第44話 嘘と優しさ

 あれからどれだけの時間が経ったのだろう。

 ぼんやりとした月明かりだけが照らす病室の中で、私は静かにベッドに寝ていた。死んだようにピクリとも動かず、ただ規則的に呼吸だけを繰り返す。

 昼間お母さんと一緒にいた時のような気力はなく、泣き疲れてしまった私は夕食さえもまともに食べることができなかった。


「……」

 

 無機質に響く時計の音だけが、今こうしている瞬間も私が生きていることを教えてくれている。けれど何故か、それを素直に喜べない自分がいた。

 そっと目を閉じると、真っ暗になった世界の中では、昼間見てしまったあの光景が瞼の裏に浮かんでくる。それと同時に、胸の奥ではジクジクと痛みが広がっていく。

 今思えば……冷静になって考えてみれば……この気持ちは私の勝手なわがままなのだ。

 そんなことを思った時、喉の奥に詰まるような苦しさを一瞬感じて、私は慌てて息を吸った。そして何度か深呼吸をして少しずつ呼吸が落ち着いてくると、意識はすぐに彼のことへと向かう。

 もともと私と直人は、違う世界の人間同士。

 たとえお互い顔を合わすことができたとしても、私は彼と同じ世界で、同じ空気を吸って、そして彼の隣で一緒に歩くことはできないのだ。

 それだったら、直人にはちゃんと側で支えてくれる人の存在が一番大切なのではないだろうか。彼が悩んだ時にその手を優しく握りしめることができて、一緒になって未来へと歩んでいけるような人の存在が……

 そんなことをぼんやりと考えていたら、どうやら日付が変わってしまったようで、枕もとに置いていたスマホが一瞬震えた。

 ついに、私にとって運命の日を迎えてしまったのだ。

 

 この先、直人がいなくなった世界で私は生きていけるだろうか……

 

 いつの間にか私の心の中で、誰よりも大きな存在になっていた直人。あまりにも非現実で、夢のような関係をずっと続けてきてしまったせいか、彼のいない世界がまったく想像できなかった。


 魂が繋がっているというのであれば、きっと私にとって直人の存在は……

 

 暗闇に包まれた世界でそんなことを考えていた時、ふと誰かの声が聞こえたような気がした。


『……やね……綾音!』


 不意に頭の中で名前を呼ばれ、私はハッと瞼を上げた。すると再び声が聞こえる。


『綾音、そこにいるのか!』


 驚いた私が枕もとにあるスマホの画面を覗き込むと、そこにはぼんやりと自分とは違う顔が映っていた。


 直人……

 

 ずっと会いたくて仕方なかったはずの彼の顔を見た瞬間、私は咄嗟に画面から顔を背けた。


『綾音! 良かった……無事だったんだな』

 

 私のことを心配してくれる彼の優しい声音に、思わずぎゅっと胸が締め付けられる。溢れ出しそうな感情を無理やり抑え込もうと、私はスマホに背を向けたまま黙り込む。


『綾音。あ、あのさ……』


『……何?』

 

 返事をした声は、自分でも驚くほど冷たかった。そんな私の言葉に、『え?』と直人が一瞬動揺する声が頭の中に響く。


『綾音、もしかして体調でも……』


『……ほっといてよ』

 

 私は吐き捨てるようにそう言って直人の話しを遮る。ズキズキと胸の奥が痛むのを感じながらも、それでも私は言葉を続けた。


『もう私には関わらないで』


『綾音……急にどうしたんだよ』

 

 戸惑うような彼の声から逃げるように、私は強く布団を握りしめると顔を隠した。


『もう嫌なの。あなたと関わることが。あなたの顔を見るのも話すのも全部嫌。正直、ずっと我慢してた……』


『……』

 

 顔を埋めた枕が、じわりと冷たく滲んでいく。私は泣いていることがバレないように、必死に声を押し殺した。


『綾音、冗談……』


『だからほっといてよ!』

 

 直人の言葉を遮るように、私は心の中で叫んだ。


『私はあなたのことがずっと嫌いだったの! 能天気でバカなことばっかり考えて、自分の人生のこともちゃんと考えない直人のことがずっとずっと嫌いだった!』

 

 だから……、と言葉を続けようとした時、自分の心の声が震えていることに気付いた。 

 本当は言っちゃダメだとわかっていながらも、それでも私は震える唇をぎゅっと噛み締めると、覚悟を決めてその言葉を口にした。


『だから……もう二度と私の前には現れないで』


『…………』

 

 私の言葉に、直人からの返事はなかった。ドクドクと血が溢れ出しそうな胸の鼓動だけが耳の奥で聞こえる。

 しばらく沈黙が続いた後、彼は『ごめん……』とだけ小さな声で呟くと、それから話しかけてくることはなかった。

 プツリ、と心の奥で何かが途切れたような気がした。

 その瞬間、張り裂けそうな胸の痛みと悲しみの中で、私は悟ってしまう。もう二度と直人には会うことができないのだと。

 あんなにも笑い合っていた日々が、一緒に作ってきた思い出が、ひび割れた鏡みたいにポロポロと剥がれ落ちていく。その度に、それは涙となって私の目から溢れた。

 痛みで咳き込みそうになる胸を押さえながら、私は絞り出すような声で、届かぬ相手に最後の言葉を漏らす。


「直人……ごめんね」

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