第26話 夢を目指した理由
そんな日々が続いていたある日の夜。
彼専用の特別課題もやっと終わりが見えてきた頃、数学の問題を解き終わった直人がふと口を開いた。
『そういやさ、なんで綾音は薬剤師になりたいんだ?』
『え?』
同じように受験対策用の数学の問題を解いていた私は、その言葉を聞いて顔を上げる。
『だってさ、俺の周りでもこの時期からちゃんと進路決めてる奴なんてほとんどいないから、何かきっかけとかあったのかなーって思って』
『……』
窓に映っている直人はそう尋ねてくると真っすぐな目で私の顔を見つめる。
純粋に興味があるからこそ聞いてきたであろうその質問に、私は逃げるようにそっと視線を逸らした。そして右手で握っていたシャーペンを静かに机の上に置く。
『きっかけは……』
急に言葉を濁し始めた自分に直人が不思議そうに少し首を傾げる。そんな彼の様子をチラッと伺いつつ、私は心の奥に
『私ね……去年、お父さんが亡くなったんだ』
『え?』
ぽつりと呟いた私の言葉に、直人が一瞬息を飲み込むのがわかった。
『病気だったの。ずっと入院してて頑張って闘病生活を続けてたんだけど、結局治らなくて……』
心の中に雨粒が降り出したかのように、私はぽつぽつと言葉を
『色んな治療を続けてたんだけどね、どれもうまく効果が現れなかったの。日に日に身体も動かなくなって寝たきりのままになっちゃって……。私のお父さん、食べることが好きだったのに、唯一楽しみにしていた食事までどんどん制限されてしまって……本当に辛そうだった』
『……』
私はあの頃の記憶の蓋を恐る恐る開けて、当時見てきたこと、そして自分自身が体験したことをもう一度振り返るかのように言葉を続けた。
『それでもお父さん、私の前だと必ず笑ってくれてたんだ。早く元気になってお母さんの手料理や、今度は綾音の手料理も食べてみたいっていつも言ってくれてた』
そっと閉じた瞼の裏に浮かぶのは、そう言ってベッドの上で笑っていたお父さんの姿。病室の窓から見えた青く澄んだ空の色まで思い出せるほど、今でもあの時の光景はハッキリと覚えている。
『だから私、約束したの。お父さんの好きな料理をたくさん作れるように頑張るから、だから絶対に元気になってねって。……でも、そこからお父さんの容体が悪化しちゃって、食事どころか最後のほうはもうほとんど薬しか飲めなくて……』
あの日、私と嬉しそうに約束してくれたお父さんだったけれど、最後は自分の娘の顔を見ても誰かわからないほど衰弱してしまった。
心電図が止まった直後のお父さんの手のひらの温もりだけが、今も私とお父さんとの思い出を繋ぎとめるかのように、胸の奥底に灯火となって残っている。
『私……すごく悔しくてさ。お父さんの好きな料理は何一つ食べさせてあげれなくて、薬だけしか飲ませてあげることしかできなかったから。それで元気になってくれるなら良かったんだけど、結局食べられるものは減っていく一方で、効果があるのかわからない知らない薬が増えていくだけだった』
『……』
いつの間にかぎゅっと握りしめていた右手の拳が、小刻みに震えていることに気づく。今も消えることのない悔しさが、私の心をきつく締め付ける。
わかってる。どれだけ悔やんでも、もうあの日々も、大好きだったお父さんも戻ってこないことも。思い出の中にどれだけ心を閉じ込めたとしても、現実の世界は今この瞬間も未来に向かって進んでいるのだ。
『だから私、お父さんが亡くなった時に決めたの。薬剤師になろうって。薬剤師になって、ちゃんと薬のことを学んで、自分と同じように不安になっている人たちの力になりたいって思ったの。この薬にはちゃんとこんな効果があって、だからあなたの大切な人は絶対元気になるだよって伝えてあげたくて』
久しぶりにあの日々のことを振り返ったせいか、いつの間にかじわりと目頭が熱くなっていることに気付いた。
それを誤魔化すようにすっと小さく息を吸うと、こみ上げてくる気持ちと合わせて喉の奥へと押し込む。そして伏せていた睫毛をそっと上げて、目の前に映っている直人のことを見た。
彼はずっと俯いたまま黙っていて、沈黙の代わりに聞こえてくる秒針の音だけが、あの日々からまた私を遠ざけていくことを静かに伝えていた。
『……ごめん』
ふと頭の中に聞こえた声に、私は『え?』と思わず声を漏らした。すると黙っていた直人が、今度はぽつりぽつりと話し始める。
『俺、綾音のこと何も知らないくせに、進路について前にひどいこと言っちゃったからさ……。だから、その……』
直人はそんなことを心の中で呟きながら、続きの言葉を探すようにぎこちなく両目を泳がせていた。そんな彼の姿を見て、私はふっと口元を緩める。
『べつにもう気にしてないから大丈夫だよ。それに直人は話せばちゃんとわかる人だって、一応知ってるから』
いつものように冗談めかしてそう言うと、彼は『綾音……』と声を漏らして私の顔をチラリと見てきた。彼らしくないしんみりとしたその声と表情に、私は思わずクスっと笑ってしまった。
『もう、なんで直人がそんなに辛気臭くなってんのさ』
『だって……』
相変わらずぎこちない言葉しか返ってこない彼に、私は少しでも場を明るくしようと普段通りの口調で言った。
『でも最近あんまり自信がないんだよなー。学校の先生にもこの前、今の成績だと国公立は五分五分だって言われちゃったし』
気分転換でもするようにさらりと話したつもりだったのだけれど、意外にも、直人から返ってきたのは普段めったに聞かないような真面目な声だった。
『綾音ならなれるよ』
『え?』
突然聞こえてきた彼の力強い言葉に、私は驚いて目を丸くした。直人の顔を見ると、彼は笑うこともせず真剣な表情を浮かべている。
『綾音なら絶対に大丈夫だって。国公立でもどこでも合格できるし、さっき言ってたみたいにすげー薬剤師にもなれるよ。ぜったいに』
『……』
あまりにもハッキリと力強く断言する直人に、私は一瞬ポカンとした表情を浮かべてしまった。直後、今度は反動のようにクスクスと肩を震わせてしまう。
『な……なんだよ?』
口元を押さえて笑うのを堪える私を見て、直人が怪訝そうに眉根を寄せる。そんな彼に向かって私は『ごめん』と言いつつも、やっぱり笑い声が漏れてしまう。
『だって……直人がすごい真面目な顔してすげー薬剤師なんて言うから』
『…………』
私の言葉に彼は恥ずかしくなったのか、返事は聞こえてこなかった。代わりに直人は不満たっぷりの表情を浮かべる。
『せっかく真面目なこと言ったのに、なんかヒドくないか?』
そう言って拗ねたように唇を尖らせる直人に、私は再び『ごめん』と言ってペコリと頭を下げる。
『ちょっとビックリしてつい笑っちゃっただけだよ。それに……』
私はそこで一呼吸置くと、心を落ち着かせようと大きく一度深呼吸をした。
彼が私のことを想って本気で言ってくれたことは、ちゃんと自分の心にも伝わっている。だから……
『……嬉しかったよ』
そんな私の気持ちは直人にも伝わったようで、彼は『お、おう』と少し恥ずかしそうに声を漏らした。チラッと直人の様子を伺うと彼の頬が少し赤くなっていることに気付いてしまい、なぜか私の頬まで熱くなってしまう。
なんか、調子狂うな……
私はそんなことを思うと、彼の顔からそっと視線を逸らした。胸の内側では、心臓がいつもと違うリズムで鼓動を刻み始めていた。
それに合わせるかのように自然と溢れてくる気持ちを再び彼に伝えようとしたが、それも何だか恥ずかしいような気がして結局やめてしまう。
だから、直人に気づかれないような声でそっと呟いた。
ありがとう、って。
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