第45話 倉本の母2

 翌日昼前の十一時、篠原さんが元妻の倉本三千代を伴いホテルへやって来た。

 倉本三千代は薄い茶色のスカートに鮮やかなオレンジ色のニットという出で立ちで、以前に比べて随分若々しい印象をまとっていた。

 ラウンジに姿を現したときから、彼女は以前と何かが違っている。

 そして直ぐ後に、その何かが明らかになった。倉本三千代は、唐突に挨拶の言葉を発したのだ。

「こんにちは。あなたたちが東京へ帰る前にお会いできてよかったわ」

 若々しい声の、落ち着いて品のある話し方だった。その言葉としとやかな笑みは、まるで以前と別人のようだ。

 篠原さんも彼女の横で、何事もなかったようにお久しぶりですと言った。

 僕は狐につままれた感覚を引きずったまま、ようやく返事を返した。

「こんにちは。倉本さん、以前よりずっと元気そうですね」

 篠原さんに促され、僕たちは大きなソファーに座り向かい合った。他のメンバーは隣のソファーへと落ち着く。

「私が普通に話すから、驚いているんでしょう?」と倉本三千代が言った。

 一ヶ月間も一緒にいて、彼女の笑顔を見るのも初めてなのだ。あまりの変わりように、正直僕らは戸惑っていた。

「驚いたというか、何が起こっているのか理解できないでいます」

 僕の率直な返事に、倉本三千代は軽い声を上げて笑った。それで僕はまたぎょっとして、彼女の顔をまじまじと見てしまう。

「風見先生が、私の経過をある程度あなたに話しているとおっしゃっていましたけど、どうやら上手く伝わっていないようね」

「確かに先生は、あなたに何らかの変化が見えるとおっしゃっていました。ただ、具体的なことは何も聞いていません」

 倉本三千代のあのうつろだった目はすっかり生気を取り戻し、話を聞くときもするときも、視線はしっかり自分に固定されて決して逸れない。しかも何もかもを見透かすような強い眼光に、僕はつい怯んでしまう。今まで意識していなかったけれど、やはりこの女性は倉本の母親だ。

 倉本三千代は、最初から説明した方がよさそうねと言い、コーヒーに口をつけてから再び語った。 

「あなたたちが病院へ来るまで、私は本当に抜け殻のような人間だったのよ。気力がなくて思考もまとまらず、自分を全くコントロールできない人間。余計なことを考えると辛いから、心が現実から逃避していたのね。もちろんそうした方が楽なの。

 そんなところへあなたたちがやって来た。いつも傍にいるあなたを見ていたらね、和夫が生き返ったのかしらって不思議に思ったの。そんなわけがないことは分かっていたわよ。それを思うとまた悲しくなって、でも生き返ったと考えると不思議に安心できたわ。そんなことを繰り返しながら、私は色々なことを考えられるようになったの。

 でも抜け殻を何年もやっていたんだから、簡単には変われない。それにあなたが誰で信用できる人かも分からない。だから自分を取り戻すようになってからも抜け殻のふりをしていた。多分あなたは気付いていたんでしょう?」

「ある程度はそんな気もしたのですが、確信は持てませんでした」

 倉本三千代は頷いて続けた。

「あなたたちが病院へ泊まり込んだとき、一体どうしたのかしらって思っていたの。でも誰にも訊くことはできないし、しばらく様子を見ることにした。

 でも三日間姿を見なくなったとき、私は我慢できなくなって風見先生に全て打ち明けて相談したのね。先生は笑って、やはりそんなことでしたかって言ったわ。そして知っていることを教えてくれた。それで龍二があなたたちにしたことやあなたの友達を誘拐したことを知って、また自分の考えがまとまらなくなったの。

 でも不思議ね、今動かないと大変なことになりそうなのは分かった。だから私は龍二に会うために、こっそり病院を抜け出したの」

 なるほど、そこまでの話はよく分かった。

「どうして倉本龍二に会おうと思ったんですか?」

 彼女は一度天井を仰いで、それから再び僕に視線を戻した。

「だって私はあの子の母親なのよ。あのまま放っておいたら、あの子まで地獄に落ちちゃうじゃない」

 彼女はここで何かに気付いたようにはっとして言った。

「あっ、ごめんなさい。あなたたちのことも心配だったけれど、その前に私は龍二のことが心配になったの。母親のエゴであることは分かってる。でもこればかりは仕方がないの」

 僕と佐伯が同時に頷いた。

「龍二は私のアパートにいるんじゃないかと思った。あの子、いつでも私が帰れるように、前に住んでいた部屋をずっと維持していたのよ。以前信之さんがそう言ったのを覚えていたの。だから公衆電話から部屋に電話してみたら、やっぱりあの子が出た。

 龍二は私から電話があったことを凄く驚いていたわ。私は監禁している人を解放して、警察に自首しなさいって言ったの。それができないなら私がアパートへ行くと言うと、あの子は慌てて危ないから絶対に来るなと言った。でもね、危ないって言われたら母親はますます心配になるものでしょう?

 そのときに龍二と、遠藤さんや佐伯さんの話しをしたの。あなたが刺し殺そうとした人たちに私は救われたのよって。病院でのことよ。

 あの子はね、そんなのは見せかけだ、騙されるなって言った。けれどね、見せかけかどうかなんて、ずっと見てれば分かるじゃない。あの子は口では最後まで認めなかったけれど、頭のいい子だからきっと理解していると思う。実際私はあの子を説教したんだから。少し前までは考えられないことのはずなの。

 とにかく私はアパートへ行くと言って電話を切った。そして実際に行ってみたら龍二はもういなくて、私は警察に保護された。

 結局龍二は逮捕されたけれど、正直ほっとしたの。だってもう罪を重ねることはないし、誰かに殺されることもないでしょう? 落ち着いたら彼に会いに行こうと思ってる。

 そっちが片付いたら、今度はあなたのことが気になったの。私はね、龍二が東京であなたたちにしたことを、どうしても謝りたかったの。本当にごめんなさい」

 そう言った倉本三千代は、篠原信之と一緒に立ち上がって深々と頭を下げた。

 僕も慌てて立ち上がった。まさかここで謝られるとは予想すらしていなかった。それにこちらには、もっと深く詫びなければならないことがある。

「倉本さん、僕と彼女はこうして元気にしているので、そのことはもう大丈夫です。それよりも、和夫君のことではこちらも言わなければならないことがあります」

 僕が目配せすると、隣のソファーに並んでいたメンバーがもそもそと立ち上がり倉本三千代の方を向く。しかし情けないことに、彼らはこんな場面で何をどう話せばいいのか分からないようだ。態度も俯いてばかりでしっかり彼女の目を見ない。いや、見ることができないのだろう。

 そこでようやく野村が口を開いた。

「篠原和夫君の件は、本当に申し訳ありませんでした。謝って済むことではないことくらい、よく理解しています。だから許してもらえるとは思っていません。ただ僕たちは、せめてお母さんに元気になって欲しかったんです。これからも自分たちにできることがあれば、何でもしようって話し合いました」

 倉本三千代はそんな彼らを静かに見て言った。

「そうね、簡単に許せることじゃないわ。あの子はもう生き返らないのだから。でもね、あなたたちを恨んでもやっぱりあの子は生き返らない。だからもう、余計なことを考えるのは止めにしたの。その代わり私からあなたたちに、一つだけお願いがある」

 そう言う倉本三千代の顔は険しいままで、野村たちは息を飲んで彼女の言葉を待った。

「あなたたちが今どんな生活をしているのか聞いたわ。それを改めて欲しいの。あなたたちには死んだ和夫の分も懸命に生きて欲しいのよ」

 その場が静まり返った。

「もし龍二やその仲間がまたあなたたちに何かをするようなら、私が止めさせる。だから精一杯生きなさい。それが和夫と私たちへの償いだと思って欲しい。あなたたちにはそれを言いたかったの」

 野村たちは頭を垂れて、ありがとうございますと言った。目を充血させて、今にも涙が零れ落ちそうだ。

 倉本三千代は佐伯に向いて言った。

「佐伯さん、あなたが優しい人だったことには本当に救われたのよ。和夫が命をかけて好きになった人が本当に素敵な人でよかった。あなたが最後まで和夫をかばってくれたことは聞いているわ。本当にありがとう。これからはあなたにも幸せになって欲しい」

 その言葉に佐伯は涙を流して彼女に頭を下げる。

 そこで篠原さんが言った。

「私と三千代ももう一度一緒にやり直すことにしました。二人で龍二君の帰る場所を作り直します。色々ありましたが、遠藤さんには感謝しています。ありがとうございました」

 彼も実の息子を失い、失意の底へ落とされた人間なのだ。その傷は一生消えることはないだろうけれど、乗り越えるべきことは乗り越えるしかない。

 僕は、自分が盛岡に帰ったときには顔を出させて下さいとお願いした。自分が死んだ息子の代わりになるかは分からないけれど、そうすることが彼らの救いになるならそうしたかったのだ。

 彼らとの接点を持ち続けることは、倉本龍二との接点も維持されることを意味する。

 しかし僕は、できれば彼とも直接話をしたかった。

 分かり合えることなど最初から期待していない。しかし彼との間に決着をつけなければ、問題は終結しないのだ。

 おそらく倉本龍二との話し合いの土台は、篠原さんと倉本三千代の二人が築いてくれるような気がした。二人が幸せを取り戻すことができれば、倉本龍二は一先ず溜飲を下げるのではないだろうか。死んだ人間が生き返らないことは彼も理解しているはずなのだ。

 虫の良い期待であることは理解している。しかし今となっては、それが最善の道ではないだろうか。

 この問題に本当の終結など、あり得ないのかもしれない。しかしそうなら、こちら側にの人間はそれを受け止め最善を尽くすしかない。

 確実に言えることは、加害者側がその問題から逃げてはならないということだ。

 その場に集まったメンバーが、そのことをしっかり認識できていることを祈りながら、僕たちはホテルラウンジでの話し合いを終わらせた。

 そして翌日、後ろ髪を引かれる思いで、僕と佐伯は東京へ帰った。



 

 

 

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