第2話『お静』

新政府しんせいふ朝鮮ちょうせん使節しせつ派遣はけんしたが、朝鮮の宮廷きゅうていでは日本政府にほんせいふ特使とくし

悪しあしざまあつかい、これが数度すうどかえされた結果けっか政界せいかい二分にぶんしての

政争せいそう発展はってんした。所謂いわゆる征韓論争せいかんろんそう』である。


この政治闘争せいじとうそうやぶれ、多くの者が新政府から離脱りだつしたが、

その結果各地に不平士族ふへいしぞくによる反乱が多発した。

博多の街も例にれず幕末の頃のようなキナ臭い気配がただよい始めた。


「おい弥平、アンタも元武士もとぶしじゃろが。俺たちと一緒にやらんか」

小倉藩時代こくらはんじだいの仲間から声をかけられたが、弥平は

「こんなカタワになったけんな。役にも立ちはせんよ」と断った。


最早もはや俺には政府への不満だの何だのと言えるほどの気力はない・・・。

不満を言えるような奴らだけで騒げばいいんだ。

そう思いながら、弥平は中洲なかす女郎屋じょろうやまで炭俵すみだわらを肩にかついで運んだ。


店裏の勝手口から入って俵を下ろし、店の女中から茶を出され

一服つけて休んでいると、一人の舞妓まいこが弥平に近づいてきた。


「アンタ弥平さんじゃろ、覚えとるかね。おしずばい」

「へえ、あねさんご馳走ちそうになっとりますばい」

「覚えとらんかいね。ほら・・・売られてきた日にキャラメルもらった・・」

「さ・・・さあ、何せ売られて泣いた娘さんはごまんとおりましたけん」


そう言って弥平は頭をいてかしこまった。

弥平は娘たちの顔など覚えてはいなかった。

いや、そもそも娘たちの顔をちゃんと見れるような

まともな男であるはずもなかったのである。


「そうねえ。でもあたしは忘れた事はなかったですけん。

あん時優しくしてもらったおかげで、博多の街も怖いばかりじゃなかって

思って今日までやってこれましたもん」

「そいつは参りましたばい。お節介も大概たいがいにしようって思っておりましたが

俺みてえな破落戸ごろつきのしゃしゃりででもそげん思ってもろうたなら

良うございましたばい」


始めてまじまじとお静の顔を見た弥平の心は少しざわついた。

嗚呼ああ・・・逃げた女房に似ている。そう思うと恥ずかしくなってしまい、

「そいじゃ俺はまた仕事ありますんで。ご馳走さんです」とその場を後にした。

あれから10数年にもなるというのに、逃げた女房に似ているだのと

なんてみじめったらしい男なのだと弥平は心底自分を恥じた。


しかし、その日から弥平の心の中にお静が住み着いてしまったようだ。

「お前みたいな破落戸が舞妓相手に提灯ちょうちん釣鐘つりがねめとけ」

そう自分に言い聞かせようとすればするほどにおもいはつのった。

恋は思案しあん帆掛ほかぶねと人は言う。考えないようにしようとすればするだけ

脳裏に浮かぶのはお静の笑った顔だった。


何やら大声で叫びたい気持ちをはぐらかすように、

『かんかんのう きうれんす きゅうはきゅうれんす さんしょならえ』

弥平はいつものように鼻歌を歌って誤魔化ごまかした。


ある時店の連中から、お静には胸に想う若い書生がいる事を聞いた。

何でもお偉方から店に連れてきてもらった孫四郎まごしろうという書生が

お座敷でお静を一目見てからというもの、お静のマブになったそうだ。

その日から弥平はなるべくお静の店に近づかなくなってしまった。

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