第17話 こちらも同じく失う

「はぁ……」


「どうしたの綾音? 朝っぱらからそんなおっきなため息ついちゃって」

 

 私が教室の机の上で突っ伏していると、頭上から芽美の声が聞こえてきた。親しみあるその声に顔をあげようとするも、憂鬱な気持ちが重すぎるせいかなかなか頭が上がらない。


「芽美どうしよ……私、もうお嫁にいけないかも」


「へ?」

 

 くぐもった声でぼそりとそんなことを呟けば、芽美がきょとんとしたような声を漏らした。

 昨夜も神出鬼没のあの変態男は、私がシャワーを浴びている最中にも関わらずお風呂場の鏡に現れてきた。

 そしていつものようにお互い意地を張り合って背を向けながら場所を譲らなかったけれど、よくよく冷静になって考えてみれば、私は知らない男といつも一緒にお風呂に入っているようなものなのだ。


「なになに? もしかして篠崎先輩となんかあったの?」


「……ううん。篠崎先輩とは何もない」

 

 何もない、と力なく答えた自分自身の言葉にぐさりと胸が悲鳴を上げる。うん、そっちの方は悲しいぐらいに何もない。

 じゃあ何なのよ? と怪訝そうに尋ねてくる友人に、私はそのままの流れで口を開きかけたが、すんでのところでやめた。

 ここ最近起こっていることをもしも芽美に言ってしまえば、もう保健室どころか大きな病院に無理やり連れていかれるかもしれない。

 だって知らない男の子が鏡や窓に頻繁に現れては、自分の頭の中に語りかけてくるなんてどう考えたって異常だし、誰も信じてくれるはずがない。

 そう思った私は顔を伏せたまま「ごめん、何もない……」と言って小さく首を振る。すると芽美の不満そうな声がすぐに返ってくる。


「もうッ、何もない何もないばっか言ってたら恋も恋愛もほんとにできなくなっちゃうよ」


「恋も恋愛もって……それ、どっちも同じだよ」


「あはは、ほんとだッ」と芽美があっけらかんとした笑い声を上げた。そんな明るい友人の笑い声を聞いて少し心が楽になった私は、それを支えにのっそりと顔を上げる。


「お、やっと私のこと見てくれたな」


「芽美はほんといつも元気だよね」


「何それ? もしかして私は悩み事がなくて能天気なやつっていいたいわけ?」

 

 わざとらしくムッと頬を膨らませる芽美に、「そうじゃないよ」と私は思わずクスリと笑う。そのおかげでまた心が軽くなる。やっぱりこういう時は、仲の良い友人と話して笑うことが一番の心の栄養剤のようだ。

 ごめんごめん、と私は相変わらず頬を膨らませている友人にクスクスと肩を震わせながら謝った。すると芽美がふっと柔らかい表情を見せる。


「良かったー、やっといつもの綾音に戻った」


「え?」

 

 その言葉にきょとんとした表情を浮かべると、今度は芽美の方がニッと笑う。


「なんか最近綾音の様子がおかしかったからさ。いっつも『お化けに取り憑かれちゃいました!』みたいな顔してるし。だから大丈夫かなー? って心配だったんだよ」


「そ、そうなんだ……」

 

 ごめん心配かけちゃって、と私は苦笑いを浮かべて頭をかく。……というか、取り憑かれたのは事実なんだけど。

 そんなことを思いながらも、もちろん真実を話せずただ苦笑する私に、芽美がぽんぽんと肩を叩いてきた。


「まあ私で良かったらいつでも話し聞くからさ! だから恋愛のことでも進路のことでもなんでも相談してきてよね」

 

 そう言うと芽美はにっこりと笑顔を浮かべる。ああそうだ。私にはこうやって自分のことを心配して気にかけてくれる友達がいるのだ。おかしなことに巻き込まれてしまったとはいえ、いや、巻き込まれてしまったからこそ気づけることもあるのだ。

 だから頑張れ私! と柄にもなく無理やりポジティブ思考でまとめると、私はこれ以上友人に心配をかけないようにとニコッと口端を上げる。


「ありがと芽美。おかげでもうだいじょう……」

 

 ぶ、と続けようとした瞬間だった。視界の隅で一瞬窓の光が遮られたような気がして私は「え?」と言葉を止める。そして窓の方を見て……思わず絶句する。


「…………」 

 

 突然呆然としてしまった私に、再び芽美が声色を曇らせて「大丈夫?」と尋ねてきた。その言葉に私は諦めるように大きくため息をつく。


「うん……たぶん……大丈夫」

 

 そう言ってガクリと項垂れた私は、視線だけをそっと窓の方へと向ける。

 そこに見えるのは爽やかな夏空……ではなく、こことは違う教室の中で、バカ丸出しの顔を浮かべならこちらを見て驚いているあの男の姿があった。

 どうやら……今日も逃げられそうにはないようだ。

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