優しい声を聞き




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 その日、わたしがあなたを見つけたのは、偶然だったの。本当に大きな声で驚いちゃった。あれって、わたしを助けてくれたのではなかったのね。勘違いして、恥ずかしい。けれど、あなたに近づくきっかけとしては、十分だったわ。そのままとおりすぎたくはなくて。細くて弱々しいつながりを、確かなものにしたかった。だからわたしは、思い切って、あなたのそばに行ったのよ。キューゾーちゃん。




 **




 明くる日。高くなった陽射しを浴びながら窓際でうとうとしていると、中庭にいる女生徒の姿が目にとまった。昨日の彼女である。同じ場所に座り、これまた同じように、育ちの良さが滲み出たきれいな姿勢。


(今日は女優でなく、ひとりの生徒みたいね)


 そこに恋愛模様は見られず、お昼ごはんを食べているようだった。わきに置いた魔法瓶を手に取ると、フタを回す。勢いよくはずれてしまったようで、落とさないように慌てる姿がなんとも愛らしい。


(やっぱり、平和が一番。ゆっくり寝よう)


 昨日の夢の続きが見たい。できれば同じ猫を望みたいのだけれど。血統書なんてなくたっていい。雑種で十分。もう、毛だまの生き物ならなんでもよかった。眠りの世界でも猫とたわむれられるなんて、こんな幸せがあろうか。まぶたが重くて重くてたまらない。すうすうと自身の寝息が聞こえてくる。


(おやすみ、なさい)


 お昼休みの喧騒も、今のあたしにとっては子守唄。中庭に植えられた申し訳ていどの自然から緑が香り、ほんのり冷たさを含んだ風が、あたしの短めの髪をゆらす。世界のすべてが、深い眠りへ、そっといざなってくれているようだった。


 *


 時間にして十五分くらい経っただろうか。すんと鼻が鳴り、柑橘系の匂いに気がついた。きつくなく、淡く、心が安らぐ香り。そういえば、と、お昼ごはんを抜いていたのを思い出す。


(フルーツ、食べたい、かも。とっても、甘いの)


 そこでふと、人の気配を感じた。薄く目を開けると、中庭側から窓辺に立ち、あたしを見上げる女生徒がひとり。昨日の麗しの君である。


「血統書つき──」


 寝起きでぼんやりとしていたせいか、人に対しては失礼にもあたる単語が、思わず口をついた。謝らないと、の気持ちから眠気は霧散し、意識が現実に引き戻される。


「血統書?」


 彼女は、別段気分を害した様子もなく、あたしの言葉を反芻はんすうし小首を傾げた。目を細め、こちらの瞳をまっすぐに見つめてくる。「次はなんて声をかけてくれるの?」と、そんなふうに訴えているような、口以上に饒舌じょうぜつな、水に濡れた宝石のような双眼。


「あぁ、それは、その。あたし、猫が好き──でして」


 言葉を継ぎながら彼女の首元に目がゆき、とっさに語尾を敬語に変える。ネクタイの色があたしとは違う。どうやら、一学年上の先輩のようだった。


「ふふっ。つまり、あなたから見たら、わたしは血統書つきの猫ということなのね」


 その声に、息を呑んだ。まるで楽器を奏でたような、澄みとおった声。いったい、どこからその“音”を出しているのだろうか。なまめかしいとかあだっぽいとか、そういったものとは対極にある、清涼感に溢れる声音。眼前にいる少女が有する魅力は、姿形にとどまらず、発する音にまで及ぶ。


(やっぱり、ちょっと怖いわ、この人)


 二の句が継げずにいると、やや困り顔をして彼女が口を開いた。


「えぇと、キューゾー、ちゃん?」


 奪われかけた意識が、すっと戻ってきた。「血統書」などとあたしも悪かったが、いきなりあだなで呼ばれ、その気安さに少しだけ腹が立つ。


「あの、初対面のときって、自分から名乗るのが礼儀なんじゃないですか?」


 ちょっと口調がきつかっただろうか。周囲にはよく言われるのだ。『あんたは正しいけれど、ものの言いかたを考えたほうがいい』と。


「そ、そうよね。わたしったら、ごめんなさい」

「まぁ、いいんですけれど。お友だちになりたいわけじゃ、ありませんし」


 つっけんどんに言うと、思いがけず、大きな声が返ってきた。その迫力に気圧される。


「わたしはなりたい」


 あたしに向けられる強いまなざし。あまりに淀みのない、澄んだ瞳がじぃっとこちらを見ている。覗き込むと、帰ってこられないようなそんな気がして、ふいっと視線を逸らす。


「いないんですか、友だち」

「う、うん……。どうしてかしらね。わたし、浮いちゃってるみたいで」

「それはそうでしょうね」

「えっ──」


 しまった、そう思ったときはもう遅かった。あたしの口ときたら、滑りすぎである。こんな調子で、よくもまあ相手に礼節を説いたものだ。

 彼女はきれいにすぎる。異性には数えきれないほど声をかけられていそうだし、美しい容姿に、同性からは、羨望をとおり越して敬遠されているのが容易に想像できた。


「はぁ、くだらない」


 おそらく先輩は、やっかみやら妬みやら、そんな負の感情にさらされてきたのだろう。自分にないものを持っているからなんだってのよ、と苛立つ。心の底からのため息とともに、言葉ももれてしまった。


「えっ、あ、わたしのことよね。昨日は助けてくれて、なんて、都合よく受け取っちゃって。お礼をして、できたらお友だちになりたいなぁ、と思ったの。でも、それがキューゾ──あなたの気にさわったのなら、謝ります」


 先輩の言い分はよくわかった。さしずめあたしは、異性に無理やり迫られているところを、颯爽さっそうと救いに現れた“王子様”なのだろう。お姫様はひとめで恋に落ち、ふたりはめでたく結ばれました、と、おとぎ話ならばそうなる。しかしこれは現実だ。加えて言うなら、あたしたちは女同士である。


(ああ、そうか。だったら、お友だちよね)


 別に悪くはないか。そう思い、あたしから礼儀を返した。


「すみません。あたし、つい口に出ちゃうみたいで。先輩のこと、嫌っているわけじゃないので」

「本当に?」


 また、彼女の背に大輪の花が咲く。顔だけでなく、全身で表現される、わかりやすいよろこびの感情。けれど、それが急速にしおれてゆく。今度は、あたしが首を傾げる番だ。彼女は、おずおずと口を開いた。


「けい、と言うの。浅倉あさくらけい。名前、男の子みたいな響きよね。漢字は「蛍」なのだから「ほたる」でよかったのに。せめて「子」をつけて「蛍子けいこ」にしてほしかったわ。わたしには兄が三人いるのだけれど、両親ったら、四人目もきっと男子だと信じて疑わなかったみたい。検査で女の子と知っても、わたしに贈るつもりだった名前は変えないって、かたくなに、ね」


 なるほど。それで名乗りづらかったのか。「くだらない」と、また出そうになる言葉を慌てて呑み込む。女の子で「けい」のどこがいけないのだ。むしろ、格好いいではないか。女性にカッコイイとは、はたして褒め言葉なのかしら、と思いもするが、まあよしとしよう。


「あたしは久美くみです。和久久美わくくみ。美しくないので、キューゾー。うちは女の子が欲しかったみたいです」

「久美ちゃん──。ふふっ、かわいい」

「あの、笑わないんですか」

「? 何を笑うの?」

「わくくみで『枠組わくぐみ』と、よくからかわれたので」

「まぁ、上手ね。でも、人の名前を笑ってはいけないわ」


 上手とは、調子が狂う。


「それにね。久美ちゃんだって、そうじゃない」

「? そうって、何がです?」

「わたしの名前、ヘンに思っていないでしょ」


 そう言って先輩は、自身の頬を人差し指でトントンと叩いた。口には出さなかったが、顔にあらわれていた、ということらしい。この人は、ゆるふわ女子のようでいて、抜け目なく見ている。


「ねぇ、久美ちゃん。わたしとお友だちになって、くれる?」


 期待に潤んだ瞳と、脳の奥まで響く甘い声に、くらりとした。「久美」と呼ばれるのも、家族を除けばずいぶん久しぶりである。彼女に魅了されたのか、頭が軽く痺れ、あたしは「いいですよ」と、それだけ絞り出すのが精一杯だった。

 帰宅し、家がこんなに心の安らぐ場所だったのかと、初めて知った。先輩といると、精神が削られる。ひたひたと前を横切ろうとする愛猫を見つけ、抱こうと近づく。けれど。


(あ、あら?)


 彼女は、人で言うところの仁王立ちをして、こちらを見上げてくる。あたしが距離を詰めようとすると、後ずさり、抱かせようとはしてくれない。心なしか、黒色の毛並みが逆立っているようだった。


(怒っているの?)


 そういえば、と思い出す。飼い主からよその猫のにおいがすると、彼ら──うちの場合は彼女──は嫉妬するらしい。野良を撫でてはいないし、他に心当たりは何もない。手首や制服の胸元のにおいをかいでみる。


(別に、なんのにおいも、しないけれど)


 明日になれば機嫌をなおすだろう、と気楽に考え、小さな器にエサを入れてやる。お腹が空いて、気が立っていたのかもしれない。

 翌朝見ると、あたしが置いた器の横に、もうひとつ空になったお皿があった。母に聞くと、いつもの容器に入ったエサは口にしなかったそうだ。見かねた母が適当なお皿に食事を用意してやったところ、猛然と食べたという。


(あたしの愛の、どこが気に入らないのよ)


 釈然としなかったが、時間に背を押され、あたしは学校へ向かった。振り返ると、愛猫は柱から顔を半分だけ出して、こちらを窺っていた。



 つづく

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