第36話 胸騒ぎ

 長かった一学期の終わりを明日に控え、教室の空気はいつになく開放感に包まれていた。

 そんな様子を、まるで自分とは関係のないどこか遠くの世界でも眺めるかのように、私はいつもの席からただぼんやりと見つめていた。


「はぁ……」

 

 ズキズキと痛む頭を少しでも楽にしようと、私は机の上に顔を伏せる。身体も心もやけに重くてしんどいのは、きっと治りの悪い夏風邪だけのせいではないだろう。

 そんなことを思っていた時、不意に私は喉の奥に苦しさを感じて、慌てて顔を上げると激しく咳き込んだ。


「綾音、そろそろちゃんと病院で診てもらったほうがいいよ」


 両手で口元を押さえながらゴホゴホと咳き込んでいると、いつの間にか隣にやってきた芽美が不安げな口調で言ってきた。私は大きく息を吸って呼吸を落ち着かせると、芽美の方を向いて少しだけ口端を上げる。


「大丈夫だよ。一応薬は飲んでるから」


「そんなこと言ってこの前から全然治ってないじゃん。それどころかどんどんひどくなってるし……」


 大丈夫だって、と再び口を開こうとした時、言葉が出てくるよりも先にまた咳き込んでしまい、「ほら」と芽美がさらに不安げな表情を浮かべる。


「夏風邪だからって甘く見てると後で大変なことになっちゃうよ。ただでさえ最近の綾音は元気ないんだから」


 そう言って芽美は心配そうな顔をしたまま僅かに潤んだ瞳を揺らす。そんな友人の姿にチクリと胸が痛くなってしまったが、今の私には自力で元気になれる方法なんて見つかる気がしない。

 それほどまでに自分の日常に起こってしまった変化は、私にとってショックだったのだ。


 どうして直人が現れなくなったんだろう……


 何十回と自問し続けてきた言葉が、無意識にまた頭の中に浮かぶ。

 あの台風の日を境に、直人と会える機会は目に見えて減ってしまった。それが一体どうしてなのか、まったく心当たりがない。

 わかったことがあるとすれば、今の私にとって彼の存在は、自分が思っていた以上に大きくなっていたということだった。

 青空しか映さなくなってしまった教室の窓を見上げながら、私はそっとため息をつく。

 

 このままだと私は、いずれ直人とは会えなくなってしまうのだろうか……

 

 そんなことを思ってしまいそっと視線を伏せた時、胸の苦しみを吐き出そうとするかのように私はまた咳き込んでしまう。


「ねえ綾音、お願いだから無理しないで」

 

 今にも泣き出しそうな顔で自分のことを見つめてくる友人に、私は思わず心が痛くなってしまい目を逸らす。たしかにいつまでもこんな調子じゃいけないし、それにここまで心配してくれる芽美の気持ちを踏みにじるわけにもいかない。

 私は諦めたようにため息を吐き出すと、呼吸を落ち着かせてゆっくりと口を開いた。


「わかった。今日ちゃんと病院で診てもらうよ」


「ほんとに?」

 

 不安げに眉尻を下げていた芽美の顔に、わずかに明るさが戻った。それを見て、私も少しだけ微笑む。


「うん。さすがにこれ以上芽美のことを不安にさせたら今度は怒られそうだからさ」

 

 心配してくれる友人を元気づけるつもりでそんな冗談を口にすると、「さすがわかってるじゃん」と芽美はクスリと笑ってくれた。


「綾音がわがまま言って病院行かないなら、張り倒してでも連れて行くつもりだったからね」


「張り倒すって……」

 

 芽美の言葉に、今度は私がクスッと笑う。なんだかこうやって笑ったのも随分と久しぶりのような気がする。

 私はそんなことを思うと、もう一度だけチラリと窓の方を見た。先ほどとは変わらずこの瞳に映るのは、絵の具で塗ったような青空と、遠くに見える入道雲だけ。

 穏やかな夏の景色とは裏腹に、この時私が心の奥底で感じてしまったのは、胸騒ぎにも似た感覚だった。

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