第12話 やっぱり現れる
「はぁ……」
授業が始まってからも、私は無意識に何度もため息をついていた。前方では気前の良い萩原先生が、「ここは今度のテストに出すからね」と黒板にチョークをこんこんと当てているが、私のノートは真っ白のままだ。右手に握っているシャーペンも、さっきから芯さえ出ていない。
これじゃあダメだ……
そんなことを思い、またもため息をついた私はカチカチとシャー芯を出すと力なく腕を動かしてノートに文字を刻んでいく。X=5の場合、Y軸の値は……
ぶつぶつと頭の中でそんなことを呟きながら黒板を写していた時、ふと視界の隅に違和感を覚えた。
なんだろう? と疑問に思った私は、そっと顔を上げると窓の方を見た。そして、思わず呼吸が止まる。
ひッ⁉︎
私はガタリと椅子を引くと、瞬きもせずに窓に映っている光景を凝視した。さっきまで澄み切った青空が広がっていたはずの景色には、今はまったく別のものが映っていたからだ。
「どういう……こと?」
思わずぼそりとそんなことを呟く私の額には、早くもじわりと汗が滲み始めていた。それぐらいありえないことが、信じられないようなことが、今自分の目の前で起こっているのだ!
「……ださん、住田さん!」
突然自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、私はビクリと肩を震わせた。そして声が聞こえた方を見ると、萩原先生が自分に鋭い視線を向けていた。
「窓の外がどうかしましたか?」
「え、その……」
私は先生が口にした言葉に、驚きのあまりぎょっと目を見開いた。窓の外がどうしたもこうしたも、大変なことになっている!
「あ、あれ……」と私はクラスメイトたちの視線を浴びていることも気にせず、震える声と指先で窓の方を示した。
そこに映っているのは教室だった。ただそれは、この教室が窓に反射しているわけではない……
まったく別の学校の教室が映っているのだ!
私は目を見開いたまま、ゴクリと喉を鳴らしてその光景を凝視する。
この教室と同じく40人近くの生徒が座っているその教室では、見たこともない男の先生が授業を進めていた。
生徒たちが着ている制服も、この学校のものではない。私たちの学校は男女共にブレザーなのに、窓に映っている生徒たちは学ランやセーラー服を着ている。
何度瞬きをしても何度目を擦っても、そんな奇妙な光景は変わらない。しかも窓に反射しているというよりかは、まるでテレビを見ているかのようにハッキリと映っているのもおかしい……おかし過ぎる!
恐怖のあまり硬直状態となった私の耳に、再び萩原先生の声が届く。
「そんなに心配しなくても、あの飛行船は落ちてきたりしませんよ」
「え?」
予想もしなかった先生の言葉に、私は慌てて前方に視線を戻した。するとクスクスと笑い声が漏れる教室の中で、先生が呆れたようにため息をついている。
「たしかに飛行船が飛んでいるのは珍しいけど、ちゃんと先生の話しも聞いて下さいね」
「……」
どういうこと? 飛行船?
まったく状況が理解できない私はとりあえず「すいません」と小声で謝罪すると、乱れた呼吸を落ち着かせようと一度大きく深呼吸をする。けれど、どれだけ肺に酸素を取り込んでも、バクバクと耳の奥でうるさく鳴り続ける鼓動は一向に治まる気配をみせない。
再び教室が静かになって何事もなかったかのように授業が再開されると、私は恐る恐る視線だけを窓の方へと向ける。そこに映っているのは、飛行船が飛んでいる青空ではなく、やっぱり見たことのない教室だ。
もしかして……私だけしか見えないの?
窓際で座っている生徒や、自分と同じように窓のほうを向いている生徒を観察しても、誰も驚いたり怖がったりしている素振りは見せていない。それどころか、呑気に欠伸までしているクラスメイトまでいるぐらいだ。
……やっぱりそうだ。きっと私だけにしか見えてないんだ……
そんなことを思い、早鐘を打つ心臓を少しでも落ち着かせようとゴクリと唾を飲み込んだ時、窓に映っている見知らぬ教室の中に見覚えのある人物がいることに気づいた。
アイツだ!
私はまたも肩をビクリと震わせた。ぴったりと吸い付くように動かなくなった視線の先には、昨夜お風呂場の鏡に現れたあの男がいたのだ。
すると向こうもこちらに気づいたようで、幽霊のくせにお化けでも見たかのような驚愕した表情を浮かべていきなり立ち上がる。
『うわッ!』
「きゃッ」
突然頭の中に知らない男の声が響き、私は思わず悲鳴をあげてしまった。その瞬間、教室中の視線が再び自分に注がれる。
「住田さん、今度はどうしましたか?」
あきらかに不機嫌そうな声が聞こえた後、先生がギロリと鋭い睨みを利かせてきた。
「い、いやその、あの……」
もはや何をどう説明したらいいのかもわからず、私はただ無意味に口をパクパクと動かしていた。視界の隅に映っている窓の中では、どうやらあの幽霊男も同じように向こうの先生に怒られているようだ。
もう、ほんとに勘弁してよ……
私は出来るだけ視界に窓が入らないように教室の方に視線と意識を向ける。するとチラチラとこちらを見てくるクラスメイトたちの表情は先ほどの時とは違い、みなどこか不安そうだ。どうしよう……これじゃあ私がまるでおかしい人みたいだ……
そんなことを思ってしまうと、今度は恐怖心に恥ずかしさもじわりと滲んでしまい涙が出そうになる。
「何も……ありません……」
私はやっとその言葉だけを絞り出すと、先生に向かってすいませんと小さく頭を下げた。先生はあきらかにまだ不機嫌な顔をしていたが、それ以上は何も言わず授業を再開させた。もうこれ以上、先生やクラスのみんなに迷惑をかけることはできない。
チラッと芽美の方を見ると、友人もまた不安げな表情を浮かべて私のことを見つめていた。
「はぁ……」
私は小さくため息を吐き出すと、できるだけ窓側が目に入らないように椅子を少し動かして身体の向きをずらす。そして左腕の肘を机につけ、その手で頭を抱えるフリをして視界の半分を遮った。とりあえずこれであの幽霊男が見えることは……
『おい……おいってば!』
「え?」
またも頭の中に声が聞こえて、私は思わずぎょっと目を見開いた。
近くの席に座っている男子が声を掛けてきたのかと思ったが、みんな黒板の方を向いている。少なくとも視界に映っている範囲には、私のことを見ている生徒はいない。ということは……
私はゴクリと唾を飲み込むと、頭を抱えていた腕を恐る恐るおろしていく。そしてホラー映画のヒロインさながら、ぎぎぎと音が鳴りそうなほどのぎこちない動きで窓の方を見た。
ひぃぃッ⁉︎
視界に窓が映った瞬間、私は心の中で思わず叫んだ。なぜならあの幽霊男がじーっと自分のことを睨んでいたからだ!
やっぱり……やっぱりそうだ……私はあの幽霊男に取り憑かれてる……
恐ろしくなった私はブルブルと身体を小刻みに震わせながら、すぐに視線を黒板の方へと戻すとぎゅっと瞼を閉じる。するとまたしてもあの声が脳内に響いた。
『誰が幽霊だ! 俺はまだ死んでないって!』
「…………へ?」
再び聞こえてきた声に、私は驚いて瞼を上げた。今あの男……私の考えてることに返事をしなかった?
そんなことを思った私は、もう一度恐る恐る窓の方を見る。するとさっきよりも険しい表情で自分のことを睨んでくる男の姿が映る。直後、彼は先生に頭を叩かれていた。
「……」
どういうこと? まだ死んでないって……お化けじゃないの?
またしても疑問符が増えた頭で、私は男のことをじっと凝視していた。たしかによく見れば足はちゃんとついているし、先生に怒られて何度も謝っている姿は本当に生きているみたいでリアルだ。……それとも、相当どんくさいお化けとか?
考えてもまったく答えが浮かばない私はこれ以上不可解なことが起こるのも嫌なので、一か八か、勇気を振り絞って心の中で尋ねてみた。
『あ……あなた一体何者なの?』
『それは俺の台詞だ! お前こそ一体何なんだ⁉︎』
私の問いかけに、すぐにあの男の大声が脳内に響き渡った。そのあまりにうるさい声に思わず「ひッ」と目を瞑る。どうやら心の中で本当に会話ができてしまうようだ。
『お前のせいで先生に思いっきり怒られたじゃねーかッ!』
再び聞こえてきた大声にチラッと向こうを見ると、男は先生に叩かれた頭を右手でさすりながら横目でこちらを睨んでいる。その情けない姿に、ちょっとだけ恐怖心が萎んだ。
『わ、私だってあんたのせいで大変だったんだから! 早くどっかに消えてよ!』
会話ができることがわかった私は、一秒でも早くこの状況から抜け出したい一心で心の中で叫ぶ。するとすぐに同じ声量で返事が返ってきた。
『お前の方こそ早く消えろよ! だいたいなんで俺に取り憑いてんだよ!』
『と、取り憑いてきたのはアンタの方でしょ!』
ムキになって言葉を返してきた相手に、私もムキになって応戦する。どうやら向こうは私のほうが勝手に取り憑いたと思っているみたいだ……って、そんなわけないでしょ!
思わずムッと頬を膨らませた私は、萩原先生にはバレないように横目で睨み返す。
『あんたが取り憑いてきたせいで私の生活がめちゃくちゃになったんだからね!』
『は⁉︎ 何言ってんだよお前! お前が勝手に現れたせいで俺の生活の方がぐちゃぐちゃだ!』
『……』
向こうもまったく折れる気はないようで、細めた目をさらに細めてきた。が、先生に怒られるのがよっぽど怖いのか、チラチラと黒板の方を気にしている。
もうッ! マジであの男何なの⁉︎
散々怖い思いをさせられてきたせいで、ここにきて一気に怒りの感情が胸の内側で爆発する。
お化けではない、取り憑いてきたわけでもないとしたら、それこそ一体私に何の用なの⁉︎
そんなことを思った私は、こみ上げてくる衝動のままに心の唇を勢いよく開く。
『勝手に現れてきたのはあんたの方でしょ! このままだと普通の生活ができないんだから、とっとと消えてよッ!』
柄にもなくそんな汚い言葉を使ってしまった私の声はよっぽど大声になっていたのだろう。窓に映っている男は咄嗟に両耳を塞ぐと、迷惑そうな表情を浮かべて眉間の皺を深めた。
『そんなこと知らねーよ! ってかお前……幽霊じゃないのか?』
あまりに的外れな言葉に、『そんなわけないでしょ!』と私はすぐさま心の中で叫び返す。自分が勝手に取り憑いてきたくせに私の方が幽霊だなんて……この男バカなの⁉︎
そんなことを憤りながらこちらもぎゅっと眉間に皺を寄せていると、相手の声が再び頭の中に響く。
『幽霊じゃないってことは……お前もどっかで生きてんのか?』
『当たり前でしょ。死んでないんだから』
『……』
私がピシャリとした口調で心の中でそう言い返せば、向こうも相当混乱しているのか、机に両肘をつけて頭を抱えている。
『じゃあお前は……生きてるのに化けて出てきたってことか?』
『失礼ね! さっきから私のこと勝手にお化け呼ばわりしないでよ! 化けて出てきたのはそっちでしょ!』
私はふんと鼻を鳴らすと、そのままの勢いで腕を組みそうになったので慌てて止めた。さっき先生に怒られたばかりなのに、そんな態度で授業を受けるのはさすがにマズい。
上げたものの行き場を失った腕を机につくと、私も同じように頭を抱える。あーやだやだ。変なことが起こりっぱなしで頭が痛くなってきた。
うぅ、と一人情けない声を漏らしていると、また男の声が聞こえてくる。
『お前、ほんとに幽霊とかそっち系じゃないんだよな?』
『だから違うって』
『俺にわざと取り憑いたわけでもないんだよな?』
『違うって何度も言ってるでしょ! もう同じこと言わせないでよ!』
ただでさえ頭がズキズキと痛いのに、この男と話していると余計痛くなってしまう。私はわざとらしくため息を吐き出すと、窓に映っている男を横目で睨んだ。
『お願いだから早く私の前から消えて』
これでもかといわんばかりに冷めた声で心の中でそう呟けば、相手が一瞬ムカッとした表情を浮かべる。
『女子のくせに消えろ消えろってほんと口悪いなお前……ぜったい男子からモテないだろ』
相手がぼそりと付け足した最後の言葉に、私の頭の中でカチンと盛大に音が鳴った。それと同時に脳裏にチラつくのは、今朝彼女と一緒に仲良く廊下を歩いていた篠崎先輩の姿。
なんでこんな見ず知らずの男に、私の失恋の傷をエグられないといけないわけ?
『初対面の女の子に向かってよくそんな失礼なことが言えるわね! パッとしないあんたの方が友達も彼女も一生できないでしょ!』
『っんだとテメー!』
強い口調で言った言葉はどうやら相手の痛いところを突くことができたようで、向こうはかなり怒った表情を見せた。
『俺はお前なんかと違って友達も……』
『あーはいはい、強がりとかいらないから。それに私、べつにアンタのことなんて興味ないし』
相手の言葉を遮るように胸の中でそう言うと、向こうも私の言葉をすぐに遮って反論してくる。唇は一切動かしていないのに、私たちは授業そっちのけで心の中で激しい口論を続けていた。
面と向かって言わなくても相手の心にダイレクトに伝わってしまうせいか、普段の私なら考えられないような怒りの言葉が溢れてくる。そりゃそうだ。突然お風呂場に現れたと思ったら今度は教室。この男のせいで私の生活が大変なことになったんだから!
互いにヒートアップする怒りが頂点にまで達したのか、一呼吸挟んだ直後、私たちの心の声が同時に揃う。
『もう消えろッ!』
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