第43話 もう一つの現実

「何かほしいものある?」

 

 母の優しい声が、ベッドの横から聞こえてきた。私は病室の窓の向こうに広がる青空を見つめたまま、小さく首を振る。


「大丈夫。何もいらない」


「そう……」 

 

 少し寂しそうなその声に、私は視線をそっと母の方へと向ける。


「明日の手術が終わったらお母さんにたくさん頼むことがあるから、その時はよろしくね」


 ニコリと微笑みながらそう言うと、母の表情に明るさが戻った。


「そうね。綾音の手術が終わればしばらくの間入院生活が続くから、お母さんも頑張らないとね」


「そうだよお母さん。まずは私の好きなお菓子を持ってきてもらうでしょ。それに読みかけだった小説と……」


 左手の指を一つずつ折り曲げながらお願いごとを頼む私に、「こらこら」と母は呆れたように笑った。そんな母親につられるように私もクスリと笑う。

 手術を受けると決めた時、あまりの恐怖にずっと身体が震えていた。

 もしかしたらそれが私の人生最後の日になるのかもしれないと思うと、怖くて眠ることもできなかった。

 でも、あの日の夜、直人が言ってくれた言葉が私の心を支えてくれた。


 負けんなよーー


 不器用なぐらい真っ直ぐで、そして、温かかった言葉。

 口下手な彼のことだから本当は伝えたいことがたくさんあったのかもしれないけれど、それでも、直人が言ってくれた一言で私は覚悟を決めることができた。

 手術を受けると。手術を受けて、病気を治して、そしてもう一度直人と今までのように一緒に過ごしていきたいと。

 私はそんなことを思うと、そっと窓の向こうを見上げた。そこに見えるのは、遠くどこかの世界まで繋がっていそうな夏の青空。

 いつか直人が話してくれた、祖母から聞いたという縁結びの話し。

 結鈴神社の縁結びは『魂』を結ぶ、と。

 もしもそれが本当なら、たとえ今は会えなくても、私の魂は彼と繋がっている。今この瞬間も、私の心は大切な人と繋がっているのだ。

 そんなことを思うと、不思議なほど不安も恐怖も消えていくような気がした。


「私、ちょっと散歩してくるね」


 直人のことを考えて少し力が湧いてきた私は、そう言ってベッドから上半身を起こした。そんな自分に、「でも……」と母が不安げな声を漏らす。


「もう、心配しなくても大丈夫だよ。まだこんなに元気なんだし」

 

 そう言って私は母の前でわざとらしくガッツポーズをする。すると母がクスリと笑った。


「わかったわ。でも、あんまり無理しないでね」


「うん」

 

 私は返事をすると両足をベッドから下ろしてスリッパを履く。そして立ち上がって病室の扉へと向かうと、リノリウムが続く廊下へと出る。最近立て直したというこの総合病院はどこも綺麗で、手術を控えた私にとっては気持ちが余計に落ち込むことがないのでありがたかった。

 等間隔で並ぶ病室の扉の前を通り過ぎていくと、エレベーターに乗って一階まで降りる。今日は日曜日で救急外来しかやっていないせいか、普段は人で溢れ返っている受付ロビーはひっそりと静まり返っていた。

 私はそのまま廊下を進んでいくと、中庭が見える場所へと向かう。患者が少しでも元気になるようにと病院側の配慮なのか、ガラス壁の向こうには太陽に向かって力強く咲く向日葵ひまわりが咲き誇っていた。そんな景色を眺めつつ、私は誰もいないベンチへと腰掛ける。

 願いを届けるように天に向かって咲く向日葵を見つめていた私は、祈るようにそっと瞼を閉じた。


 もしも叶うのなら……もう一度、直人と会いたい。

 

 耳の奥に蘇ってくるのは、あの夜、私に勇気をくれた彼の声。私のことを努力家と言ってくれて、負けず嫌いだと言って、そして誰よりも優しいと言ってくれた直人の言葉。

 自分で聞いておきながら真面目に答えてくれた直人の言葉が恥ずかしくて、でも凄く嬉しくて、私は彼に背を向けたままずっと泣いていた。暗闇に飲み込まれた私の心を救ってくれた彼の言葉が、あまりにも温かくて。

 そんなことを閉じた瞼の裏側で考えていた時、ふと頭の中にガヤガヤと街の中にいるかのような音が聞こえてきた。その音に「え?」と驚いた私は慌てて目を開ける。


「これって……」

 

 目の前の景色には、向日葵の姿はどこにもなかった。

 大きなガラス壁が映していたのは、どこか知らない街の風景。そびえ立つビル群が陽の光を反射させながら、街行くたくさんの人たちを照らしている。


 まさか……

 

 ドクンと大きく脈打つ鼓動につられるまま立ち上がった私は、そっとガラス壁の方へと近づいていく。そこに映っている行き交う人々は誰も私のことには気づかない。

 その人混みの中に、見慣れた後ろ姿を見つけて私の心臓がドクンとまた大きな音を鳴らした。

 

 直人!

 

 走り出せばすぐに追いつけそうな場所にいたのは、私がずっと会いたかった人だった。 

 あまりの嬉しさに、私は唇を開いて彼の名を呼ぼうとした。が、その瞬間思わずハッと息を飲み込んでしまう。


「……」

 

 ピタリと身体が動かなくなってしまった私の視界に映っていたのは、少し恥ずかしそうな表情を浮かべている直人と、見たことのない知らない女の子だった。


 ……誰?

 

 さっきとは違う鈍い音をたてながら心臓が鼓動を刻み始める。それと同時に、痛みにも似た不安が私の心をぎゅっと掴んだ。

 まったく身動きが取れなくなってしまった私は、瞬きも忘れてその光景をじっと見つめる。すると視線の先にいた知らない女の子が、嬉しそうな表情を浮かべて直人の手を握った。


「え……?」

 

 あまりの突然の出来事に、私は無意識に声を漏らしてしまう。直後、鋭い痛みが胸の奥を突き刺した。

 

 嘘だ……

 

 まるで魂が抜け落ちたみたいに立ち尽くす私の前で、女の子は顔を真っ赤にした後、その手をすぐに離した。そんな彼女を直人はじっと見つめたまま、恥ずかしそうに頭をかいている。


 違う。これはきっと、幻だ……

 

 急に乱れ始めた呼吸を落ち着かせようと、私は大きく息を吸った。けれど、うまく肺に空気を取り込むことができず、激しく咳き込んでしまう。細めた視界の中では、二人の姿が徐々に滲んでいく。

 私がどれだけ望んでも、手を伸ばしたとしても届かないような場所に、あの女の子は直人と一緒にいるのだ。


 嫌……こんなの、嫌だ!

 

 一向に咳を抑えることができず、私は思わずその場にしゃがみ込んでしまう。

 ポロポロと頬を伝う涙が、咳のせいなのか、それとも目の前の光景のせいなのかも、もうわからない。ナイフで貫かれたような胸の痛みだけを感じながら、私は口元を押さえたままぎゅっと目を瞑った。

 それはまるで、目の前の世界との繋がりを、自ら断ち切ってしまうかのように…

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