第32話 二人だけの花火

 その後も哲也やクラスの女子たちは、まるで初めて祭りにやってきたかのように終始夢中で屋台を楽しんでいた。

 右手にフランクフルト、左手に綿あめを持った彼女たちは、それでもなおクレープを頼もうとする。

 次は右足にでも持つつもりかよ、と内心呆れ返っていると、代わりにそれを受け取った哲也が「はい」と俺に渡してきた。もちろん奢ってもらったわけじゃない。ただの荷物持ちだ。

 そりゃこうなるよな、といつの間にか哲也と女子たちの付き人のようになってしまった俺は、唯一自分のために買ったラムネソーダを片手に持ちながら、ぼんやりと四人の後ろ姿を眺めていた。

 花火が始まる時間が近づいているせいか、周りにはさっきよりも人の数が増えているような気がした。俺はそんな人混みの隙間を見つけては、その向こうに見えるビルの窓やショーウィンドウをチラチラと覗く。

 もしかしたら綾音がどこかに現れているかもしれないと思うも、そこに映っているのは、おしくらまんじゅう状態のこの人混みをただ反射しているだけの光景だった。


 もしかして……今日はもう現れないとか?


 よくよく考えてみれば、自分も花火大会にやってきたからといって綾音と会える保証はない。むしろ、窓に映るんだったら俺の部屋の窓でも良かったんじゃないかという根本的な疑問さえ抱く。

 そんなことを思い「はぁ」と深くため息をついた時、ふと視線を上げた先に哲也たちの姿がないことに気づいた。

 しまった! と慌てて周りを見渡すも、人が多すぎて1メートル先もまともに見えない。そんな中でグルグルと周りを見ていたせいか、俺は頭痛と一緒に軽い目眩を覚えた。

 これはマズいと思い、逃げるように人混みの間を縫っていくと、それほど混雑していない道端へと脱出する。臨時用のゴミ箱がくくり付けられた街路樹の向こうには、すでに営業時間が終えた小さなアパレルショップの姿。その店の入り口前、ほとんど人がいなくてオアシスのように見える場所に、俺は心の余裕と潤いを求めて逃げ込んだ。


「ふぅ……」

 

 ショーウィンドウを背もたれにして疲れ切った身体を預けると、首筋に流れていた汗をシャツの肩で拭い取った。そして手に持っていたラムネソーダを口につける。渇きを癒すようにシュワッと炭酸がはじけた後、瓶の中ではビー玉が風鈴のような涼しい音を奏でた。

 束の間の休息を味わいながら目の前を見ると、ほんの少し離れた場所では、相変わらず民族大移動の行列が続いている。見ているだけでも再び頭痛がしてきそうな光景に、ついつい顔をしかめてしまう。やっぱり俺は……


『人混みが苦手だ』

 

 突然脳内に自分とまったく同じセリフが別の人の声で響き、俺は慌てて後ろを振り返った。直後、思わず息を飲み込んでしまう。


『……』

 

 そこに映っていたのは、赤く鮮やかな牡丹ぼたんの花を散りばめた浴衣を着ている綾音の姿だった。

 いつもなら真っすぐにおろしている黒髪を丁寧に結び上げ、頬はほんのりと桜色に染まっている。

 闇夜の色を溶かす提灯ちょうちんの光がそう見せるのか、目の前にいる綾音は普段よりもずっと大人っぽく、そして、どこか幻想的だった。

『直人』と自分の名前を心の中で呼ばれ、俺はやっと我に返った。よく見ると彼女も喉が乾いていたのか、左手には同じラムネソーダが握られている。

 お互い何の心の準備もできぬまま出会ってしまったせいか、俺も綾音も妙にぎこちなく黙ったままで目を合わせない。このままではいけないと思いながらも、意識は綾音の浴衣姿に強く惹きつけられてしまい、言葉が追いつかない。


『直人も……来てたんだね』

 

 どこか恥ずかしそうに右手で髪を撫でつけながら、綾音がふいに声を漏らす。その言葉に、『ま、まあな……』と俺も戸惑いながら返事をする。

 何故だろう……別に久しぶりに会ったわけでもないのに、随分と長い間会っていなかったような気がしてしまう。これも祭り独特の非日常な時間と空間のせいなのか?

 そんな関係のないことを一瞬考えるも、意識はすぐに綾音の方へと惹きつけられてしまう。そういえば、女の子が浴衣を着ている時は褒めるべきだと哲也が言っていたが、やはりここは俺も綾音の浴衣姿について何か感想を伝えるべきなのではないか?

 そう思い目の前のショーウィンドウに映っている綾音のことをチラチラと見ていると、彼女が怪訝そうに目を細めてきた。


『何よ?』


『べ、べつに何も……』

 

 ありません、と何故か敬語になってしまった。するとそれを聞いた綾音が、いつものように柔らかい声でクスクスと笑う。そんな姿もどうやら今日の自分には印象的に映ってしまうようで、俺はついつい見惚れてしまい普段の調子で話せない。


『なんか今日の直人おかしいよ。もしかして……迷子とか?』


『そ、そんなわけないだろ! ちょっと疲れたから……休憩してるだけだ』

 

 そう言いながも、実際のところは迷子だ。けれど、もちろんそんなことを言えば綾音にバカにされるので言うはずがない。

 俺はこれ以上自分のことを詮索されないように、綾音に同じ質問を返す。


『綾音の方こそ一人とか迷子じゃないのか?』


 仕返しのつもりでそう聞けば、何故か相手はいつものようにムキになることはなく、ふっと一瞬大人っぽい笑みを浮かべた。


『私はね、ここで人を待ってたの』


『誰を?』

 

 妙に落ち着きと余裕のある綾音の態度に違和感を感じて、俺はすぐに尋ねた。すると綾音はそっと瞼を閉じたかと思うと、囁くような声で呟く。


『……彼氏だよ』


「えッ⁉︎」

 

 思わず唇から声が漏れると同時に、俺は握っていたラムネソーダを落としそうになる。動揺を隠すことができず挙動不審になっている俺に、ゆっくりと目を開けた綾音がニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


『って、言ったらどうする?』


『………………』 

 

 どうやら騙されたらしい。一瞬にして白けてしまった俺の目の前で、綾音は片手で口元を押さえるとクスクスと浴衣の袖を震わせている。あまりにバカ正直なリアクションをしてしまった自分がめちゃくちゃ恥ずかしい。そのせいで、顔面が火傷しそうなほど熱い。

 そんな俺の心境などまったく気にする様子もなく、綾音は苦しそうにずっと笑っている。


『おい! 笑い過ぎだろッ』


『だって直人がすっごくビックリしたような顔してたから』

 

 あはは、と愉快な声を漏らしながらそんなことを言ってくる相手に、俺はきゅっと目を細める。少しでも自分の気持ちを落ち着かせようとラムネソーダを勢いよく口につけるも、心を落ち着かせるどころか喉もまともに潤せないまま、瓶はビー玉の音だけを虚しく響かせて空になってしまった。


『……』

 

 とりあえず形だけでも飲んでいるフリをしてその間に心を落ち着かせようとしたら、そんな時間も与えられないまま綾音の声が頭の中にまた響く。


『直人もラムネソーダが好きなんだね』

 

 話題が変わり、俺は空っぽになった瓶を口から離すと彼女の顔を見た。


『別に好きとかじゃねーよ。たまたま目に入ったから買っただけだ』


 本当は哲也たちといる時に、「うおッ、ラムネソーダだ!」と唯一テンションが上がって買ったものなのだが、そんなことを言えば子供っぽいとか綾音にまたバカにされそうなので言わなかった。

 すると意外にも、彼女の方から同じようなことを言ってきた。


『そうなんだ。私は好きだから結構テンション上がって買っちゃったけどね』


 彼女は少し照れたようにそう言うと、今度は恥ずかしいさを誤魔化すようにぴっと小さく舌を出す。そんな仕草も浴衣を着ていると妙に色っぽく見えてしまうので、俺は目のやり場に困ってしまう。


『ねえ知ってた? この中に入ってるビー玉って取り出せるんだよ』

 

 綾音もすでに飲み切っていたようで、空になった瓶を俺に向けるとカランカランと音を奏でた。その顔が、「私は世界の秘密を知ってます!」といわんばかりの自信たっぷりな表情だったので、俺は思わず吹き出してしまった。


『そりゃ取り出せるだろ。割れば出てくるし』


『えー、そんなのダメだよ。危ないし』

 

 どうやら俺の言葉は正解ではなかったようで、綾音は不満げに眉根を寄せた。そしてすぐに、『まあ直人には難しいと思うけど』と悪戯っぽくニヤリと笑う。そう言われると負けず嫌いな俺としては面白くない。

『こんなの簡単だ!』と俺は勢いで知ったかぶると、空っぽの瓶を思いっきり振ってみる。


『それじゃあいつまで経っても取れないよ』

 

 俺が一生懸命にビー玉と戦っている姿を見て、綾音はまたクスクスと肩を震わせていた。

 何だか綾音にもてあそばれているように思えてきた俺は、何としてでもビー玉を取り出してやろうと躍起になる。が、瓶の口の中に人差し指を突っ込んだり、逆さにして底のほうを手で叩いたりしても、狭い空間に閉じ込められた小さなガラス玉は一向に出てくる気配を見せない。


『こうやるんだよ』

 

 再び頭の中に声が聞こえたと同時に、綾音は手に持っている瓶の口をそっと握りしめる。そして怪訝そうに目を細めている俺の前で、彼女はいとも簡単に閉じ込められているビー玉を取り出した。


『ほらね』


『……』

 

 あまりに簡単な種明かしに、俺は思わず呆気に取られてしまう。どうやら今日はいつも以上に綾音のペースに巻き込まれてしまっているようだ。

 俺はそんなことを思うとせてめもの抵抗として、あえて綾音の言葉には答えず、同じように瓶の口を握りしめる。そして見よう見まねでビー玉を取り出そうとした。


『あのさ……』

 

 あともう少しでビー玉を取り出せそうになった時、ふいに綾音の声が頭の中に聞こえてきた。俺は視線を手元から離さずに、『何だよ?』とぶっきらぼうに返事をする。

 すると少し間を開けてから、綾音の囁くような声がそっと響いた。


『もし私が、どうしても直人に直接会いたいって言ったら……どうする?』


『……え?』

 

 綾音が突然口にした言葉に、俺は思わず手を止めた。そして驚いた表情で顔を上げると、目の前にはどこかぎこちない様子で顔を逸らしている彼女の姿。

 提灯の柔らかな光がそう見せるのか、綾音の頬がさっきよりも赤くなっているような気がした。


『……』

 

 今まで俺たちは、何度も直接会おうと試してきた。

 でもその度にわかったことは、俺と綾音はどんな方法を使っても、そしてどれだけ約束をしたとしても、同じ場所同じ空の下では会うことができないということだけだった。それはまるで自分たちが、お互い違う世界で生きているかのように。

 だから俺たちは、いつからかそんな約束はしなくなった。

 望めば望むほど、手を伸ばせば伸ばすほど、届かぬことに焦燥して、会えない事実に傷付いてしまいそうな気がしたから。

 

 俺だって本当は……

 

 ぐっと噛んだ唇の奥では、本音の言葉がジタバタと暴れようとする。俺はそれを唾と一緒に無理やり飲み込むと、いつの間にか伏せていた目を上げようとした。すると綾音の顔を見る前に、先に彼女の声が届く。


『ごめん……変なこと聞いちゃって』

 

 見上げた視線の先では、綾音がいつものような笑顔を浮かべて俺のことを見つめていた。けれどほんの一瞬、彼女がそっと細めた瞳が何故か揺れているような気がした。

 俺はどんな言葉を返したらいいのかわからず、空っぽの瓶をきつく握りしめる。何かが試されている。そんな気がする。

 たとえこの先綾音に直接会うことができなかったとしても、今の自分の気持ちを素直に伝えることで、綾音との繋がりを、そして俺たちのこれからを、もしかしたら変えることができるかもしれない。

 何故だか使命感のようにそんなことを強く感じた俺は、ゴクリと再び唾を飲み込むと、胸の奥に押し込んだはずの言葉をもう一度そっと拾い上げる。

 チラッと綾音の方を見ると、彼女はもう先ほどの会話は気にしていないのか、『そろそろ始まるかな』と心の中で呟きながら夜空を見上げていた。その横顔を見た瞬間、俺はぐっと決意を固める。


『綾音、本当は俺……』

 

 再び話し始めた自分の言葉に、綾音が『え?』と俺の方を振り返った。その瞬間だった。

 頭上から突然ドンっと盛大な炸裂音が響き、光のシャワーが降り注いだ。薄暗くて不確かだった俺と綾音の世界が、一瞬にして色鮮やかな光に包まれる。花火が始まったのだ。

 肝心な言葉を伝えることができなかった俺は、それを誤魔化すように夜空を見上げた。視界の隅では、同じように綾音も空を見上げている。次々に聞こえてくる夏の夜空を彩る爆発音と、周囲からの歓声。ぞろぞろと歩いていた人たちもみな一斉に足を止めて、同じ方向を見上げている。


『……』

 

 色とりどりに明滅する火の粉を見上げていた俺は、綾音のことが気になりチラッと横を見る。すると彼女も偶然こちらを振り向いてきて、その綺麗な瞳とばちりと目が合ってしまう。思わず恥ずかしくなってしまった俺は慌てて視線を逸らした。

 と、その瞬間、握りしめていた瓶からカランという音が聞こえて何かが溢れ落ちた。足下を見るといつの間に逃げ出したのか、ビー玉が地面の上に転がっていた。俺はそれをそっと拾い上げる。


『お揃いだね』

 

 不意に綾音の声が聞こえて、今度は俺が『え?』と彼女と方を見た。すると綾音は指先で挟んだものを、ゆっくりと夏の夜空へと向ける。


『ビー玉』

 

 そう言って綾音は、少し照れたように笑った。そんな彼女にドキリとしてしまった俺は、それを誤魔化すように握っていたビー玉へと視線を移す。そして綾音と同じように指先でそっと持ち上げると、まるで小さな窓から夜空を見上げるようにその中を覗き込む。

 盛大に咲き誇る夏の風物詩を閉じ込めたガラス玉から見える景色は、何故かこことは違う別の世界と繋がっているような気がした。

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