第19話 それは苦手です。

 テスト期間もやっと終わり、夏休みという学生にとって最大のイベントを前にみながウキウキしているこの時期も、私は相変わらず慌ただしい毎日を送っていた。もちろん、その原因の99%はあの男のせいだ。 


「やっと消えた……」

 

 放課後を知らせるチャイムが鳴った瞬間、いつもの穏やかな青空を取り戻した窓を見つめながら私はぼそりと呟く。

 以前にも増して、あの男が鏡や窓に現れる頻度が多くなったような気がする。プライバシーもプライベートも関係なく頻繁に顔を合わせてしまうせいか、だんだんあの男が現れてくることに違和感を感じなくなっているような……


「ってダメだダメ! あの男は人のお風呂場にまで現れてくる変態なんだから惑わされたらダメ!」

 

 私は思わずそんなことを呟いて小さく首を振ると、自分の身を守るようにぎゅっと身体を抱きしめる。しかも最悪なことに、6時間目のホームルームの席替えで私は窓際の席になってしまったのだ。

 それどころか何の因果なのかわからないけれど、向こうも同じように席替えがあったようで、気づけば私の真横に座っていた。……なんてことだ。


「あぁ……これじゃあ明日からまともに授業受けれないよ……」


 はぁと大きなため息を吐き出すと、私はコツンと机におでこをつけた。すると、ポンポンと背中を軽く叩かれると同時に「綾音!」と明るい声が聞こえた。


「どうしたの? お腹でも痛いの?」


「ううん、違うよ。大丈夫……」

 

 私はさっと顔を上げると無理やり笑顔を浮かべる。これ以上あの男に振り回されて悩むわけにはいかない。そんな私の気持ちは友人にも伝わったようで、「そっか」と芽美も同じようににっこりと笑った。


「何だか最近の綾音、調子良いもんね」


「え? どこがよ?」

 

 予想もしなかった芽美の言葉に、私はきょとんとした顔を浮かべた。今の私、どう見たって調子が良さそうに見えないんですけど? 


 そんなことを思いながら「うーん」と眉間に皺を寄せていると、芽美がいつものようにケラケラと笑い出した。


「だって綾音最近なんだかキビキビしてるし、鏡とか窓見るたびに決意込めたような顔して気合入れてるじゃん。だから何か頑張ってるのかなーって思って」


「……」

 

 今の私ってそんな風に見えてるんだ。

 

 芽美の言葉を聞いて、寄せた眉根が思わずピクピクと動いてしまう。キビキビとして見えるのは、おそらくあの男がいつ現れるのかわからないので常に気を張っているからだろう。

 呆然としたまま苦笑いだけ浮かべていると、芽美が続けて言葉を発する。


「そんな調子の良い綾音に、一つお願いがあるんだけど」


「お願い?」

 

 パチンと手を合わせて片目を瞑る芽美に、私は小さく首を傾げる。


「うん。今日拓真と拓真が中学の時の友達たちと一緒に遊ぶことになったんだけど、私の友達も何人か誘ってほしいってお願いされてさ。だから……綾音も一緒に来てくれないかなーって思って」


「それって……」

 

 合コン、ですよね? と思わず言いそうになった言葉をゴクリと飲み込む。そして無言のまま友人の顔をじっと見つめた。

 男友達も多く初対面の人ともすぐに打ち解けられる芽美ならまだしも、私の場合そんなところに参加する勇気はないし、興味もない。


「ほら、拓真の友達ってけっこうイケメン多いからさ。だからこっちも綾音ぐらい可愛い子連れていかないとメンツが立たないかなって」


「い、いやー……私は、ちょっと……」

 

 芽美に可愛いと褒められるのは素直に嬉しいが、そんなプレッシャーをかけられた状態では尚更参加したくない。それに今日は、これから重要な予定があるのだ。


「ごめん芽美……私、今日担任と『進路面談』の日だから……」


 ぼそりとした声で申し訳なさそうに言えば、芽美がきょとんとした表情を浮かべる。


「え、綾音って進路面談の希望出したんだ」


「うん。ちょっとでも早めに大学絞っておいた方がいいかなーって思って」

 

 そう言うと私は恥ずかしさを誤魔化すように頬をぽりぽりとかいた。

 進路面談は基本的に3年生になってからなのだが、2年生の私たちも希望すれば受けることができる。この時期から利用する生徒は少ないのだけれど、難関大学や特殊な専門学校を目指している人たちは担任の先生と面談を始めているのだ。


「そっかー。綾音が来てくれたらみんな喜ぶと思ったんだけど、未来の薬剤師の進路が賭かってるならそっちの方が大切だもんね。わかった、他の子に声掛けてみるよ」


「ごめんね芽美」と言った後にいつのもの調子で「今度は絶対に行くから」と付け足しそうになり慌てて唇を止めた。芽美とはいつだって遊びに行きたいけれど、知らない男の子と遊ぶのは苦手だ。

 半開きになったままの唇でぎこちない苦笑いを作って間を繋げると、「じゃあ面談頑張ってね!」と言って芽美は軽快な足取りで教室の扉へと向かって行く。そんな彼女の後ろ姿を見つめながら、私は小さくため息をついた。


 私って、ちゃんと高校生活楽しめてるのかな……


 先日芽美は、「拓真に告白されちゃった!」と夜に突然電話をかけてきて、スピーカーの向こうで大はしゃぎしていた。

 芽美が好きな人と結ばれたのは素直に嬉しかったし、「ほんとに⁉︎  おめでとうッ!」って私も一緒に大喜びしていた。彼女は私と違って恋も学校生活もいつも充実しているのだ。


「はぁ……」

 

 私は机に右肘をついて頬杖をつくと、またも無意識にため息をこぼす。高校生活は一度きり。だからこそ私もできることなら勉強ばっかりの毎日じゃくて、芽美のように恋愛も遊びももっと楽しんでみたいと思うこともある……


「でも私は……」

 

 ぼそりと声を漏らすと、そっと瞼を閉じてみる。真っ暗になった世界に浮かんでくるのは、私が薬剤師を目指すきっかけになったあの日々のこと。大好きだったお父さんと過ごした、最後の夏の時間。あの経験があったから私は……

 そんなことを考えていた時、ふと窓の向こうから聞こえてきた吹奏楽部の演奏で私はハッと我に戻った。そして教室の時計を見て面談の時間が迫っていることに気づき、「いけない!」と慌てて鞄を持って立ち上がる。

 そのまま急いで教室から飛び出して生徒が少なくなった廊下に出ると、心なしか辺りが少し暗くなっていることに気づいた。


「夕立でも降るのかな……」

 

 小走りで廊下を進みながら窓の向こうを見上げると、空にはどんよりと重たそうな雲が広がっていた。


 今から進路面談なのに、なんだか嫌な空だな……

 

 まるで自分の心まで覆ってしまいそうな鈍い色をした空を見つめながら、私は胸の中でそんなことを呟いてしまう。そして僅かに感じ始めた胸騒ぎから目を逸らすように私は視線をそっと廊下へと戻すと、進路指導室へと急いで向かった。

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