第15話 魔のお風呂場
「あーダメだ、全然思い浮かばねぇ……」
夕食後、珍しく勉強机に座りっぱなしの俺は、相変わらず真っ白なままのアンケート用紙と睨み合っていた。唯一書いていた『特になし』の言葉も消してしまったので、文字通
り今は白紙だ。
「だはぁ……」
もう何度目になるかもわからない絶望感たっぷりのため息を吐き出すと、俺は机の上に突っ伏せる。どれだけシャーペンを力強く握ろうが、どれだけ眉間に皺を寄せようが、進路を語る言葉は一言も浮かんでこない。
「だいたい今の時点で進路なんて決まるわけないだろ……」
俺はぼそりとそう呟くと、僅かに顔を上げてアンケート用紙をジロリと睨む。視界に映るのはこれでもかといわんばかりに頭を悩ませてくる質問たち。
『大学、または専門学校への進学を希望しますか?』
『希望する学部は決まっていますか?』
『進路に対して何か不安や悩みはありますか?』
などなど……どれも読むだけで吐き気がしそうなものばかり。そしてトドメの一撃は、『将来の夢はありますか?』といういつもの定番文句。……それがわかってたらこんなにも苦労しないって。
「はぁ……なんで進路アンケートごときでこんなに追い詰められてんだよ俺」
長い長い人生の中でのたかが一つの選択、されど温厚な山中先生にあそこまで鬼気迫る感じで言われてしまうとちょっと悩むし不安にもなる。
「かと言って、別にやりたいことも目標もないからなー……」
俺は姿勢を戻して両手を頭の後ろで組むと、ぼんやりと目の前の窓を見つめる。そこに映っているのは、ぽつぽつと街頭の光が浮かんでいるのどかな住宅街の風景。都心の進学校ならまだしも、こんなパッとしない田舎の高校に通っているこの俺が、一体何を目指せばいいんだ? だいたいこんな時期から進路決めてる奴なんてどうせ、「自分にはこんな夢があるから凄いんです!」ってえらそーにアピールしたいだけだろ。
「馬鹿バカしい……」
ふんと鼻で笑うようにそんなことを呟いた時だった。背後から物凄い勢いで襖が開く音が聞こえてきた。
「ちょっと直人! あんた今何時だと思ってんの? さっさと風呂に入れこのバカっ!」
「うおッ!」
突如姉の
「いってー……だからノックしてから入ってこいって言ってるだろ!」
両手で痛む頭を押さえながらちょっと涙目になって姉の顔を睨めば、相手は腹立たしいことにふんと鼻を鳴らしてくるではないか。
「襖にノックはいらないって何度も言ってるでしょ。それよりほら、さっさと風呂に入ってきなさい!」
そう言って無慈悲で冷酷な姉は、痛みでもがき苦しんでいる弟に対してタオルとパンツを勢いよく投げつけてきた。キャッチしそこねた俺の顔面に、ばふっと柔らかい感触が当たる。
「うっせーな……明日の朝入るって」
「バカ、いつも遅刻ギリギリまで寝てるくせに無理に決まってんでしょ。近所迷惑になる前に早く入ってこい!」
ピシャン! と捨て台詞と共に勢いよく襖が閉まり、うっとおしい姉はやっと俺の視界から姿を消した。
こんな夜中に怒鳴り散らすとか、どっちが近所迷惑なんだよ……
「くそッ」と俺は不満たっぷりな声を漏らすと、床に散らばったタオルとパンツを拾って立ち上がった。けっこう強くぶつけてしまったようで、後頭部がズキズキとやたらと痛む。もしかしたら明日はたんこぶが出来てるかも……
そんなことを思い、右手で頭の後ろを優しくなでながら俺はそっと部屋を出る。うさ晴らしにドタバタと足音でも鳴らして廊下を歩きたいところだが、斜め向かいが姉の部屋になっていてそんなことをすれば百パーセント殺されるのでやめた。
代わりに唾を飛ばすかのように「けッ」と姉の部屋の襖に向かって声を投げつけると、俺はぶつくさ言いながら階段を降りていく。一階の廊下が真っ暗なところを見ると、どうやら他のみんなはすでに眠っているらしい。
姉の部屋の前を通る時とは違い、俺は慎重な足取りでばーちゃんの部屋の前を通り抜ける。ばーちゃんは起こすと怖い。以前夜中に電話しながら廊下を歩いていたら、「うるさいッ!」と
その時のことを思い出して一人ブルリと肩を震わせながら、俺は中途半端に仕切りが開いている脱衣所へと辿り着いた。さっきまで風呂に入っていた姉がたぶん閉め忘れたのだろう。俺に小言を言うくせにこういうところはダラシない。
ほんと仕方ないやつだな、と面と向かって口答えできない俺はここぞとばかりに愚痴を吐く。そしてぶっきらぼうにタオルとパンツを洗濯機の上に置くと、のそのそと着ている服を脱ぎ始めた。
後頭部はまだ痛いし、頭の中は進路アンケートや姉の暴言のせいでこちらも痛い。せめて風呂に浸かってる間はゆっくりと身体を休めて……
「……ちょっと待てよ」
風呂場の扉を開けて一歩目を踏み出そうとした時、ふと嫌な予感が走って足を止めた。まさかとは思うが……またアイツが出てきたりしないよな?
「…………」
少しの間考え込んだ俺は、今の時間帯が遅いこと、そして今日はすでに奴が一度姿を現していることを理由に、さすがにもう出てこないだろうと結論づけた。うん、きっと出てこない。
そう思って気を取り直すと、宙ぶらりんになっていた右足を濡れたタイルへとそーっとおろす。ここまではいつも通りだ。あとは、あの鏡に変なものが映っていなければいいのだが……
俺はゴクリと唾を飲み込むと、そのまま左足もゆっくりと動かして風呂場へと踏み入れる。そして勇気を振り絞って恐る恐る姿見の中を覗き込んだ瞬間、自分のものではないパッチリとした二重がそこに映った。
「うわぁッ!」
『キャっ!』
俺が叫び声を上げると同時に、パシャン! と鏡の中で盛大に水が炸裂した。おそらく向こうがお湯をかけてきたのだろう。
こっちには届かないとわかっていながらも、俺は反射的に両腕を上げてガードする。
『ちょっとなんでアンタがまた出てくるのよ! この変態ッ!』
『はッ⁉︎ 誰が変態だこのクソ女! お前の方が勝手に出てきたんだろ!』
心の中でそんな言葉を叫んだ俺は、咄嗟に湯船のお湯を桶ですくうと相手に向かって思いっきりぶっかけた。……が、もちろんそれは全部跳ね返って俺にぶっかかる。
『今すぐ出てって! 早く消えて!!』
頭の中にスピーカーでも埋め込まれているんじゃないかと思うほどのやかましい声がガンガンと響いた。そのせいで、さっきぶつけた後頭部が余計痛くなって思わず目を閉じる。
『お前な、もうちょっと声を……』
『バカっ! こっち見ないでよ!』
顔を真っ赤にしてタオルで身体を隠す相手は、射殺すような視線でこちらを睨みつけてきた。さすがにこれはマズいと思った俺は、『うっせーな、お前こそこっち見るなよ!』と叫び返して慌てて背を向ける。
『だいたいなんでこんな時間にお風呂に入ってくるのよ! もしかして私が入るの狙ってたの?』
『んなわけねーだろ、こっちは色々と忙しかったんだよ! お前の方こそこんな時間に風呂入るとか近所迷惑だろ! ちょっとは考えろッ!』
そう叫んだ瞬間、背後でバシャっ! と先程よりも勢いのある音が聞こえた。どうやらヤツは相当ご立腹のようだ。
『そんなのあんただって同じじゃない! それに女の子に対してお前お前ってほんと失礼なヤツ! 私には
『お前だって人を変態呼ばわりしやがって! 俺にも
俺は心の中でそう叫び返すと、絶対に風呂は譲らないぞという強い意志を見せつけるために、鏡に背を向けたままバススツールにドンと座った。
『ちょっと! なに居座ろうとしてるのよ!』
『は? 居座るも何もここは俺ん家の風呂だ……って、お前の方こそ俺のこと見てんじゃねーかッ!』
危うく本当に声に出してしまいそうな勢いで心の中で叫べば、『べ、べつに見てないわよ!』と少し動揺した声と一緒にキュキュッと床が鳴る音が頭の中に聞こえてきた。たぶん向こうも背を向けたのだろう。
俺は後ろ向きのままシャワーを掴むと手探りで蛇口をひねり、さっそく頭を洗い始める。
『ほんっとありえない……なんでこんな状況で堂々とお風呂に入れるの?』
『うっせーな、今入っとかないとねーちゃんに殺されるんだよ! それに嫌だったらお前が今すぐ出ていけばいいだろ』
『私だって明日は朝早いから今しか入れないの!』
『あーはいはい、そーですかそーですか。だったら早く身体洗ってさっさと風呂から出ていけばいいんじゃないですか?』
わざと挑発するような口調で告げると相手も相当負けず嫌いのようで、『なんで私が譲らないといけないのよ!』と怒鳴ってきた後、シャワーを出す音が聞こえてきた。
『あんたの方こそ早く身体洗って出ていってよね! じゃないとセクハラで訴えてやるからッ!』
『は? なんで知らない人間に俺の風呂の入り方を指し図されなきゃいけないんだよ。だいたいお前、いつになったら俺に取り憑くのやめるんだ?』
『それはアンタのほうでしょ! お化けじゃないとか何とか言ってたけど、やっぱタチの悪い呪縛霊とかじゃないの?』
ふんと鼻を鳴らす音まで聞こえてきて、俺の頭の中でカチンとゴングが鳴る。
『だから違うって言ってんじゃねーか! 俺はこの世界にちゃんと生きてる人間だ、真っ当な生活を送っている普通の高校生だ!』
『ふーんどうだか。鏡の中に出てくる時点で普通じゃないと思うけど? それに本当に生きてるのかどうかなんて私にはわかんないし』
ツンとした態度を崩さない相手の言葉にまたも後頭部がズキズキと痛み出す。
そこから俺たちは、互いに幽霊ではなくちゃんと生きてる人間だということを意地の張り合いのように主張し合った。
生年月日に家族構成。自分が通っていた幼稚園や小学校、よく遊びに行く場所など……それはもう相手に納得させるために俺は事細かに説明した。ただ成績と進路については触れらたくなかったのでその点だけはスルーしたけど。
対する相手のほうはといえば、嘘や作り話をするのが相当得意なのか、俺と同じくかなりリアリティのある主張を繰り広げてくる。しかも話しを聞けば聞くほど、何となく相手がわりと近くに住んでいそうな気がしてくるではないか。
これはもうあのクソ女が本当に存在するのかを確かめる意味も含めて直接家に怒鳴り込んでやろうかと思った時、俺は相手がふと口にした住所に思わず息を飲み込む。
『……ありえないな』
『え?』
俺がぼそりと呟くと、それまで
『何がって、お前が今言った住所はデダラメだ』
『デタラメなんかじゃないわよ!』
『いーや、絶対にデタラメだ。だって……』
俺はシャワーを持つ手を頭上から降ろすと、意識を背中にいる相手へと向ける。そして心の中で強く断言した。
『その住所は俺ん家の住所だ』
『え?』
相手が動揺する声が頭の中に響いた。おそらく、嘘がバレてしまって焦っているのだろう。何たって今さっき向こうが言ってきた住所は、正真正銘、俺が住んでいるこの家の住所だ。
どうして相手が俺の住所を知っていたのかはわからないし考えてみるとちょっと怖いことだけど、これでハッキリとした。やはりあの女は嘘をついている。
『やっぱ作り話しだったか』
『そ、そんなわけないでしょ! そっちこそ絶対にデタラメよ! だってここには私とお母さんがちゃんと住んでるんだもん』
『それがありえないって。お前がさっき言った住所は間違いなく俺ん家の住所だ!』
強い口調で再び断言すると、今度は何故か呆れたようなため息が返ってくる。
『それが嘘ね。ってことは、今までの話も全部嘘だったんじゃないの?』
『おいちょっと待てよ! なんで俺の方が嘘ついてたことになってんだよ。嘘をついてたのはお前のほうだろ!』
イラっとした俺は、勢いのあまり後ろを振り返ってしまった。すると『バカっ! こっち見ないでよ!』とすぐさま鏡の中で水が飛び散る。……って、お前のほうこそ今見てただろッ!
「あークソっ!」と俺は本当に声を漏らすと、シャンプーが馴染んだ両手で頭をかきむしった。すると、向こうが立ち上がる音が聞こえる。
『アンタが嘘つきだってことはよーくわかりました。だから今後は私の前に一切現れないこと』
わかった? と腹立たしいほどの上から目線の口調で言ってきた相手は、そのまま風呂場の扉を勢いよく開けると出て行ってしまった。
「……」
究極に不完全燃焼な状態で残されてしまった俺は、思わずシャワーを床に叩きつけそうになり慌ててやめた。風呂に入って身も心もゆっくり休ませるはずが、休ませるどころか心身ともにストレスだらけだ。
「マジで何んだよあの女……」
俺は苛立ちのこもった声でそんなことを呟くと、発狂寸前の心を少しでも落ち着かせようと何度も深呼吸をする……が、その後身体を洗おうとした時にボディソープが空っぽになっていることに気づき、発狂した。
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