第52話 エピローグ

「おい直人!」

 

 教室の窓をぼんやりと見つめていたら、突然名前を呼ばれて肩を叩かれた。

「何だよ」とぶっきらぼうに返事をして振り返れば、そこにはニンマリとした笑みを浮かべる哲也の姿。


「まさかお前が理系のクラスを選ぶとはなー! ってことで、今年もよろしくッ」

 

 そう言って軽快に右手を差し出してきた相手に、俺は握手の代わりにその手をパシンと軽く叩く。どうやら高校最後の一年間も、コイツとは縁があったらしい。


「でもなんで理系に進もうと思ったんだよ? お前どう見たって文系顔なのに」


「なんだよ文系顔って。それに俺はな、こう見えても数学が得意なんだよ」

 

 ほら、と言って俺は鞄の中から分厚い参考書を取り出すと、それを哲也に突き出す。


「マジかよ⁉︎ これ受験対策用のテキストじゃん。……しかもちゃんと解けてるし」

 

 パラパラとページをめくりながら、哲也はまるで幽霊でも見ているかのような表情を浮かべている。それがあまりに間抜け面だったので、俺は思わず吹き出してしまう。


「お前な、何もそこまで驚かなくていいだろ」


「いやいやいや、そりゃ驚くだろ! あの赤点一桁で有名だった直人がここまで出来るようになってるとか」


「…………」

 

 なんで有名になってんだよ、と俺は思わず目を細めて悪友の顔を睨む。けれど相手は相当衝撃を受けているようで、俺の視線には気付かず何度も参考書をめくっては目を丸くしていた。

 そんな哲也を見ていた俺も、チラリと参考書へと視線を移す。そこには、以前の自分なら一問たりとも解けることがなかったであろう問題たちに、今や見事に自力で導き出された答えが記されている。

 まさか自分でも数学が実は得意分野だったなんて夢にも思わなかったけれど、それに気付くことができたのは……きっとアイツのおかげだろう。

 そんなことを思い、俺はチラッと窓の方へと視線を向ける。


「そういや直人、お前大学が国公立志望なんだって?」

 

 再び聞こえてきた哲也の声に、「誰に聞いたんだよ?」と今度は俺が驚く。


「山中先生がさっき職員室で言ってたぞ。あの三島くんがやっとヤル気を出してくれたってかなり喜んでたからな」


「なんだよそれ」

 

 俺はそう言うと、恥ずかしさを誤魔化すようにため息をつく。


「でもお前、急にどうしてそんなにヤル気になったんだ? 去年までの直人だったら、『俺に進路と恋愛は関係ねー!』ってよく叫んでたじゃん」


「そんなこと叫んだことねーだろ! 俺だってやる時はやるんだよ。それに……」

 

 俺はそこで言葉を止めると、そっと息を吸い込む。鼻腔を撫でた空気には、新しい始まりを告げる春の匂いがたっぷりと含まれていた。


「もう俺だけの人生じゃないからな……」

 

 ぼそりと呟いた自分の言葉に、哲也が「え?」と不思議そうに首を傾げた。そんな友人に俺はあえて返事をせずに、再び窓の方へと視線を向ける。そこに見えるのは、去年よりも少し見晴らしが良くなっただけの、いつもの見慣れた田舎の風景だ。


「……」

 

 結局、あの夏の日から綾音とは一度も会っていない。

 彼女が今どこで何をしているのか、まあある程度は検討がつくけれど、詳しくはわからない。きっとそれは向こうも同じだろう。

 去年はあれだけ嫌というほど顔を合わせていた時期もあったのに、今となっては変な気分だ。……そう、まるで長い夢を見ていたように。

 俺は小さく息を吐き出すと、教室の中へと視線を向ける。新学期の初日、どことなくまだ馴染めていないクラスメイトたちの中には、知っている顔もちらほらといることに気付いた。きっと彼らとも、俺は何かしらの縁があったのだろう。

 そんなことを思いながらズボンのポケットに両手を突っ込んだ時、ふと右手の指先に固いものが触れた。俺はそれをポケットからそっと取り出すと、指先を開いて手のひらの上ににあるものを見つめる。


「直人、お前なんでビー玉なんて持ってんだよ?」


 不思議そうな表情を浮かべる友人に、俺は「ちょっとな……」と言って言葉を濁す。いつか俺を綾音のもとまで導いてくれたガラス玉は、今度は春の陽光を閉じ込めて小さな命みたいに輝いていた。

 俺はそれを再び強く握りしめると、ポケットの中へと静かに戻す。


「そういえばさ、あの神社立て直すらしいぜ」


「え?」

 

 不意に聞こえてきた言葉に、俺は哲也の顔を見上げる。


「なんか結構重要な文化財みたいだったらしくてさ、あの土砂崩れの復興作業の時にそんな話しが出たんだって」


「……」

 

 そっか、とだけ返事をすると、今度は妙に嬉しそうな口調で哲也が話す。


「だから新しく建て直されたら、今度こそ一緒に『縁結び』に行くか?」

 

 そう言ってニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべる哲也。そんな相手に、俺は呆れたように小さく息を吐き出す。


「いや……俺はもういいよ」


「え? 何でだよ」

 

 俺の言葉に、哲也は怪訝そうに眼鏡の奥の目を細めた。そんな相手から視線を逸らすと、俺は窓の向こうを見上げる。

 そしてそっと目を閉じると、囁きかけるように心の中で呟く。


 俺がこうして生きている限り、アイツは……

 

 私がこうやって夢を追い続けている限り、彼は……


 ふと懐かしい声が聞こえたような気がして、俺はハッと瞼を上げた。視線の先には、きっと彼女にも同じように見えているであろう青い空。そんな空を見つめながら、俺はぎゅっと手のひらを握りしめた。

 目に見えず、指先一つ触れることができないけれど、それでも今この瞬間も確かに感じるものがある。

 俺は再びゆっくりと瞼を閉じると、自分と同じことを言い出しそうな彼女のことを想いながら、胸の中でそっとその言葉を呟く。

 

 だってこの『魂』は、今も大切な人と繋がっているのだからーー

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そして君と魂をわかつ もちお @isshi

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