第23話 近づく距離感

「ダメだ……ぜんっぜん集中できない」

 

 その日の夜、俺はまたも珍しく自分の部屋の勉強机に向かって座っていた。机の上を陣取っている補習で出されたテキストは開いた時と同じページのままだ。もちろん何も記入していない。

 だいたいうちの学校、進学校でもないのにテストの結果悪いからって課題出し過ぎなんだよ、ボケ。

「はぁ……」とため息をついた俺は、白旗を上げるかのように握っていたシャーペンを机の上へと放り投げた。そして両手を頭の後ろで組むと、伸びをするようにゆっくりと上半身を反らす。

 その間も頭の中に浮かぶのはテキストのことではなく、今日哲也から聞いた話しと、その話題の中心となっていた人物のことだ。


「アイツ……マジでどうしたのかな」

 

 俺はそんなことをぼやくと姿勢をもとに戻して小さくため息を吐き出す。

 結局今日は学校にいる間、アイツとは話すことが一度もなかった。俺から何度か話しかけようと思った時もあったのだが、昨日の一件もあったし、向こうも何となくいつもと雰囲気が違っていたのでそれもできなかった。 

 いつもは喧嘩ごしでよく俺から話しかけているのに、こういう時になると急に声を掛けれなくなるというのは、我ながら本当に情けないと思う。


 アイツ、もう俺と話さないつもりなんだろうか……

 

 テキストの問題そっちのけで、頭の中は別の問題で支配されていく。こればっかりは開かれたページに載っている公式みたいに形の決まった答えなんて用意されていない。だから出口も見えず、思考は同じところを何度もぐるぐると回るだけ。

 やっぱり俺から話しかけた方が良いのか、それとももう少し様子を見たほうがいいのかとひらめきの乏しい選択肢が浮かんでは消えていく。


「あークソっ」


 俺はそんな言葉を呟いて、パンク寸前の頭を両手で掻きむしった。ふすまも窓もカーテンも閉め切った部屋で時計の音だけ聞いていると、このまま本当に窒息死しそうな気がする。

 これじゃあダメだと思った俺は、「よし気分転換!」とわざとらしく声を発してパンと太ももを叩くと立ち上がった。そして部屋の空気でも入れ替えようとカーテンに腕を伸ばして、シャッと勢いよく開いたその瞬間だった。


「…………」

 

 視界の中に現れたのは、まったく同じタイミングでカーテンを開けてきた部屋着姿の女の子。もちろん……アイツのことだ。


『……』


 お互い数秒間のフリーズ。悪戯好きの神様に仕組まれたのではないかと疑ってしまうほどのナイスタイミングに頭の中が一瞬真っ白になる。


『お……おう』

 

 何とか必死に声は絞り出したものの、動揺のあまり視線はキョロキョロと泳いでしまう。

 それでも俺に敵意がないことはちゃんと伝わったのか、相手もささやくような声で返事を返してくれた。……とりあえず、嫌われてはないようだ。

 そのことには一瞬安堵したものの、かと言って非常に気まずい状況には違いない。さすがにカーテンをすぐに閉めるわけにもいかないので、俺は無言のままぎこちない動きで再び椅子に座った。

 ちなみに何の因果かわからないが、俺もアイツも勉強机を窓に向かって置いている。そのせいで一人部屋のはずが、なぜか相席みたいになっているではないか。


『……』

 

 チラッと相手の様子を伺うと、向こうも同じように椅子に座って勉強しているようで、彼女の手元には俺とは違ってびっしりと細かい文字が書き込まれた教科書とノートが広げられている。

 そんな光景に思わずアレルギー反応を起こしそうになった俺は、相手の勉強道具からそっと目を逸らした。


 やっぱ話しかけてこないか……

 

 昼間と同じく何も話しかけてこない相手に、俺は内心動揺しながらも何事もないかのような態度で再びテキストに目を落とす。……が、もちろんまったく集中できない。


『……』

 

 お互い勉強をしているので別に沈黙でもおかしくない状況なのだが、それに耐えきれなくなった俺は覚悟を決めるようにそっと息を吸い込む。


「あのさ……」

 

 話しかけることを意識し過ぎてしまったせいか、心の中ではなく、実際に声に出して呼び掛けてしまった。

 それでも相手にはちゃんと聞こえたようで、頭の中にはすぐに『え?』という声が返ってきた。それを合図に視線を上げると、彼女の大きな瞳とバッチリ目が合ってしまう。


「いや、その……」

 

 すぐに目を逸らしてしまった俺は、動揺していることを誤魔化すように右手で頭をかく。すると相手も気まずく感じているのは同じのようで、顔を伏せるとどこかソワソワしていた。


「……」

 

 さすがに自分から話しかけておきながらこの状況はマズいと思った俺は、ゴクリと唾を飲み込むと勇気を振り絞って唇を動かす。


「そ、その……今日はいつもと様子が違うと思ったからさ……な、何かあったのかなーって」


 噛みまくりだった。しかも、あえて声に出してしまったせいで思いっきりうわずってしまう始末。

 こんな情けない聞き方じゃあ、たとえ相手が聞いてほしいと思っていても話す気なんて失せてしまうだろう。

 そんなことを思い、項垂れるようにため息をついた時だった。頭の中にぼそりと声が聞こえる。


『……うん』

 

 その言葉に、俺は思わずハッと顔をあげた。てっきり『別に』とか『何もない』とかいつものように冷たくあしらわれるだろうと思ったけれど、意外にも相手は素直に答えてくれた。


 これは……俺が踏み込んでも大丈夫だということか?

 

 そんなことを思い再びゴクリと唾を飲み込んだ俺は、言葉を選びながら慎重に唇を開く。


「ま、まあ生きてたら色んなことがあって大変だもんな……ほら、ことわざでも七転びなんとかって言うし……」


 はは、と俺は大根役者丸出しのぎこちない笑い声を漏らす。

 そんな自分の話しに相手はますます表情を曇らせたかと思うとそっと顔を伏せる。それを見て、俺は慌てて言葉を続けた。


「い、いやでも悪いことばっか続かないと思うんだよな! 実は俺も最近……こ、告白してフラれたばっかなんだけど、今日とか帰り道で百円拾ったし……。それにたぶんあの子とはタイミングが合わなかっただけで、もうちょい頑張ればうまくいくかもしれないし……あ、でも別に俺が引きずってるとかそういう意味じゃなくて……」


 何言ってんだろ、俺。

 ありえないぐらいの冷や汗を全身に感じながらも、それでも俺は哲也が言っていた通り、相手の心を開くために自分のことを話し続けた。

 フラれた直後に送ったメッセージの返信が未だにないこと。その代わりなぜか登録した覚えもない怪しいサイトから請求書のメッセージが届いたこと。それに、好きだった子が俺の友達(哲也)とオシャレなカフェでお茶を楽しんでいるところを目撃してしまったことなど。

 ……って、なんか本気で俺の悩み相談みたいになってないか?

 そう思いながらも重苦しい沈黙が訪れることを恐れた俺は、思いつく限りの情けない話しや恥ずかしい話しを喋り続けた。すると、ずっと黙ったまま俯いていた彼女が、突然顔を隠すように頭をそっと机に伏せた。


 ……え?

 

 両腕に顔を埋めて昨日と同じように肩を震わせるその姿に、ヤバい! と俺の心臓が激しく脈打つ。どうやら自分の話しをして相手の心を開くという作戦は失敗してしまったようだ。

 焦った俺は口をパクパクとさせながら必死になって言葉を探す。とりあえずここは下手に刺激させるより、そっと一人にさせといた方が良さそうだ。


「そ、そうだよな! 一人で泣きたい時だってあるよな! ご、ごめんそんな時にバカみたいなこと話しちゃって……だから邪魔者はそろそろ」


 おいとまさせて頂きます、と言葉を続けてカーテンを閉めようと立ち上がった時だった。突然頭の中にクスクスと笑い声が聞こえてきて、俺は思わず伸ばした腕をピタリと止める。

 目の前を見ると、なぜか相手は顔を伏せたまま右手でお腹を押させて笑っているではないか。


「…………」

 

 なんだ? なんで笑ってるんだ? もしかして……悩み過ぎて頭が壊れたとか?

 

 まったく状況が飲み込めずに固まったまま目をパチクリとさせていると、相手がそっと顔を上げた。


『ごめん……笑っちゃダメだと思っただんだけど、あんまりにも可笑しくって……』

 

 そう言って相手は相変わらず肩を震わせ続ける。どうやら泣いていたわけではなく、俺の話しが面白くて笑っていたらしい。

 とりあえず哲也の作戦は結果オーライだったみたいだけど……なんだろう、俺の心はひどく痛むぞ。

 そんなことを思いながら呆然と立ち止まっていると、今度は柔らかな声音が頭の中に響く。


『昨日はありがとね』


「え?」

 

 突然感謝の言葉を告げられて、俺は思わず目を丸くする。視線の先では、指先で涙を拭った相手がニコリと微笑んだ。


『私のこと心配してくれて教室にずっと残ってくれたんでしょ?』


「……」

 

 不意を突かれた言葉に、俺は咄嗟に彼女から視線を逸らした。昨日はもともと雨宿りするつもりで本当に残っていたのだ。けれど、雨が止んだからといってさすがに泣いている女の子を放ったらかしにしては帰れない。

 かといってそんなことを正直に話すわけにもいかず黙ったまま顔を逸らしていると、視界の隅で彼女がまたクスリと笑う。


『意外と優しいところあるんだね』


「意外とって何だよ」

 

 やっといつもの調子で言葉を発することができた俺は、恥ずかしさを誤魔化すようにムッとした顔で相手を睨んだ。けれど向こうにはバレバレなのか、窓に映る相手は笑顔を崩さない。


『そうやっていつもムスっとしてるだけなのかと思ったけど、ちょっとは見直したよ』


「……」

 

 嘘偽りを感じさせない真っすぐな瞳とその声に、俺はやっぱり恥ずかしくなってしまい顔を逸らした。心なしか、さっきから妙に心臓の音がうるさい。

 返す言葉がまったく浮かばず額に冷や汗だけ浮かべていると、相手がふっと息を吐き出す声が聞こえた。


『……私もね、実は最近フラれちゃったんだ』


「え⁉︎」

 

 いきなり告げられた爆弾発言に、俺はまたも目を丸くする。そして窓の方を見ると、さっきまで笑顔を浮かべていた彼女が少し寂しそうに睫毛を伏せている。


『一つ上の先輩なんだけどね。昔から仲が良くてずっと好きだったんだけど……気持ちを伝える前にいつの間にか先輩には彼女が出来てたの』


「そ、そうだったんだ……」

 

 消え入りそうな声で呟く彼女に、俺は何とか返事の言葉を絞り出す。失恋という意味では自分も似たような状況のせいなのか、胸の奥がやたらとヒリヒリと痛んだ。

 そんな心境が表情にも出てしまっていたようで、相手は気を遣うようにわざとらしく明るい声で言う。


『でももう大丈夫! たくさん泣いたら何か吹っ切れちゃった。それに、いつまでも引きずるわけにもいかないしね』


「……」

 

 そう言ってニコリと微笑む彼女の顔を見た瞬間、何故だか心臓がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。

 どう見たって強がっているのは明らかだった。

 でも、そんなことを面と向かって言えるほど、俺は相手のことを知っているわけじゃない。どんな傷を抱えているのか、どんな苦しみを抱えているのかもまだ知らない。だったら、今の俺にできることは……

 ゴクリと唾を飲み込むと、俺は震えそうになる唇に力を入れてそっと開く。


「……心配しなくても大丈夫だろ」


『え?』

 

 俺の言葉に、彼女が一瞬きょとんとした表情を浮かべた。


「そ、その……お前は俺と違って勉強もできて友達も多いし、それに見た目も……ま、まあ悪くないと思うから……次の恋愛は絶対うまくいくって」


『……』

 

 情けないほどにしどろもどろしながら言葉を伝える自分を、相手はポカンとしたような顔でじっと見ていた。と、思いきや。『何それ』と突然プッと吹き出した。

 その瞬間、顔面が火傷するんじゃないかってぐらい熱くなったけど、こうなったらヤケクソだと俺は無理やり言葉を続ける。


「だ、だから次の恋愛はうまくいくから心配する必要はないってことだ。その……す、すみ、住田さ……」 


『綾音でいいよ』

 

 さらりと返ってきた言葉に、「え?」と俺は思わず声を漏らした。初めて名字で呼ぼうとしたが、覚悟していたよりもハードルはずっと低かったみたいだ。

 きょとんとした表情を浮かべていると、そんな自分を見て相手はクスクスと笑う。


『私の友達もみんなそう呼んでるし、それに名前で呼ばれるほうがなんか落ち着くから』


「そ、そうか……」

 

 俺はそう言うと動揺してしまったことを誤魔化すように咳払いをする。すると再び相手の声が頭の中に響く。


『じゃあこれからは……私も君のことは直人って呼ぶね』


「え! 俺もかよ⁉︎」

 

 思いもよらない展開に、俺はぎょっと目を丸くする。


『何よーそのリアクション。もしかして嫌なの?』


「い、いや別に嫌とかじゃないけど……」

 

 なんか恥ずかしいだろ、と言葉を続けようとしたが、それを伝えてしまうと余計に恥ずかしくなりそうだったのでやめた。そんなことを思っている時点でわかるように、俺は今まで女子から名前で呼ばれたことは、まだない。

 一気に距離感は縮めることができたものの、その分恥ずかしさも増してしまい、俺は相手の顔を見ることができずに頬をぽりぽりとかく。すると視界の隅で綾音がクスっと笑う。


『でも驚いたなー、直人が実は年下好きだったなんて』


「なッ⁉︎」

 

 いきなり名前を呼ばれたどころか思わぬ話題を掘り返されてしまい、俺は顔を真っ赤にして綾音のことを睨んだ。


「べ、べつに年下が好きなんじゃなくて、好きになった相手がたまたま年下だったんだよ!」


『ふーん、そうなんだ』

 

 そう言いながらも相手はニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべている。ダメだこいつ、絶対信じてないだろ……。

 そんなことを思いながら眉間に皺を寄せていると、綾音がふっと柔らかい笑みを見せる。


『直人も早く見つかるといいね』


「え?」

 

 またも名前を呼ばれてドキリと驚いてしまった俺は、そのせいで「何がだよ?」という言葉を言い忘れてしまう。するとその隙に、綾音が再び唇をそっと開いてこう告げる。


『新しい恋だよ』

 

 そう言ってニコリと笑う綾音。その言葉に、俺は何も言えなかった。新しい恋だなんて、普段の自分ならきっと鼻で笑って受け流していただろう。

 でも何故かこの時だけは、そうすることができなかった。

 たぶん俺のことを応援してくれた綾音の姿が、不覚にもちょっと可愛いと思ってしまったからかもしれない。……って、単純過ぎるな俺。

 そんな冗談はさておき、この日を境に俺と綾音の関係は少しずつ変わっていった。とは言っても相変わらず顔を合わせれば喧嘩もするし、お互い負けず嫌いなので些細な言い合いなんてしょっちゅうだ。

 それにスケベだの変態だの心外な言葉でののしられることも日常茶飯事。

 けれど一つ大きく変わったところがあるとすれば、喧嘩や言い合いをするのと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に、笑い合えることも増えていったということだ。

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