第25話 夜の勉強会
夕食後、私はいつものように自分の部屋の勉強机に座っていた。
静かな夜の住宅街の間を走り抜けていく車の音を聞きながら、開いたノートに今日予備校で教わったことを書き記していく。けれど心の中は妙にソワソワしてて落ち着かない。
「なんか緊張するな……」
そんな言葉を一人ぼそりと呟いた私は、ふっと顔を上げると窓の方を見る。そこに映っているのは、いつもと同じ見慣れた街の景色。カーテンは開けっぱなしにしているものの、彼がいつ現れるのかはわからない。
「今日はもう現れないのかも……」と机の上に置いてある時計を見て呟いた時、突然頭の中に声が響いた。
『よ、よお……』
その声にハッとして顔を上げると、ついさっき見たばかりの街の景色は消えていて、見覚えのある部屋が映っている。そして昼休みの時と同じく、机にテキストを開いてじっと椅子に座っている直人の姿。
どうやら彼も少し緊張しているのか、私と視線が合うことはなく目がきょろきょろと泳いでいる。思えば、こうやって会う約束をしてから顔を合わすのは初めてだ。
『ちゃんと約束守ってくれたんだ』
胸の奥でいつもと違う鼓動のリズムを感じながらも、私はそれを隠すように普段通りの口調で呟く。その言葉に、『ま、まあな』と直人がぎこちない声を漏らした。
『それで……ほんとにちゃんと教えてくれるんだよな?』
照れ隠しのつもりなのか、相手が少し強がった口調で聞いてきた。そんな彼に、私も負けじと返事をする。
『そんな言い方されたらどーしよっかなー』
『う、嘘です! すいません! よろしく……お願いします』
よほど課題に追い詰められているのか、彼にしては珍しくすぐに謝罪の言葉が頭の中に返ってきた。そんな直人に向かって私はクスリと微笑むと、『わかればよろし』とちょっと先生になった気分で言葉を返す。
『それで、テキストの方はどこまで進んだの?』
『…………』
私の質問に何故か無言になった彼は、見ればわかるといわんばかりに両手でテキストをぐいっと持ち上げた。それを見て、私の目が点になる。
『げッ、全然進んでないじゃん……』
昼休みに見た時とまったく同じ状態のテキストのページに、思わず眉毛がピクピクと動いてしまう。そんな呆れかえった私を見て少し顔を赤くした直人が、『し、仕方ないだろッ』と拗ねたような口調で答える。
『仕方ないって……今まで何してたの?』
『い、色々やることがあって忙しかったんだよ……』
ふーんと私は声を漏らすと、直人の机の上に置かれている彼のスマホをこっそり覗いた。すると案の定、その画面にはゲームのアプリが表示されている。
『やっぱサボってたんじゃん』
私の言葉で彼も気づいたのか、慌てた様子でスマホをさっとズボンのポケットに隠した。そしてすぐに、『こ、これはちょっと休憩してただけだ!』と口ごたえしてくる。
『じゃあ休憩してたってことは、さっそく始めても大丈夫ってことだよね?』
相手の言葉に揚げ足をとるように言い返すと、彼は『げッ』と露骨に嫌そうな顔をした。
『もともと勉強するのが約束でしょ。それに課題終わらないと先生に怒られるのは直人なんだよ?』
『そ、そうだな……』
どっちも嫌だといわんばかりの表情を浮かべながらも、彼はしぶしぶテキストへと視線を戻す。やっぱり先生に怒られる方が、彼にとっては嫌のようだ。
そんな直人の姿にクスッと笑った私は、椅子から立ち上がると窓に顔を近づけて彼のテキストを覗き込む。するとさっそく間違いを発見する。
『その感嘆文はwhatじゃなくてhowを使うんだよ』
『なんだよ、カンタンブンって?』
「え?」と私は思わず声を漏らしてしまった。そして真剣な顔つきで衝撃的なことを聞いてきた直人の顔を見て何度も目をパチクリとさせる。
そこからですか? と言いたくなるのをぐっと堪えると、私は再び説明を続けた。
『感嘆文っていうの驚いたり喜んだり感情を表現する文章のことだよ。それを英語ではwhatやhowを使って表現するの。日本語だと倒置法にちょっと似てるかな』
『…………』
妙に長い沈黙が続いた。説明を聞いていた相手は眉間の皺を深めて真面目な表情を浮かべてはいるが、何故か手は一切動いていない。代わりにタラリと音が聞こえてきそうな汗が彼の頬を伝った。
『もしかして……倒置法もわからない?』
『………………』
返事の声は無かった。どうやらこれは、思った以上に骨が折れそうだ。
はあと私はため息をつくと、再びお尻を椅子へと戻す。するとそんな私を見て、直人が悔しそうに声を漏らした。
『お、俺だってその……やればできるんだからな』
そう言いながらもよっぽど勉強には自信がないのか、その視線は斜め下に向けられていて私と合うことはない。
『わかったわかった。とりあえず出来るところから進めていこ』
ね? とまるで小さな子供を諭すような口調で伝えれば、直人はやっと覚悟を決めたようでコクンと小さく頷く。
そこから私たちは、お互い窓に映っている間までという条件で不思議な勉強会をスタートさせた。
最初はすぐに集中力が切れてあーだこーだと文句を言っていた直人だったが、途中からはちゃんとスイッチが入ったようで、授業中には見せないような真剣な顔つきでテキストと向き合っていた。
そんな彼に勉強を教えつつ、私も受験対策にと机の上に広げた参考書を進めていく。普段なら孤独を感じてしまうこともある時計の針の音が、今日は何故か不思議と心地が良かった。
『だー、やっと終わった……』
本日はここまでと決めていた最後のページが終わった瞬間、直人は電池が切れたかのように机の上に突っ伏した。そんな彼を見て、私は思わずクスッと笑う。
『まだ課題は終わってないんだから、ここで完全燃焼したらダメだよ』
『んなことわかってるって……』
彼はぬっと顔を上げると不満げに唇を尖らせた。あきらかに疲れ切った表情を見る限り、おそらくこうやって自分の部屋で勉強することには慣れていないのだろう。
……よっぽど勉強するのが嫌いなんだろうな。
ぬぐぅと唸り声なのかギブアップの声なのかよくわからない声を漏らして机の上に顎を乗せている直人を見て、私は思わず苦笑いを浮かべた。
『とりあえず今日はここまでだけど、明日からも同じページ数はやらなきゃいけないよ』
『げッ、そんなにやらなきゃダメなのかよ』
『だって夏休みが始まるまでには終わらせないといけないんでしょ? だったら毎日それぐらいやらなきゃダメだよ』
ピシャリとした口調で言えば、相手は『うげー』と嫌そうな声を漏らす。
『泣き言言ってもダメだからね。教えるって約束したからには、私けっこうビシバシいくから』
腰に手を当ててわざとらしく鼻からふんと息を吐き出せば、相手は怪訝そうな目で私の顔を見つめてくる。
『前に、私ってどちらかといえば尽くすタイプかもって言ってたくせに……綾音って、実は結構ドSだったんだな』
「ば、バカっ! それとこれとは話しが違うでしょ!」
思わず本当に声が出てしまった私は、勢いのあまり激しく咳き込んでしまう。そんな私を見て直人がケラケラと声を上げて笑う。
『綾音って図星突かれたらすぐに咳き込むからわかりやすいよな』
『……』
人が苦しんでいる時にこの男は一体何を言い出すんだとギロリと睨みを利かせれば、『じょ、冗談だって……』と今度は申し訳なさそうな声が返ってくる。
『もうッ、そんなこと言うんだったら明日から教えてあげないんだから!』
『嘘です! ほんっとにすいません! だから明日かもよろしくお願いします』
そう言ってすぐさま態度を変えてきた相手は、おでこが机につかんばかりに頭を下げてくる。まったく……調子だけはいいんだから。
私はふんと鼻を鳴らして直人から顔を背けたが、どのみち明日からも彼とは顔を合わすことになるので返事の言葉は決まっていた。
その日から、私と彼の夜の不思議な勉強会は毎日のように続いた。
直人が現れるタイミングはランダムなのできっちり時間を合わせて始めるわけではないけれど、お互い自分の部屋にいる時に顔を合わせれば、自然とそんな流れになるようになっていた。
もちろん彼は長時間の勉強には耐えられないので、途中休憩を何度も挟んでは、お互いの近況を話し合ったり雑談をしたりしていた。
私はというと、『そろそろ勉強しないとダメだよ』といつも彼にはっぱをかけるのだけれど、実はちょっぴり直人と会話できることを楽しみにしていたりする。
今では家族や学校の友達なんかよりも、直人のほうが私についてずっと詳しいような気がする。そんなことを思う度に恥ずかしいような、ちょっと照れ臭いような気持ちが私の胸の奥でコロコロと転がるのだった。
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