第38話 倉本の伝説

 数日後、居酒屋でバイトが始まる少し前に井上が言った。

「坂田さんが話をしたいそうだ。明日、バイト前に会えないかな」

 もちろん僕は、了解した。今度は材料が揃っている。この事件の調査は充分だ。あとは具体的に、倉本を追い詰める方策を相談すればいい。

 しかしここで、追い詰めるという言葉に自分自身で違和感を覚える。唯一、自分が自信を持てない箇所だ。

 確かに倉本は、犯罪を犯した。自分の知らないところで、おそらく佐伯の同級生やその家庭に偽装事故を仕掛け何らかの罠や脅しをかけたのだろう。いくら弟の仇討ちとはいえ、法治国家では許されないことだ。

 しかし、倉本の心情は理解できる。彼が全てを投げ打ってでも仇をとりたい気持ちだ。篠原本人の無念な気持ちを考えると、尚更のことだ。

 憎むべきは、彼を死なせた連中ではないか。その連中は、いくら進学の機会を奪われたとはいえまだ生きている。引きこもってはいても、自由がある。償いは、それで充分なのか? もし倉本が法治国家の基準で罰せられるなら、篠原を死に追いやった連中も、公平に罰せられるべきではないのか。

 思わず倉本の立場に立って考えていた。

 仮に篠原を死に追いやった連中の殺人罪を立証できたとして、次は少年法という壁がある。しかも、みんなで篠原を囲み暴力を振るったのではない。精神的に追い詰め、うろたえる姿を見て喜び、彼の弱みを突いて死に追いやったのだ。

 物的証拠のないこの事件で、その犯罪性をどこまで追求できるのか。仮にその事実を告発したところで、犯人たちに深い反省や後悔を促すのは難しいかもしれない。上手くいって連中は、裁判官に更生とその後の自立に努力するよう言われ、中途半端に幕が下りる可能性が大きい。

 真実を知っている家族として、そんな結末に耐えられるのだろうか。

 倉本は、全てを読んでいたのではないだろうか。そして弟が精神的にいたぶられ追い詰められたなら、いたぶった張本人たちにも同じ思いを味合わせてやろうということではないのか。

 だから決定的な暴力を振るわず、生殺しという方法を取っている。おそらくそれが、篠原を追い詰めた人間に一番の後悔を促す方法なのだ。それで本人たちが自殺にでも追い込まれるなら、それでいいと思っている。

『不幸になれ。それが嫌なら死ね』

 その言葉は、佐伯にのみ当てた言葉ではない。関わった全ての人間に対するものなのだ。

 この問題は、倉本、引いては篠原和夫の無念を晴らしてやらなければ、解決できないのではないかという気がした。

 それだからこそ、今自分がやろうとしていることには意味がある。きっと意味があるはずだ。

 しかし、実を結ぶかどうかは分からない。倉本が何をどう感じるかは別として、償いはしなければならない。

 そんな不安を抱えながら、翌日僕は、いつものコーヒーショップで坂田さんと井上に会った。

 平日の昼過ぎ、とうに世間は正月気分が抜け切り、店の中には学生に混ざりスーツ姿のサラリーマンも、少数派ながら時間つぶしの面持ちでくつろいでいた。

 坂田さんは、会社を私用で抜け出したため、余り時間がないと言った。彼は普段、サラリーマンとして働いているのだ。僕たち学生のように、時間を自由に使えるわけではない。

 大きな権力を握っている彼は、敢えて自由のない生活を彼自ら選択したと聞いている。坂田さんには、何が大切なことなのかが見えているのだ。そんなところは井上と似ている気もする。だからこそ二人は、基本の部分で波長が合うのだろう。

 僕は最初に、佐伯から聞いた話しを二人へ伝えた。井上は僕が佐伯へ現況を暴露したことにうろたえ、美香には内緒にしてくれるよう、佐伯を口止めしてくれと頼んだ。

 なるほど、井上が佐伯には何も話さず何も訊くなと言った理由に合点がいった。流石の井上も、松本には頭が上がらないようだ。

 坂田さんが感心するように言う。

「不幸になれ。それが嫌だったら死ね、ですか。不気味な名台詞ですね、それ。静かにそんなことを言われたら、本当に怖い。倉本は本物の極道です。こちらも彼のことを調べましたが、奴はやはり凄いんですよ」

 坂田さんが、倉本の伝説を教えてくれる。

 サラリーマンから極道へ転向した彼の初仕事は、敵対組織に一人で夜襲をかけ、あっという間に相手の親玉の首を取ったというものだった。もちろんそんなことをすれば、普通は親の仇討ちで一大抗争に発展するけれど、倉本は相手に一切の反撃を許さなかった。彼は予め敵対組織幹部の犯罪に関する証拠を綿密に用意し、全てを警察へリークしていた。警察の手入れで組幹部が次々逮捕される中、倉本はどさくさに紛れて親玉の首を取り、司令塔を失ったあとに残る小物を、闇討ちで丹念に潰していったらしい。

 そのことで彼は、身を寄せた金井組組長金井の目に止まることになった。

 組が遭遇する揉め事や厄介事には必ず倉本が登場し、警察が相手でさえ全く怯まない。倉本は、弁護士を使いこなして警察に対抗し、あるいは法律で戦えない場合は、警察幹部や現場刑事の家族のことで脅しをかけて手を引かせるという手段を取った。これで仙台の警察は、できるだけ倉本に関わらないようになったようだ。

 倉本の存在を決定的なものにした事件があった。

 関西系の一大暴力団、佐川組が仙台進出を企てたときだ。佐川組の大貫という組幹部が、金井組の仙台での影響力に目を付け金井組長に近付いた。金井を上手く丸め込み、仙台進出の足掛かりにしようとしたのだ。

 佐川組には、金井組を傘下に収め手足のように使おうという魂胆があった。大貫は金井を貶める罠を、周到に張り巡らせた。大掛かりな南アフリカからのプラチナ密輸で、金井をそそのかしたのだ。

 上手くいけば、莫大な利益を得ることができる。大貫は金井に船の用意をさせ、手始めに正規のワイン輸入を始めさせた。船や船員は、全てレンタルだ。そして正規輸入品のワインにプラチナの箱を混ぜ、仙台港をベースに密輸をスタートさせた。

 貴金属の輸入には、ある数量を超えると消費税を支払う必要がある。しかし販売する際に消費税を受け取るため、正規輸入ではこの消費税分が往って来いでプラスマイナスゼロになるのが基本だ。

 しかし密輸の場合、消費税を支払う必要がないため、その分が丸々浮く。扱う量が大きくなれば、消費税といえども金額は何千万となる。それに加え、市場価格より低額で違法な横流しを受ければ、その分も利益になる。つまり南アフリカ側でも不正となる密輸出だ。

 莫大な金が動くため、南アフリカ側への支払いは佐川組が担当し、物流は金井組、販売は双方の組が担当した。利益は佐川組六五%、金井組三五%の配分とした。南アフリカのルートは佐川組の信用に基づいて成り立っていたのだから、それは当然だった。

 この密輸ビジネスは、順調に伸びた。ペーパーカンパニーを通し、得た利益で船と船員を買い取った。そして船の中に隠し倉庫を作り、取り扱い料を増やした。

 一年ほど取引した後、大貫から唐突に在庫処分の通達があった。手元に三百キロのプラチナがあるはずだから、当面は新規密輸を控え、先ずは在庫をさばくということだった。

 金井は何を言われているのか皆目見当がつかず、秘密の実帳簿を点検した。それによると、在庫はほとんどないはずだった。勿論倉庫の現物も確認し、在庫がないことを確かめた。

 しかし大貫は、南アフリカシンジケートとの取引帳簿を示し、在庫があるはずだと言い張る。三百キロと言えば金額にして十億ほどになるから、これは揉めないわけがなかった。

 金井と倉本が、この言いがかりを大貫の罠であることに気付いたときに、金井はもう、抜き差しならないところまで追い詰められていた。

 大貫の所属する佐川組の背後には、神戸に拠点を置く極西連合がついている。金井組単体が喧嘩を挑んでも、到底勝てる相手ではない。佐川組の狙いは、仙台市街地のシマと仙台港の利権であることは明白だった。

 このことで金井は頭を抱えてしまったが、倉本はこの大問題を解決するため、単身で佐川組の本拠地神戸へ一人で乗り込んだ。そこで倉本は、一週間で十五億を稼いでやるから、今後金井組には一切手を出すなと大貫に約束させたのだ。その際倉本は、もし十五億に一円でも届かなければ、仙台を煮るなり焼くなり好きにしろという条件で、この約束を取り付けた。しかも口約束は駄目だと突っぱね、大貫から署名入りの覚書を取った。大貫にしてみれば一週間で何ができると高を括ったせいで、条件を含めて書状に全てをしたため、署名をしたのだ。

 それから倉本はふらりと神戸の街に消え、一週間後、十五億の入った証券会社の口座証書を大貫へ差し出した。

 元大手証券会社にいた倉本は、かつて業界で有名な腕利きディーラーだったのだ。

 大貫から約束を取り付けた彼は、元手の五千万円が入った口座を抱え、神戸のホテルの一室へパソコンと共にこもった。腕利きディーラー仲間も三人集めていた。

 倉本は全て事前に作戦を立て、準備を整えて神戸へ行ったのだ。そして四人で目標二十億を目指し、パソコン相手に株のデイトレードをスタートさせた。

 伝説の倉本と一緒に大勝負ができると喜んだ仲間は、倉本から刻々と出る指示に従い、株の売買に集中した。ニューヨークやロンドン市場でも売買を行い、時間を最大限有効に使った。

 倉本の作戦は、元手の五千万からスタートし、それを一億二億、四億と、毎日倍に増やすというものだった。

 これは口で言うほど簡単ではない。株には一日の株価変動に上下限があるからだ。前日の終値に応じて制限値が決まっているが、最高振れ幅は株価のおよそ三割だ。簡単に言えば、一万円で買った株がいくら値上がりしても、一日の最高は一万三千円までとなる。これには特別措置があり、出来高なしでストップ安、あるいはストップ高が三日間続くと制限値が倍になる。しかしそれでも、上手くいって一・六倍だ。

 では元手を毎日倍々にするにはどうするか。基本は複数の株で一・ニ倍に増やすことを一日で四回繰り返せばいい。あるいは一・一倍の儲けを八回繰り返せばいいのだ。

 更に時差のあるニューヨークやロンドンの市場でも売買する。これであれば、朝の九時から、昼休み一時間を挟んで午後三時までしか取引できない東証の時間不足をカバーできる。どの時間帯であっても、世界では何処かの市場が動いているのだ。

 前日までの儲けを、翌日元手含めて全てを売買へ投入し、常に儲けを出すのは過酷な作業だ。一度失敗すれば、全てが泡と化す。

 しかしその結果、倉本たちは四日間で十億までたどり着いた。充分な結果ではあったけれど、稼働日が残すところ一日のみで、目標には十億足りない。もちろん大貫へ約束した十五億にも足りない。

 しかし最終日に倉本は、稼いだ十億全てを香港市場のある株に全額つぎ込んだ。香港証券取引所には、東証のような上下限の制限はない。

 購入した株は十億もの成り行き買いで一時値段を下げたが、倉本があるところへ電話を一つ入れてから、下降を続けた株価が反転し出した。

 カーブが下降から上昇へ反転したのは、前場が終わる香港時間十一時半少し前。そして後場がスタートしてからも株価は順調に上がり、二時にようやく買値まで値を戻した。

 残りの時間で、それが倍になるとは誰もが思えなかった。既に負け勝負という雰囲気が、ホテルの一室を包み込む。

 しかし倉本だけは、モニターをじっと見つめて動かなった。二時半になり、株価が一・五倍まで上がった。ようやく最低目標を達成したのだ。それ自体が奇跡的だった。仲間はもう手を打つべきだと提案したが、倉本はみんなの手間賃がまだだと言い、場の閉じる四時まで粘ると主張した。

 そしてじりじりと時間が迫った。株価は緩やかに上昇を続けたが、四時にあと十分というところで、上昇カーブの勾配が急激に上がり、四時五分前には買値の二倍になった。株価はまだ上昇を続けていた。つまり買い手がいる。そこで倉本は、一斉に持ち株を売り抜けた。

 結果は元手五千万が、最後は二十億きっかりになった。そこから五億を抜き取り、手伝った一人のディーラーの口座へ、元手の五千万を抜いた四億五千万を移す。儲けた分は、三人で山分けしてくれと倉本は言った。

 手伝ったディーラー仲間は勝負が終わると、全員が茫然自失となった。勝ち目の極めて薄い賭けで、倉本が奇跡的な勝利を収めたからだ。下手をしたらその日一日で、四日間の努力が全て吹っ飛ぶかもしれなかったのだから、当然だった。

 倉本が午前中にかけた電話は、仕入れていた情報を世界の投資家へリークするための指示だった。買った株は情報通信筋で、リークした情報は本物だった。よってその株は、倉本が売り抜けてからも上がり続け、最終的には高値で安定した。それだけ値動きの大きな有力株であれば、本物の投資家なら情報の信憑性を確認して飛び付くという確信が倉本にはあった。最初からそれをしなかった理由は、その会社のある技術に関する発表を待つ必要があったからだ。

 発表が一日でも遅れてしまえば、倉本の計画は全て水の泡となったはずだ。そうなったとき、倉本は討ち死に覚悟で大貫の首を取りにいくつもりだったと言われている。

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