第十二章 あなたの記憶の片隅で



ああ、そうだ、何もかも思い出した。

カンタがどんな人だったのかも。

ギンギツネも、アカギツネも、あの時の生活も。

全部思い出した。

全部。

全部。

生まれてから死ぬまでのその全て。


思い出してしまった。




視界がボンヤリとしている。

反目ながら、周りで覗き込んでいる顔を感じとる。

大きな耳が四つ。


「…っ!キタキツネッ!」


耳の内の二つを持っていた影がボクに抱きついた。

嗅覚がすまされてきて、それが誰だか分かるようになる。


「ギンギツ…ネ…きついよ…」


「ご、ごめんなさい…大丈夫?」


「うん、まだ少しぼーっとするけど…」


知っている天井だった。

温泉の四角い暖色の照明がチルチルとギンギツネの涙に反射されている。


「ボク、どうやってここに戻ってきたの?」


アカギツネが横で言う。


「カンタさんが病院に運んで手当てしてもらったあと、おぶってここまで連れてきてくれたんですよ」


横を向くと、湿布を貼った腰を出したままでカンタが横になっている。

ありがとう、と小さく呟いてみる。 


「グッスリ眠ってますね…」


「うん…」


「ホラ、まだ寝ていなさい、何かあったら大変だから」


ギンギツネはそう言うと、優しく毛布を掛けてくれた。

涙を拭われた目が、まだ赤くなったままだ。


今は少し甘えていようと思う。


あと少しだけ眠りたい。


もう


できることなら


ずっと眠っていたいのに。




「グガ…ガガ…ゴッ、ゴホッゲホゲホ…うーっ…」


え"え"え"と汚い音を出しながらえずく。

寝ていた時のヨダレが変なところに入ってしまったみたいだ。


起きたはいいが、今何時だ…


まだ夜の7時…?!


「…あ、キタキツネ、キタキツネ?!」


「うーん…ここにいるよ…」


キタキツネは隣に敷かれた布団に寝ていた。

ちょっとまった、俺は畳の上で首が痛いのに不平等すぎやしないだろうか。


「よかった…ビックリしたよ、なんでもないとは言われたけど、突然倒れるんだからさ」


「…うん、ごめんね、いっつも心配かけて」


「…いっつも?て言うかどうしたんだ?なんか少しヘンだぞ?」


カンタの真っ黒な瞳に覗き込まれると、少しドキッとする。

虹彩の中に、そこ知れない奥行きを感じさせる闇の黒をたたえている。


ボクのせいだ。


「大丈夫だよ…ホラ、むせてたでしょ?お水あそこにあるから、早く休んで」


「…いいよ、もう昼寝しちゃったから眠れないさ。それよりお腹減ったな…何かとってこようか?」


「ううん、ボクがとってくる!」


カンタは止めようとしたが、キタキツネはドタドタと走っていって、お菓子やなんやを抱えて戻ってきた。


「食べていいよ」


「マジで?どれから開けようかな…」


今までギンギツネに内緒でこっそり集めてたお菓子。

もういらないんだ。


「ホラ、キタキツネも」


「うん」


鼻の奥がつーんとした。




アカギツネは大分の旅館の仕事に慣れていた。

どころか従業員よりも器用で手際が良く、落とし物を探すのにも磁場が役立って、優秀なキャストの1人だった。


ガチャン!


「きゃっ!ごめんなさい!」


アカギツネの持っていた皿が突然真っ二つに割れた。

落としたわけでも、何かにぶつかったわけでもなかった。

ただ、その場にいた誰もが黙り、不吉な何かを、言いようのない得体の知れない不安を感じていた。




ギンギツネもまた。


「今夜は星が瞬いている…それにおぼろ月夜ね」


旅館の二階の廊下から顔を覗かせていた。

風がヒュウと吹き、耳が痛くなる。


肌を突き刺す空気に、ため息が混ざった。




カンタはなんだかんだ言っておいて、また寝てしまった。

ありがとう、カンタ。

ずっとごめんね。

ボクは迷惑をかけてばっかりで。

カンタは何も悪くないよ。

誰も悪くないよ。

でも…


ボクはなんだかもう辛くなっちゃったんだ。

生きるのが。


キタキツネがカンタの前髪を優しく掻き分け、額に唇をそっと触れさせる。

目を閉じたまま、ゆっくりと時間が流れていく。


ただしその時間は永遠ではない。


「ありがと…さよなら」


キタキツネは静かに窓を開ける。

痛いくらいに冷たい風が吹いている。

雲は薄くたなびき、月灯りが不確かなボンヤリとした夜だ。

じきに雪が降る。

雪は全てを覆い隠してくれるだろう。

思い出も全て。


二階の窓から飛び降り、しなやかに着地する。

小さな足跡だけが雪に残されてゆく。


キタキツネは虹色の光と共に脚にブーツを出現させ、その場所へとゆっくり歩んでいった。








「うぅ…さむ…」


カンタは開け放された窓の外から入ってくる風のせいで目を覚ましてしまった。


「なんだよ…閉めてくれたっていいじゃないか…ハックション!…ん?」


カンタが窓から外を見やると、ひとり何も持たずにゆっくりどこかへ歩いていくキタキツネを見つけた。


「…キタキツネ?」

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