるのが嫌でゆるくしているのを、
「わたしがしてあげる」
本人はまったく意識していないのだろうけれど、先輩の豊かな胸が鼻先にあり、目のやり場に困ってしまう。見ないように、と顔を上げると、彼女の唇が想像以上に近くにあった。どきりとして、どこを見ればよいのかまた視線が迷う。やや下方を見やると、そこには無防備にさらされた白い首すじが。
「あの、早く、済ませてもらえますか」
でないと、ヘンな気を起こしそうなので。相手は同じ女子だというのに。
「んー。じゃあ、これからはきちんとしないと。ね?」
あたしが弱っているのが伝わったのか、実に手際良く、するりとネクタイを結び終える。
「はい。できました」
「こんなの、首にかかっていればそれで──。あれ? 窮屈に、感じない」
「でしょう。無理に締めなくていいの」
以前、母にしてもらったのを思い出した。見た目はきれいで、それでいて苦しくはない、上手なやりかた。感心しながら結び目をさわっていると、ふいに先輩の指があたしの後ろ髪にふれた。
「首、暑くない?」
毛先が肩にあたるかどうか、くらいに伸びたあたしの髪。確かに、これからの季節、首にかかるそれは暑さを助長させそうだ。思い切って、ばっさりやってもよかった。乾くのは早いし、身だしなみを整える手間も減る。そんなふうに考えていると、しゅるっとかすかな音が、耳に届いた。
「結ってあげる」
見ると、先輩の手から、自身の髪をまとめていたリボンが垂れ下がっている。そのまま、彼女の両手があたしの後ろに回された。そのまま、である。
「あの、こういうのって、普通は正面に立ってはしません、よね」
「リボンをしてあげるのに、かわりはないでしょう」
「そうです、けど」
真正面に立って、後ろ髪をリボンで結ばれる。距離が異様なまでに近い。気づいているのかどうか、あたしにとっては嫌味としかいえない膨らみが、彼女の動きに合わせて、ときどき鼻先にあたる。人の視界は広いはずなのだが、こうなってしまうと、どんなに目を逸らしても、そこに先輩がいるという事実を視覚が強制的に認識させてくる。
さらに困ったのは、匂いだ。先輩の髪が、あたしの肩をつたって胸元へ滑り落ちる。真っ黒に染めた絹糸のような、艶のあるさらさらとした髪。それが放つ柑橘系の香りが、逃げ場のない鼻を捕らえてはなさない。
まったくの無意識に、あたしはそれを指の腹で撫でていた。まとめて手に取ると、彼女の髪は
「黒い髪って、どう思う? 重たくないかしら」
「いえ。先輩のは、とってもきれいで、ずっとこうしていたいくらい、です」
(これ、シトラス、かな)
香りに包まれる、とはこのことだ。いけないと思いつつも、それに反して、ずっとこのままで、という思いがわいてくる。惚けている自分をはっきりと認識できた。匂いが気持ち良すぎて、先輩の髪をいじる手が止められない。そんなあたしの意識を引き戻すように、声が降ってきた。
「これまでに告白をしてくれた人──男の子はね、みんなそこばかりに目がいってね。誰もわたしを見てくれなかったの」
先輩の言う「そこ」とは、今あたしの視界を塞いでいる双丘を指すのだろう。女のあたしからしたら、髪だって決して負けてはいないが、異性となるとそうはならないのかもしれない。
「先輩の魅力のひとつ、じゃないですか。異性に──いえ、同じ女子だって憧れますよ、きっと」
「久美ちゃんも、そう?」
「あたしは、別に。ないものねだりなんてしません。それに、そこに目をやったところで、先輩を見ていることにはなりませんから」
「ふふっ。そういうところ、好き」
「どうせお子様の体型ですよ。まぁ、おかげで、何も気にせず走れます」
ぽそりと、『伝わらないものね』と、消え入りそうな彼女の声が聞こえたような気がした。それを確かめようと見上げたとき、首すじが軽く涼やかになり、そちらに気がいってしまう。
「どうかしら?」
先輩に問われ、うなじをさわる。そこにかかっていた髪は、どこにもなかった。風があたり、ひやりとして気持ちがいい。先輩が渡してくれた小さな手鏡を覗くが、うまく見えない。けれど、ふれてみると、短いポニーテールにしてあるのがわかった。
「これ、涼しくていいですね。あ、でも、リボン」
「そのまましていて。久美ちゃん、シュシュは持っている? リボンより手軽にできるから」
あいにくと、あたしはそういったものを持ち合わせてはいなかった。彼女に話すと、年頃の女子らしくないあたしを笑いもせず、「今日の帰り、一緒に買いに行きましょう」と誘ってくれた。「デートね」とうれしそうにしていたが、あたしの付き合いが面倒でないなら何よりである。
売り場で、汚れが目立たない、という理由からあたしが紺色を選ぶと、「少しはおしゃれしないと」と先輩は白系のものを手にのせてきた。うっすらと黄色みのある白色で、名前はなんとかホワイトと言ったか。結局、紺と白のふたつを買って、あたしたちは帰路についた。別れ際、ふわりと鼻孔をくすぐった先輩の香り。どんなシャンプーを使っているのか聞いておけばよかったな。
夜、お風呂に入ろうと脱衣所で鏡を見て、“忘れ物”に気がついた。我ながらうっかりしている。
「先輩のリボン、つけたままだった」
こういうのって、洗って返すのかな。洗剤はどうすれば、とか、手洗いがいいのか、とか、乾燥機にかけたら傷むのか、とか、あれこれと考えたが、結局そのまま、きれいにたたんで返すことにした。
ベッドに寝転んで、リボンを
(ちょっと、やばい。あたしったら、何してるの)
慌ててリボンを振り払った。音もなく床に落ちたそれを拾い上げ、丁寧にたたみ直す。指先が、少し震える。そろりと手を鼻に近づけると、まだ微かに、彼女の匂いがした。
つづく
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