第43話 拉致事件1
初めて病院を訪れてから、一ヶ月経った頃だ。唐突に事態が動いた。
それが倉本三千代の件であればよかったけれど、同じ倉本でも倉本龍二によることだった。
東京にいた井上と松本がさらわれて、倉本から坂田さんに犯行声明が届いたのだ。
坂田さんから貞子さんへ連絡が入り、それが伝言ゲームのように僕へ伝わった。
僕は一瞬焦りながらも、学生の身で二度も暴力団に拉致されるのは、ある意味凄いと思ってしまう。
いや、これは冗談では済まされない。元々は自分が井上を巻き込んだのだ。本来拉致されるならそれは自分であるべきで、井上や松本は全くのとばっちりだ。
倉本は、井上が警視総監の息子だと知っての犯行なのだろうか。そうだとすれば、彼は日本の国家権力と今や日本一の暴力団へ、同時に喧嘩を売ったことになる。やることが半端ではない。
倉本の要求は、関係者全員が盛岡の御所ダムへ集合しろということだった。
貞子さんが険しい顔で、僕に訊いた。
「遠藤君、そのダムはどこにあるの?」
「雫石川の上流です。偶然かもしれませんが、ここからだとそれほど遠くありません。それで日時の指定は?」
そこで貞子さんが困惑する。
「それがね、要求はそれだけで、日時の指定はないらしいの。つまりずっとそこで待っていろってことじゃないかしら。何となく罠っぽいけど。とにかく旦那もこっちに来るらしいわ。関係者というのがまたややこしくて、誰も名指しされていないようよ。私も既に関係者だと思うけど」
そうなら関係者候補の一番は、おそらく自分と佐伯だろう。
しかし、指定の御所ダムで何か事を起こすとは思えない。そのダムは広いようで狭いのだ。挟み撃ちされたら逃げ場もない。
いや、逆にこちらが挟み撃ちされたらどうなのだろう。やはり逃げ場がなくてどうしようもない。
「井上の家には連絡したんでしょうか?」
「ヤスさんという刑事を通して連絡したみたい」
病室へ聞き込みに来たあの刑事だ。警視総監へ連絡が入ったとすれば、地元警察はもう動いているはずだ。
しかし現場に警官がうようよいたら、一円連合は動きにくい気がする。まさか、それが倉本の狙いだろうか。
「それで、どうしたらいいですか?」
貞子さんは口を真一文字に結び、眉間に皺を寄せて小さく唸る。
「ここは、言われた通りにするしかないわね。危険だけれど、明日全員でそのダムに行ってみましょう」
僕は直ぐに、四階にある階風見先生の自宅へ行き、事情を説明した上で明日の付き添いができない事を告げる。
彼もただ唸ることしかできず、何も手助けできずに申し訳ないと言った。
メンバー全員を召集し、緊急会議を開いた。
事態を報告するとその場が一瞬しんとなるけれど、小早川が行きたくないと言い出してから、佐伯を除いたメンバーが口々に危険だと騒ぎ出す。それで僕は、仕方なく説明した。
「友人の命が懸かっているからあくまでもお願いだけれど、僕は一緒に行って欲しいと言うしかないよ、無理強いはしないけど。ただ僕は、明日は何も起こらない気がするんだ。ダムへの呼び出しには、何か狙いがあるような気がする」
「なんだよ、狙いって」
小早川が喧嘩腰で言う。倉本一派に
「うん、例えばどれだけの人間が関わって動いているかを確認するとか、集まったあとに後をつけて全員の居場所を調べるとかね。だから彼らはダムに現れず、山の上からでもこちらの様子を伺うだけじゃないかと思う」
貞子さんが口を挟んだ。
「ここでばらばらに行動するのは、返って危険な気がするのよ。私も遠藤君の予想には賛成。今回の要求にはきっと何かの狙いがある。もう一つ考えられるのは、関係者を一度そこへ集めるということかしら」
小早川が更に訊いた。いつにない真剣さだ。
「集めてどうするんですか?」
「そうねえ、手っ取り早くまとめて全員殺すという可能性がないわけじゃないけど、誰もいなくなったこちら側で、何かをしたいのかもしれない」
その言葉をみんなが考えて、小早川が慌てた。
「それって、奴らがこの病院へ来るかもしれないってことですか?」
貞子さんが頷いて、その場が再び静まり返る。
「とにかく何がどうなるのかさっぱり分からないのよ。何が安全かも含めてね。そんなときはどうすればいいと思う?」
貞子さんがメンバーを見回したけれど、小早川の勢いは途端に失せ誰も何も答えない。
僕はもう一度、自分の考えを整理する。
「貞子さん、そんなときはとにかく決めるしかないですね。全員でダムへ行くか、それともここへ残るか、あるいは彼らの知らない場所へ逃亡するか」
そこで野村が言った。
「だったら逃亡しようよ。それが一番安全だ」
「逃げるとしたらどこへいつまで? 盛岡へは簡単に戻れないよ。一生逃亡する? 逃亡費用はどうする?」
僕の質問に、野村が言葉を詰まらせる。
「これで逃亡はなしだ。残り二つのチョイスはここに残るかダムへ行くか。さあ、どうする? 僕はダムへ行って、彼らがどう動くかを見極めたい。そうじゃないと今の状況は何も変わらないと思う」
もう誰も何も言わなかった。
「よし、決まりだ。明日ダムへ行こう。貞子さん、それでいいですか?」
貞子さんが親指を立てる。こうして僕たちは、全員が倉本の指示に従う事を決めた。
実際の行動は翌日、坂田さんや他の応援者の合流後とする。僕たちの車は影山さんが運転してくれる。
それにしても、やはり倉本という男は頭が切れる。最低限の指示しか出さず、協議は一切しない。そうなると、こちらは言われた通りにするしかない。自分たちに何が待ち受けているのか分からず、しかも時間指定がないためこちらは何かが起きるのをただ待つだけとなる。
どうやって調べたのか分からないが、井上や松本を人質に取られたのは痛かった。
圧倒的に倉本有利の状況で、今のところ付け込む隙がない。
翌早朝、坂田さんが車で盛岡へ到着した。いかついお供が三人一緒で、その人たちは流石に本格的ヤクザという雰囲気を持つ人ばかりだ。
坂田さんたちは病院へ入らず、一先ず僕と貞子さんが門の前で会って話しをした。
彼に昨晩の打ち合わせの結果を報告すると、坂田さんもダムへ行くしかないだろうと言う。
「こちらには、それしか選択肢がないんですよ。こうなったら仕方ないですね。僕も一緒に行こうと思います」
それで坂田さん、貞子さん、海へ一緒に行ったメンバー、運転手の影山さんが、一緒にミニバスへ乗り込んだ。
坂田さんの怖いお供は、別の車でダムへ行く。
メンバーは緊張していた。これから全員拉致されて、酷い拷問を受ける可能性だってあるわけだ。
平然としているのは坂田さんと貞子さん、影山さんだった。貞子さんは病院での仕事の様子を、夫である坂田さんに報告している。
作戦らしい作戦はなし。一先ず行ってみようということで、あとは臨機応変に対応する。場馴れしている人たちは肝が座っていた。
病院からダムまで、何もない県道の一本道を西へと進みほんの二十分程度。
ダム周辺へ到着すると、視界を遮る物が何もない野原の中をダム本体まで道が繋がっている。
ダムの真上は車両通行止めの柵があるせいで、車で侵入することはできない。すぐ近くにダムの内容を紹介しているのかミニ博物館のような子供館があり、その前が広い駐車場になっている。その駐車場にも怪しげな車は皆無で閑散としていた。
とにかく見晴らしが良過ぎて、拍子抜けする場所だ。警察も動いているはずだけれど、どこかに隠れているのだろうか。隠れるとすれば子供館しかない。警察手帳を振りかざし場所を提供してもらうくらいはできそうだけれど、そうだとすれば車はどうしたのだろう。
実際に現場を見てみると、実に不思議な場所だった。一体ここで、何をしようというのか。双方何も動きが取れない。何かをするとなれば、全面対決しかない場所だ。
やはり陽動作戦なのか。
一先ず車を降り、その辺を歩きながら探ってみる。単なる長閑で何もない田舎の風景が、そのまま目の前に広がっているだけだ。
「いやあ、本当に長閑なところだ。静かでいいなあ。遠藤君、まあ、焦らずのんびり待ちましょう」
井上が捕まっているというのに、坂田さんには余り緊張感がない。それでもときどき周囲に視線を走らせている。
朝からやってきて、昼まで全く何も起こらなかった。
貞子さんが、コンビニで買い出したサンドイットと缶コヒーをくれた。野原に座り込みみんなでそれを食べ始めると、ピクニックでもしているような感覚になる。
辺りに黒い影は一切見当たらず、平和な光景しかないからだ。せめて警察がすり寄ってきてもよいものだけれど、それすら影も形もない。
平和で緊張感のない状態は夕方まで続き、僕たちは何も収穫がないまま病院へ戻った。
翌日も同じで何も起こらず、倉本からは何も連絡がない。
そして更に翌日、御所ダムから病院へ帰ったら倉本三千代が消えていた。
風見先生の話では、しばらく中庭で日光浴をしていたが、気付いたらそこから居なくなり病室にも戻っていないとのことだった。
警察にも保護を依頼しているが、タクシー無線を使ってまで探しているもののまだ見つかっていないようだ。
倉本三千代は、倉本が連れ出したのだろうか。もしそうなら、倉本の狙いは母親奪還にあったということになる。
中庭で呆然としているところへ、一人の柄の悪い男が走り寄り坂田さんに耳打ちした。どうやらその男は、坂田さんの身内のようだ。
坂田さんが男に何かを伝えると、彼はさっそうと走り去った。
坂田さんがこちらに寄ってきて、周りに聞こえない小さな声で言った。
「遠藤さん、これから言うことに驚かないで下さい。いいですか、普通にしてて下さい」
「はい? どういうことですか?」
「ある人がこちらの様子をこっそり伺っています。だから悟られないよう、普通にして欲しいんです」
今ひとつ状況を飲み込めないけれど、坂田さんの目は真剣だった。
「賢治君と松本さんを救出できました。二人は今、盛岡のホテルにいます」
「え? どういうことですか?」
思わず大きくなった僕の声に、彼は「静かに」と言う。僕も声を潜めた。
「二人は無事なんですか?」
「はい、二人とも元気です。ただし倉本は取り逃がしました。井上警視総監も盛岡へ到着し、二人と一緒にいます。警察の警護がついているのでそちらは心配要りません。実は我々の仲間に、倉本への内通者がいます」
驚くことばかりだった。
「内通者? 誰ですか? それは」
坂田さんは、ちらりと中庭の中心にある噴水のついた池を見る。そこには話し込む佐伯、渡瀬、後藤、加納の四人の女性がいた。
「内通者は後藤恭子です。だからこちらの動きは倉本たちに筒抜けです。それでここ数日、僕たちはダムへ行ってただぼんやりしていたんです。彼らが襲撃してこないのも分かっていました。こちらも彼らの動きを見張っていたんです」
「彼女の件は、いつから分かっていたんですか?」
「ホテルに宿泊を始めて数日後です。ヤスさんという警視庁の刑事を覚えていますか?」
倉本に刺されたあと、病院へ事情聴取をしにきた刑事だ。
「彼を通して岩手県警の協力をお願いし、ホテル部屋の通話記録を探っていました。後藤恭子は、同棲相手である
「もしかして、倉本三千代さんの行方も分かっているのですか?」
坂田さんは笑顔で頷く。
「ええ、彼女も先程保護されました」
一体何がどうなっているのかさっぱり分からない。
「詳しい話は後でお伝えしますよ。今日は盛岡のホテルへ移動します。倉本三千代が居ませんから、ここへ泊まりこむのはもはや意味がないでしょう」
彼女がいつ戻ってくるのか分からないのだから、一旦ホテルへ移動するのは悪くない。ここは黙って坂田さんに従うことにした。
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