第11話 どうしても言えなくて……

「おはよ綾音……って顔死んでる!」

 

 翌日、教室に入ってきた芽美が私の顔を見るなりお化けでも見たかのように目を丸くした。そんな彼女に向かって、「え?」と私は力なく声を漏らす。


「なんか、『徹夜で仕事しちゃいました』みたいな顔してるけど……もしかして綾音、寝てないの?」


「……」

 

 何も答えることができず、私は黙ったまま小さくため息をついた。

 昨夜はお風呂場での体験があまりにも恐ろしすぎて、隠れるようにいつもより早い時間にベッドに潜り込んだ。が、瞼を閉じるたびにあの恐怖映像が脳裏に浮かんでしまい、まったく眠れなかったのだ。

 ようやくウトウトできたのはカーテンの隙間からうっすらと朝日が差し込むのを確認してからで、悲しいかな、そのすぐ30分後には目覚ましのアラームがけたたましく鳴っていた。

 無言のままでそんなことを考えていたら、「大丈夫?」と芽美が眉尻を下げて顔を寄せてきたので、私はコクンと小さく頷いた。友人の顔を見ると、かなり心配そうな表情をしているので、今の私はよっぽどひどい顔をしているのだろう。


 何だったんだろ、あれ……

 

 寝不足のせいで頭がぼやけているが、それでもはっきりと思い出せるのは、鏡に映っていたあの見知らぬ男。今朝、息が詰まる思いでお風呂場に足を踏み入れた時にはもういなかったけれど、あれは絶対に幻なんかじゃなかった……


「あ、あのさ芽美……」

 

 やっと口を開いた自分に、「なに?」と友人はニコリと口端を上げた。私がやっと声を発したことに嬉しそうな表情を浮かべている彼女を見て、喉の奥に用意していた言葉を思わず飲み込んでしまう。

 

 言えない……昨日の夜、お化けを見ちゃったなんて……

 

 せっかくいつもの表情に戻った芽美だが、もしも私がそんなことを言えば、今度は本気で保健室に連れていこうとするだろう。

 続く言葉を完全に失ってしまった私は、とりあえずぎこちない作り笑顔を浮かべて場を繋ぐ。


「何なのよ?」


「いやーその……」

 

 あはは、と怪しさ満点の声を漏らして、私は右手で頭をかきながらそっと芽美から視線を逸らした。やっぱりやめよう。こんな話し、できるわけない。

 そう思って「ごめん、何もない」と口にすれば、「もう、何なのさ?」と芽美は不満げにぷぅとほっぺを膨らませる。そして何か言いたげにまた唇を開いた時、彼女がチラッと廊下の方を見た。


「あ、篠崎先輩」


「えッ⁉︎」

 

 不意打ちのように飛び出してきたその名前に、私は慌てて廊下のほうを見る。直後、見なきゃ良かったと全力で後悔した。


「……」

 

 たしかに廊下には、朝一の授業が移動教室なのか、いつもように爽やかな笑顔を浮かべて歩いている篠崎先輩の姿が見えた。が、その隣には同じくらい輝かしい笑顔を浮かべて仲睦まじく歩いている彼女の姿も…………どうやら、二人は同じクラスのようだ。

 

 最悪だ……

 

 こんな状況で目が合ったらどうしようかと一瞬不安になったが、どうやら杞憂だったようで、先輩は彼女さんと楽しそうにお喋りをしながら視界の隅へとフェードアウトしていった。そして私は、今日もまたコツンと机におでこをつける。恐怖で傷付いていた私の心に、今度は失恋の痛みがじわりと広がっていく。


「綾音、アンタいま『あー私があの彼女の代わりに篠崎先輩の隣を歩ければいいのに』って思ったでしょ」


「なッ」

 

 その言葉を聞いて慌てて頭を上げた私は芽美の顔を睨んだ。そして「そんなこと思ってないよ!」とすぐに反論しようとしたが、思わず勢い余って咳き込んでしまう。


「あははッ、綾音ってほんとわかりやすいよね」


「……」

 

 そんなことを言って肩を揺らしていた芽美は、「ほら落ち着きなよ」と今度は咳き込む私の背中をさすってくれる。やっと呼吸も落ち着いてきたので友人の勘違いを正そうとしたら、先に芽美の方が口を開いた。


「でもさ、これから何が起こるかわからないよ? なんたってあの結鈴神社で縁結びをしてきたんだから、これがきっかけでもしかしたら篠崎先輩と……」

 

 そこまで言って言葉を止めた芽美は、後はご想像にお任せしますといわんばかりにニヤリと笑う。けれど私はと言えば、『縁結び』という言葉を聞いてしまい、また頭の中にあの映像が浮かんでしまう。


 ……ダメだ! もうこれ以上この恐怖を一人で抱えることなんてできないッ!


「あのさ、芽美……」

 

 おずおずとした口調で口を開いた私に、「ん?」と彼女の長い睫毛がパチクリと上下する。そんな彼女に向かって、今度こそ言うぞと深く息を吸った時、まったく別のところから芽美を呼ぶ声が聞こえてきた。


「おーい芽美! 悪いけど、日本史の教科書貸してくれよ」


 突然聞こえてきた声に、私も芽美も教室前方の扉を見る。すると、隣のクラスの拓真くんがひょっこり顔を出していた。


「もうッ、なんで私に頼ってくるかなー」

 

 そう言って芽美は唇を尖らせるも、その表情は間違いなく嬉しそうだ。


「お前にこの前ジュースご馳走してやっただろ。だからその見返り」


「あーはいはい、わかりましたわかりました」


 芽美はわざとらしく面倒くさそうな口調で返事をすると再び私の方を振り返り、その口元をそっと緩めた。そして、「縁結びのおかげだ!」と目をキラキラとさせて喜ぶ。


「ごめん綾音、またあとで聞くね」


「あ……う、うん」 

 

 そう言って友情よりも愛情を選んだ彼女は、すぐに机の中から教科書を取り出すと、スキップでもするんじゃないかと思うぐらいの軽快な足取りで拓真くんのところへと向かっていく。

 私はその様子を、まるで石像になってしまったかのように無表情で見つめていた。


 ……こんな状況で、やっぱ言えるわけないか。

 

 縁結びの効果なのか、朝一から教室の前で楽しそうに愛を育む友人。かたや縁が結ばれないどころか、なぜか幽霊に取り憑かれてしまった自分。認めたくはないけれど……神さまはやっぱり不公平だ。


「はぁ……」

 

 きゃっきゃと好きな人とじゃれ合っている芽美を見ているのも辛くなった私は、何もかもを断ち切るように再び机に顔を伏せた。そして寝不足でうまく働かない頭を少しでも休ませようとぎゅっと目を閉じる。

 けれどそんな私の些細な願いも叶わないようで、真っ暗になった世界の中ではチャイムの音がうるさく鳴り響いていた。

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