第24話 初めての約束

「なーに窓の方見つめてにニヤけてんのよ」

 

 昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った後、そばに近づいてきた芽美が悪戯っぽい口調で言ってきた。その言葉に私は慌てて彼女の方を振り向く。


「べつにニヤけてないよ!」

 

 そう言い返してリスのようにムッと頬を膨らませる私を見て、芽美はいつもの調子でくつくつと喉を鳴らす。


「綾音はほんと面白いんだから。でも窓の方を見て楽しそうな顔してたのは事実だよ?」

 

 芽美はそう言うと、「どれどれ?」と両手で双眼鏡を作って窓の方へと近づいた。だが、彼女と私が見えている世界は全然違うだろう。

 芽美にはきっと見慣れたグラウンドが見えているのかもしれないけれど、私の視界に映っているのは、頭を掻きむしりながら課題に追われている男の姿だ。それを見てさっき私はついついクスリと笑ってしまったのだ。


「なーんだ。てっきり篠崎先輩でも見えたのかと思ったけど、違ったか」


「もう、なんでいつもそうなるのさ」

 

 そう言って私は唇を尖らせた。篠崎先輩という言葉を聞いて胸の奥がチクリとしたが、それは以前ほどひどく痛むことはなかった。

 芽美は笑いながら「ごめんごめん」と言った後、持ってきたお弁当を私の机の上に広げると、さっそく蓋を開けて中身を確認する。


「げッ、セロリが入ってる」

 

 あからさまに嫌そうな表情を浮かべた芽美を見て、今度は私がクスクスと肩を揺らす。


「あれ? 拓真くんの為に野菜ダイエット始めたって言ってなかったっけ?」


 さっきの仕返しだといわんばかりにクスリと笑ってそんなことを言えば、芽美がきゅっと目を細めてきた。


「セロリはセロリ。野菜とは違うの」


「何その変な理屈」

 

 睨みを利かせる友人とは反対に、私はまたも肩を震わせる。そして机の横に掛けている鞄のチャックを開けると彼女と同じようにお弁当箱を取り出した。蓋を開けてみると、今日は私の大好きなマヨチキンが入っていた。


「さては大好物が入っていたな?」と悔しそうな声を漏らす芽美が、私のお弁当箱を覗き込んできた。その右手に握っているお箸で今にも私のおかずを奪い取ってしまいそうな彼女に、「こらこら」と言って私はお弁当箱を自分のほうへとくいっと寄せる。

 ダイエットを宣言していた芽美だけれども、彼女も私と一緒で基本的に食べることが好きなのだ。

 すると私の予想どおり、「ねぇ綾音……」と甘えたような声を漏らす芽美がお箸の先っぽでマヨチキンを一つ指してきた。

 呆れて小さくため息をついた私は、「仕方ないなぁ」と友人の為に優しを見せようとした。と、その時。教室の扉の方から、「おーい、めぐ!」と声が聞こえてくる。


「あ、拓真!」

 

 声を2トーン上げた芽美が嬉しそうな表情を浮かべて扉の方を振り返った。「大好き!」と言葉にしなくてもビンビンと伝わってくるその横顔に、思わず私の方が恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。


「綾音、ちょっとごめん!」

 

 お箸を置き、パチンと私の前で両手を合わせた彼女は、そのまま急いで立ち上がると彼氏がいるもとへと向かっていく。ついさっきまで食べることに夢中だったはずなのに、どうやら今は好きな人に夢中のようだ。

 そんなことを思うと、思わずクスリと笑みが溢れた。ほんの少し前までは、恋が叶って幸せそうな友人を見る度にどこかチクリと胸が痛むこともあったけれど、今はそんな風には思わないのでなんだか不思議だった。

 私は芽美にあげようとお箸で摘んでいたマヨチキンをぽいっと口の中に放り込むと、チラリと窓の方を見た。そこにはお昼ご飯を食べることもままならないのか、中途半端にかじった菓子パンを片手に持ったままテキストと睨めっこしている直人の姿が映っている。 


『直人の学校ってそんなに宿題大変なの?』

 

 私はもぐもぐと口元を動かしながら心の中で尋ねた。こういう時、声に出さなくても会話ができるというのは便利だ。

 私の質問に直人は、『これは宿題じゃない』と少し苛立ったような口調で言葉を返してきた。


『ってことは……もしかして自主勉?』


『んなわけねーだろ』

 

 空腹のせいか、それとも集中力が切れたのか、直人は握っていたシャーペンを机の上に転がすと、噛みつくように菓子パンをかじった。そして相手もモグモグと口元を動かしながら会話を続ける。


『ペナルティだよペナルティ! テストの結果が悪かったからって、このクラスで俺だけ課題出されたんだよ!』


 その切実な訴えの勢いが強すぎたのか、相手は菓子パンを喉に詰まらせそうになってむせている。相変わらずの鈍臭い姿に、私は小さくため息をついた。


『だから言ったでしょ。ちゃんとテストは受けた方がいいって』


『うるせーな……』

 

 咳き込みながら胸をどんどんと叩いていた相手は、目を細めてギロリと睨みつけてきた。けれど涙目になっているせいか、怒っているというよりも、助けを求めているような顔にどうしても見えてしまう。

 私はグラウンドを覗くフリをして、チラッと直人の手元にあるテキストを覗き込んだ。あれだけ血相を変えて向き合っていたわりには、驚くほど進んでいない。というより、真っ白だ。


『ねえこれ……ほんとに終わるの?』


『…………』


 返事はなかった。代わりに相手は、本当に助けを求めているかのように目の色を変える。

 そんな彼を見てまたも呆れてしまった私は、喉の奥におかずを流し込むと、今度は大きくため息をついた。


『……私が教えてあげようか?』


『え?』

 

 私の言葉にかなり驚いたのか、さっきまで目を細めていた男はパチクリと何度も瞬きをする。


『……い、いいのかよ?』

 

 何故かおずおずとした口調で聞き返してくる直人に、私は思わずぷっと吹き出してしまいそうになる。


『別にいいよ。それに直人にはあの時の借りがあるからね。だから、そのお礼ってことで』


 お箸で白米を摘みながら心の中で返事をすると、『あの時の借り?』と直人が首を傾げる。


『あー、綾音が泣いてたときのことか』


 突然飛び出してきたデリカシーのない言葉に、思わず箸先からポロリと白米がこぼれ落ちた。けれど私はそんなことも気にせず、『ちょっと!』と顔を熱くして直人のことを睨んだ。


『わざわざ言わなくてもいいでしょ!』


『ご、ごめんつい……』

 

 あはは、とぎこちない苦笑いを浮かべて相手は誤魔化すかのように頭をかいている。そんな彼の姿を見て、『もうッ』と私は唇を尖らせた。


『あーあ。やっぱり教えるのやめよっかなー』


『ご、ごめんって! 別にそういうつもりじゃ……』


 向こうは本当に教えてもらえなくなると焦ったのか、突然パンと両手を合わせたかと思うと、私に向かって勢い良く頭を下げてきた。すると彼の周りにいるクラスメイトたちが、不審がるような視線でチラチラと直人のことを見ている。

 そりゃそうだ。だって私の姿は直人にしか見えないのだから。

 そんな光景に耐えられなくなった私は、お箸を置くとそのままさっと頭を机に伏せる。そして声が漏れないように押し殺しながらクスクスと笑った。


『おい! なにもそんなに避けることねーだろッ! ちゃんと謝ってんじゃねーか』


『違うよ。直人の行動がおかしいから笑ってるんだよ』


『え?』

 

 間抜けな声を漏らした彼は、やっと自分がおかしな行動を取っていることに気づいたようで、そのまま黙り込んだ。チラッと窓の方を見みると直人の友人なのか、眼鏡をかけた男の子に何やらイジられている様子。


『お前のせいで俺が頭おかしい奴みたいになったじゃねーか!』


『私のせいじゃないわよ! そっちが勝手に先走ったんでしょ』


 そう言って私は周りバレないようにしながら、窓に向かって小さく舌を突き出した。それを見て相手は、『なッ!』と何か言いたげに眉間に皺を寄せたが、いじってくる友人の対応に必死なようで何も言い返してこない。 

 その隙に私は頭を起こすと、笑い出しそうになってしまう衝動を深呼吸して落ち着かせる。


『だー! 哲也のやつほんとにしつこいなッ』


 やっと友人から解放された直人が心の中で勢いよく愚痴る。


『あの子、哲也くんって言うんだ。いつも一緒にいるし仲良いんだね』


『仲良いっていうか、あれはもう悪友みたいなもんだな。アイツ、何かあれば俺のことしょっちゅうイジってくるからな……。窓の方ちょっと見てるだけでナルシストとか言ってくるし、俺が授業中に寝てたらその写メ撮って後から送ってきたりするし……この前なんて、俺がフラれた直後に縁結びに行った方がいいとかわけのわからないこと言ってきたしな』


『……縁結び?』


 彼の言葉を聞いた瞬間、お箸を握り直した手がピタリと止まった。


『ああ、そうだよ。すっげー効果抜群の縁結びの神社があるからって行ってみたんだけど、アイツは当日寝坊でドタキャンするし、神社も山ん中で廃墟みたいなとこだったしってもう散々な一日だったからな』


『……』

 

 私は黙ったまま直人の話しを聞いていた。何だろう……何かが頭の奥で引っかかる。


『ねえ。その神社ってそんなに縁結びで有名だったの?』


 再び心の中で口を開いた私は、それとなく気になったことを聞いてみた。すると相手は不満げに話しを続ける。


『うちのばーちゃんが知ってたぐらいだし昔は本当に有名だったんじゃないか? 何て名前の神社だったかな。たしか……み? むす? むすず?』


『……結鈴ゆすず神社』


 ぼそりと胸の奥で呟いた言葉に、『それだ!』と直人がすぐに返事をする。


『なんだ綾音も知ってたのか。ってことは……やっぱ有名な神社なのかな?』


 そう言って首を傾げる直人に、私も『うーん……』と一緒に考え込む。


『結鈴神社なら私も行ったことあるけど、廃墟なんかじゃなかったしすごく繁盛してる神社だったよ』


『え、そうなのか?』


 直人が少し驚いたように目を丸くした。そんな彼に向かって私はコクリと頷く。

 以前芽美と一緒に訪れたあの神社の名前は確かに『結鈴』だったし、縁結びで有名な神社だったけど……


『直人のおばあちゃんはその神社について他に何か話してたの?』


『ああ、なんか色々言ってたぞ。あそこの神社で結ばれたらすげー強力だとか、魂が結ばれるとか……』


『魂?』


 彼の話しを聞きながら、私は一瞬眉間に皺を寄せた。


『うん、そんな話しをうちのばーちゃんがしてたんだ。まあ迷信みたいなもんだと思うけどな』


『……』

 

 直人はそう話した後、能天気にうんと伸びをしていた。けれど、私の心は何故か落ち着かなかった。

 そもそも彼との関係は不思議なことが多すぎるのだ。

 こうやって窓や鏡に現れて心の中で会話していることもおかしいし、それに住んでいる住所がまったく同じだった件も謎のまま。それどころか直接会うことも何度か試したのだけれど、彼とは会えないどころか、未だに携帯で連絡さえも取れずにいる。 

 そんなことを一人考えながらさっき聞いたばかりの直人の話しを思い出していた時、心の奥底で何かがざわりと動いた。


 もしかして、私と直人って本当は……


「ごめん! 遅くなっちゃった」

 

 突然現実の世界で声が聞こえてきて、私はビクリと肩を震わせた。慌てて頭を上げると、目の前には申し訳なさそうな顔をしてピッと舌を出している芽美がいた。


「拓真のやつ、なかなか離してくれなくてさ」


「はいはい、こんなところでのろけないで下さい」


 好きな人と会えてよっぽどご満悦なのか、私が唇を尖らせながら注意しても、芽美の顔は幸せそうなままだ。どこかの誰かさんみたいに、課題に追われて絶望感たっぷりの表情なんてしていない。

 私はそんなことを思うと、再び視線だけをチラッと窓の方へと向ける。芽美が戻ってきたので気を遣ってくれているのか、直人はまた難しそうな表情を浮かべながらテキストと向き合っていた。

 私はそんな彼の姿を見てふっと口元を緩めると、心の中で静かに呟く。


『……今日の夜、部屋のカーテン開けといてね』


 私はそれだけ伝えると、話しかけてきた芽美との会話に意識を戻した。

 いつも通りの日常に戻った自分の視界の隅では、驚きながらも少し恥ずかしそうな表情を浮かべている直人の姿が映っていた。

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