第44話 拉致事件2
井上が救出されたことや倉本三千代が保護されたことは誰にも言わず、一先ず全員で繁華街のホテルへと移動した。
以前と違う、入口に回転ドアのついた少し洒落たホテルだ。茶色のタイルに外壁を覆われた十階建てのビルは、内装も落ち着いて老舗の風格を感じさせるものだった。
倉本へ自分たちの行動を秘密にすることがどれ程有効なのか、もはや分からなくなっている。自分たちの行動は筒抜けのようだし、ホテル周辺には堂々とパトカーが止まり、ホテル入口近くに制服警官も立っていたからだ。随分物々しい雰囲気になっている。
おそらく周辺を歩く人たちは、ホテル内で何かのアクシデントでもあったとのではと勘違いしているに違いない。
当然倉本にも、ホテル内に誰かがいることは明白な状況だ。
誰かとは、もちろん警視総監や井上、そして坂田さんや僕たちのことだ。しかし不思議なことに、どうやら倉本三千代は同じホテルにいないようだった。
早速佐伯と一緒に井上の部屋へ行くことにした。こっそり教えて貰ったのは七階の七ニ五号室。
エレベーターを降りて、エンジ色の絨毯敷き廊下を進む。
足音が響くことはなく、部屋のテレビ音声や会話が漏れることもなく、少し落ち着かないくらい静かな廊下だ。
その部屋は、廊下突き当りとエレベーターホールの中間辺りにあった。
静まり返るドアの前で、思わず佐伯と顔を見合わせる。
遠慮気味にノックをすると、僅かな間をおいてロックの外れる音が響いた。
内側に開いたドアの向こう側から顔を出したのは、意外にも警視庁の刑事ヤスさんだった。
ヤスさんは僕たちが部屋を訪れるのを予知していたように、にんまりとした顔を作って言った。
「いやあ、またお会いしましたね。私の部屋ではありませんが、どうぞお入り下さい」
部屋に入ると、井上と松本の二人がソファーに並んでいる。二人もヤスさんと同じで、言葉を出さずにこちらを見て微笑んでいた。
緊迫感のない様子に、久しぶりの再会への感慨も一気に吹き飛んだ。
「井上、思ったより元気そうじゃないか。心配してたよ」
ツインの部屋はベッド以外の余分なスペースが確保された広い部屋だけれど、大人五人が入れば少し窮屈な印象がないわけでもない。
「お陰様でこの通り元気だよ。心配かけて悪かった。流石にやばかった。二人でさるぐつわされて縛られて、ベッドに転がされていたんだ。飯抜きでときどき栄養ゼリーみたいなものだけ食わされて、干上がる寸前だったよ」
「そうなの? それって本物の拉致じゃない」
「そうだよ。また拉致されるなんて夢にも思わなかった」
松本も井上の隣で頷く。
「怖かったわよ。柄の悪い男がたくさん現れたから、犯さるんじゃないかって思った」
「それでどうやって助かったの?」
「倉本たちが突然いなくなったんだよ。そこへ警察が踏み込んで無事に救出。大袈裟な演出の割に結末はシンプルだった」
そう言った井上は笑った。
ヤスさんが補足してくれる。
「坂田さんが居場所を情報提供してくれたんです。あそこは一体どうやって調べるのか、いつも警察より優秀でしてな。ただ、暴力団が警視総監の息子を救出すると
井上が付け加える。
「坂田さんが何かを仕掛けたみたいだ。予定の役者だけだと倉本の計算通りになってしまうから、番狂わせの役者を登場させたらしい。それが功を奏して倉本の計画が狂い、僕と美香が助かったということみたいだ」
分かるような分からないような話だった。倉本ほどの男なら、それしきの狂った計画は立て直しできたのではないかと思われた。
「計画が狂ったのは大貫の件だけじゃなかった。倉本にとって、彼の母親が消えてしまったのも大きな誤算だった。倉本は病院から母親を連れ出そうと考えていたんだ。僕たちと協力し合っている病院を許せなかったみたいだ。その母親が忽然と姿を消した。多分彼は慌てたんだと思う」
「それも坂田さんの策略?」
「いや、そうじゃない。これはみんなにとって、突発的に起こったことだよ」
「それで彼女は今、どこにいるの?」
井上がヤスさんの方を見て、今度はヤスさんが説明を始める。
「彼女は今、元夫の篠原信之と一緒に市内のホテルにいますよ」
それを聞いて、ようやく安堵する。大切な人たちは、とにかく全員無事なのだ。
「倉本三千代さんに何があったんです?」
「それがよく分からんのですよ。話を聞こうとしても彼女はまるで無反応ですから。病院へ連絡を入れると、風見先生でしたかな、彼が元夫の篠原信之が警察署へ行くから、彼女を預けてくれと言うんです。その後は自宅へ返すのも危ないので、二人を市内の別ホテルへ移動させました。なにせこの場所は倉本に筒抜けですからな。後藤恭子がもう自分の男に連絡を入れているはずですよ。篠原さんのいるホテルにも、目立たないように警護を兼ねた人間を付けています。もしそこへ倉本かその関係者が現れたら連絡が入ります。倉本が隠れそうな所は全て手配済みで、神戸からやってきた大貫たちにも尾行を付けています。彼らも倉本を探しているようで、今は盛岡の繁華街をくまなく当たっているみたいですよ。これだけの人間に包囲されると、倉本も迂闊には動けんでしょう」
「そうなると、自分たちはどうすればいいんでしょうか?」
「数日間はみんな一緒にホテルへ缶詰めになってもらわないと困ります。分散されるとそれだけ人手が要りますし見張りも手薄になりますから。なに、今までは相手の出方を伺っていましたが、今度はこちら側から積極的に動きます。全国指名手配がかかっていますし新保のことも張っています。おそらく倉本逮捕は時間の問題でしょう。それと、今の話は後藤恭子に内緒でお願いします」
事態が自分の考えていた方向へ向かっているのかそうではないのか、分からなくなっていた。このまま倉本が逮捕されたら、それでいいのだろうかということだ。
何かが微妙にずれている。倉本が逮捕されたらそれで終わり、ということではなかったはずだ。彼の怨念を晴らさなければ、問題は解決しない。
僕は密かに、倉本が上手に警察や一円連合の包囲網をかいくぐってくれることを願っていた。
その後どうなるかは分からない。不安もある。それでも僕は、倉本が捕まる前に直接彼と話しをしたかった。彼の家族を壊してしまったことに対し、少しでも決着をつけたかったのだ。
しかし倉本は、ホテルの部屋でヤスさんと話した二日後にあっ気なく逮捕された。仙台市の野村婦警のアパートへ潜んでいるところを、宮城県警の刑事に踏み込まれたのだ。
倉本にしては安易な場所へ隠れたものだと思ったけれど、それだけ追い詰められていたということかもしれない。
県警刑事に踏み込まれた際、倉本は全く抵抗しなかったようだ。話を聞く限りでは、刑事がやってくることを予期していた節があるくらい、彼は連行へ従順に従った。
あっけない幕切れだった。同時にしこりを残す終わり方だ。
一緒にいた野村婦警も、犯人隠匿罪の現行犯で逮捕された。
その知らせを受けて、僕たちは貞子さんも含め、ホテルのコーヒーラウンジで短いミーティングを開いた。メンバーに倉本逮捕の件を知らせるためだったけれど、倉本三千代のことも話し合っておきたかったからだ。
「倉本が仙台で逮捕された」
倉本逮捕の知らせで、歓声を上げる人間は誰もいなかった。神妙な顔付きで、みんなが息を飲む。複雑な思いはどうやらみんな同じようだ。
「彼は大人しく捕まったみたいだ。これで当面、みんなの危険はなくなった。だからこのチームを解散するけれど、元々このメンバーの目的は壊れた彼の家族の修復だったんだ。だから僕は、その可能性を探って倉本三千代に接し続けようと思う。このことはみんなに強要するつもりはないけれど、何かあればまた協力をお願いするかもしれない。どうかな?」
みんなが真剣な顔で頷く。
僕は翌日チームを散会させることを宣言して、手短にミーティングを終わらせた。ただ、新保と繋がっていた後藤恭子だけは、その場に残って貰った。
僕と佐伯、そして貞子さんと後藤の四人になると、少し気まずい雰囲気になる。後藤だけは、この事態をどう捉えているのか分からなかった。
僕は意を決して話した。
「実は後藤が新保に連絡を取り続けていたことは分かっていたんだ」
佐伯が短い声を上げて驚く。
後藤は目を見開いて、無言でこちらを見た。流石に言葉は出ないようだ。
「もう過ぎたことだから、そのことでとやかく言うつもりはない。ただこうなった以上、後藤の立場は複雑だと思う。これからどうするかは後藤次第だけれど、何か困ったことがあるなら相談に乗る。言いたいのはそれだけなんだ」
彼女は俯いて無言だった。彼女に何も話すつもりがないなら、それはそれでよかった。
無言の彼女に、それじゃ、またと声を掛けてこちらが立ち上がると、後藤が「ちょっと待って」と切羽詰まった声を出した。
それでその場を去りかけた僕たちは振り返る。僕たちの視線の先に、後藤の悲壮な顔があった。彼女もまた、何かに追い詰められていたのかもしれない。
「今回のことはごめんなさい。みんなを危険な目に遭わせるつもりはなかったの。しばらく部屋を空けるって連絡したら、脅されて仕方なかった。だって今回の件がどうなるかは分からないし、考えてみたら私には戻る場所がないの」
両手で顔を覆った後藤の肩に、佐伯がそっと手を置いた。後藤はその肩を震わせる。
そんな彼女に、貞子さんが言った。
「やり直したいなら、一度東京へ出てみたらどう? できるだけ面倒みるわよ」
顔を覆ったまま頷く後藤を残し、僕らはその場を後にした。
倉本三千代を預かった篠原信之にも連絡を取りたかったけれど、市内のホテルで無事に過ごしているという情報のみで、警察は具体的な宿泊先を教えてくれなかった。
それが僕と佐伯にとっては一番の気掛かりだったけれど、今は倉本三千代に余計な刺激を与えられないという医師の指示が関係しているようだ。もちろん彼らの安全上の機密という理由もあったようだ。
彼女のことをこのままに東京へ帰っていいのかというやるせなさはあったけれど、こればかりは仕方ない。彼女の様子を確認するのは東京へ戻ってからにするしかないとほぼ諦めていたところへ、意表をついて篠原信之の方からホテルの部屋へ連絡が入った。
彼は挨拶もそこそこに言った。
「龍二君が逮捕されたって聞きました」
一瞬龍二とは誰かと思ったけれど、話の流れで倉本のことだと気付く。
「そうみたいです。どう言葉を掛けていいのか分かりませんが、複雑な気持ちです」
「それは仕方ありません。彼は法を破ったのですから」
「それで気になっているんですが、倉本三千代さんの様子はどうでしょうか?」
相手の息を飲む様子が伝わってきた。
「ええ、実はそのことで電話をしました。もう東京へお帰りになると思うのですが、その前に一度お会いできないでしょうか? 三千代も一緒にです」
それは願ってもないことだった。
「こちらの方こそお会いしたいと思っていたので構いませんが、倉本三千代さんは大丈夫なのでしょうか?」
「はい、会いたいというのは、実は三千代なんです」
僕は思わず、え? という短い言葉を出す。
「それで警察に遠藤さんの宿泊先を強引に聞き出して電話をした次第でして……。一応、風見先生の許可も取ってあります」
彼女が会いたいという意思表示をした?
どういうことだろうか。
「そうであれば、尚更お会いしたいです」
こうして僕は東京へ帰る前に、倉本三千代と会うことになった。
先方が自分たちのホテルへ来ると篠原さんは言った。メンバー全員と顔合わせしたいという申し入れだ。
僕は電話のすぐ後に、そのことをメンバー全員に伝えた。
もちろんメンバーに、面会を拒否する者はいなかった。しかし各自一様に、受話器を持ったまま緊張が走っているのを感じた。
彼らにとり倉本三千代と直接会うことは、ある意味倉本の襲撃と同じくらい怖いのだ。しかも今回は、彼女の指定だ。
何を言われ何が起こるのか予想がつかず、みんなが戦々恐々となるのも容易に理解できた。
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