第20話 不器用な優しさ
「……失礼しました」
部屋に入る時よりも2トーン低い声で進路指導室を出た私は、取っ手を掴むとゆっくりと扉を閉めていく。
「また明日ね」と優しい声で言ってくれる担任の先生にペコリと会釈してその姿が見えなくなるや否や、私は大きく肩を落としてため息をついた。
「やっぱ国公立はまだ厳しいか……」
心の中でぼそりと呟くつもりが、思ったよりもショックが大きかったせいか無意識に唇から声が溢れた。ついでにまた一つ、ため息も。
今回のテストはけっこう頑張ったつもりだったんだけどな……
先ほど聞いたばかりの担任の言葉が頭の中でぐるぐると回っている。特に大きくテストの結果が下がったわけじゃない。綺麗な横這い。前回よりも頑張ったのにそれが結果に現れないところが、なんだか今の私自身を見ているようで嫌だ。
気持ちが沈んでいるせいか、廊下の窓を見上げると空はさっきにも増して鉛色が濃くなっているような気がした。やっぱり雨が降るのかな、と携帯のアプリで天気を確認しようとした時、「あっ」と声を漏らした。
「しまった……机の中に忘れてきちゃった」
普段はスカートのポケットに入れているのに、面談までの時間を潰そうとスマホをいじっていたせいでそのまま机の中に入れてしまったのだ。
「ついてないな……」とぼそりと呟いた私は、右手で持っていた鞄を肩に掛けると、再び自分の教室に向かって一階の廊下を歩き始めた。
さすがにこの時間になると廊下には人っ子ひとりなく、ぽっかりと空いた空間を運動部の掛け声と吹奏楽部の演奏だけが埋めていた。
今頃芽美は拓真くんと楽しく遊んでいるんだろうなぁ……
進路への悩み、そして廊下に自分の足音しか響かない孤独感のせいで思わずそんなことを考えてしまう。
こんな時、もしも好きな人と一緒にいることができれば、どれだけ幸せなことか……
そんな寂しさに胸の奥をぎゅっと掴まれていた時、窓の向こうに見える中庭でチラリと人影が見えた。その見覚えのある横顔に、思わず心臓がドキリと跳ねる。
篠崎先輩だ!
視線の先、中庭の茂みの隙間から見えたのは、同じように通学鞄を肩に掛けて歩いている篠崎先輩の姿だった。諦めた恋……とはいえど、やっぱり好きな人の顔を見れることは素直に嬉しい。
早くなっていく胸の鼓動につられるように、無意識に歩調のリズムも上がっていく。中庭ならちょうど自分の教室がある校舎まで繋がっている渡り廊下がある。先輩も帰るところだし、もしかしたらこのまま一緒に……
そんな淡い期待を胸に抱きながら渡り廊下に一歩踏み出した時、ふと先輩の隣に誰かいることに気づいて、私はハッと足を止めた。顔はまだ見えないけれど、ふわりと風に靡いたスカートが見えただけで、その人物が誰なのか切ないくらいにわかってしまう。
しまった……
ギシリと鈍い痛みが走った胸元を隠すように、私は右手の拳をぎゅっと当てる。咄嗟に引き返そうとしたが、もしかしたら人違いかもしれないという余計な邪念が、そんな私の邪魔をする。
「……」
私は小さく深呼吸をすると、もう一度つま先を渡り廊下の方へと向けて、おそるおそる一歩を踏み出した。先輩がいる場所とは少し距離がある為、向こうはまだ自分の存在には気づいていない。
私は息を潜めながら慎重な足取りで一歩ずつ渡り廊下を歩いていく。
もう少しだ……もう少しで隣にいる人の顔が……
うるさく早鐘を打つ心臓。自分の足取りに合わせるように、先輩の隣にいる人物の姿があらわになっていく。
曇り空の下でもハッキリとわかる白い肌、すっと伸びた細くて綺麗な両足。
チラッと見えた自分と同じローファーが先輩の歩みを止めるように彼の真正面まで近づいた時、その踵が背伸びをするようにゆっくりと地面から離れた。そして……
「……」
胸を貫くような鋭い痛みを感じたのは一瞬のことで、その後は壊れた人形みたいに、私の心はもう何も感じなくなっていた。
音も、色も、何もかもを失った世界の中で、重ねた唇で互いの気持ちを確かめ合っている二人。そんな二人の姿が、徐々に滲んで歪んでいく。
もしかしたらいつか……なんてほんの僅かでも期待していた私がバカだった。最初から……最初から私が入り込む隙間なんて……
恥ずかしそうに笑っている先輩の横顔を見た瞬間、再び胸に強烈な痛みを感じて、私は逃げるようにもといた校舎へと戻った。階段を急いで上がり、今度は二階の渡り廊下を走って教室に向かう。その途中、窓の下の景色が見えないようにぎゅっと目を瞑った。
もう、何も見たくない。何も聞きたくない。こんなにも胸が張り裂けそうなほど痛くなるぐらいなら、私には好きな人なんていらない。だから……だから……
扉の前に辿り着くと、私は逃げ込むように誰もいない教室へと入った。よろめく足を、並んでいる机を
なんとか自分の席まで辿り着いた私は、そのまま倒れ込むように座った。その衝撃で机の中に入っていたスマホが床に落ちてしまったけれど、それを拾い上げることさえできず、私はそっと机の上に顔を伏せた。
我慢できなくなった心が目頭を熱くして、私の頬を濡らしていく。
ダメだ。泣いちゃダメだ……私はもう、諦めていたんだから……
そう思っても、思い込もうとしても、涙と一緒に瞼の裏に浮かんでくるのは幸せそうな二人の姿。泣くもんか、とぎゅっと強く唇を噛み締めるけれども情けない声が漏れていく。そのせいで、何度も何度も咳き込んでしまう。
そんな情けない自分の存在をかき消すかのように、降り始めた雨が強く窓を叩いた。
「……」
しばらくの間、私は顔を上げることもできずに声を潜めて泣いていた。どれくらいの間そうしていたのだろう。真っ暗な世界の中で、止みそうにない雨の音と自分の泣き声だけを聞いていると、私は本当に一人ぼっちになってしまったかのように感じてしまう。
そんなことを思い、顔を埋めた両腕にぎゅっと力を込めた時だった。突然頭の中に声が響いた。
『うおッ!』
雨音を一瞬遮って耳の奥に響いた声に、私はビクリと肩を震わせた。たぶん、またあの男が現れたのだろう……最悪のタイミングだ。
『お前……こんな時間まで何してんだよ?』
『……』
べつに、と私は少し間を開けてから心の中でぼそりと呟いた。
『別にって……もう5時半過ぎてるぞ。帰らないのか?』
しつこく尋ねてくる相手に、私は顔を上げずに小さくため息をつく。
『私のことはほっといてよ。……それより、アンタこそ帰らないの?』
『俺はさっき補習終わったばっかりで今から帰るところだけど……』
『あっそ』と私は素っ気なく返事を返した。たぶん向こうが帰れば、いつものように窓は元の姿に戻るだろう。
早く帰ってくれればいいのに、とそんなことをぼんやりと思っていたら、おずおずとした口調で再び頭の中に声が聞こえてくる。
『お前……もしかして、泣いてるのか?』
『……泣いてない』
少しムッとした態度で答えた私は、泣いていることがバレないように腕の中にぎゅっと顔を埋める。そのまま黙っていると、向こうも空気を察したのか何も話さなくなった。けれど、何故か帰る様子もない。
『……』
疑問に思った私は、相手に顔を見られないようにこっそりと窓の方を見た。すると、窓に映っている男は鞄を肩に掛けたままこちらに背を向けてじっと座っていた。
帰ると言いながら何故かピクリとも動かない相手に、今度は私の方からぼそりと尋ねた。
『……帰るんじゃなかったの?』
少しトゲのある口調になってしまったものの、相手はいつものように喧嘩腰ではなく、何故か少し恥ずかしそうに言葉を返す。
『あ、雨宿りだよ……天気はお前のとこと同じだろ』
そう言って相変わらず背を向けている相手に、私は呆れてため息をつく。
『傘持ってないの?』
『忘れたんだよ。雨が降るなんて思わなかったからな』
相手はそう言うと、さらに言葉を付け足す。
『雨が止んだら、帰るからな……』
『……』
わざわざそんなこと言わなくても勝手に帰ればいいのに。
そんなことを思った私は視線を相手から離すと、今度はそっと廊下側の窓の方を見た。するといつの間にか雨は止んでいたようで、空を覆っている雲間からは夏の斜陽が顔を覗かせていた。滲んだ視界で見るせいか、オレンジ色の光がいつもより眩しく感じてしまう。
再び彼の方をチラリと見ると、相手も雨が止んでいることは気づいているはずなのに、相変わらず帰ろうとはせず肩に鞄をかけたまま背を向けて座っている。
『……』
そんな彼の姿を見いていた私は呆れて小さくため息をつく。そして、きつく結んでいた唇をほんの少しだけそっと緩めた。
本当にこの男は、不器用なんだから。
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