第37話 人間不信

 井上に話して少しは楽になるはずの自分の神経は、相変わらず傷んでいた。加藤の話が、それだけ堪えたからだ。

 人はどうして、それほど残酷になれるのだろう。酒を飲ませ潮流のある海で遠泳させることが、どれほど危険なことか分からなかったとでも言うのか。有数の進学校に入学した頭脳を持ちながら、想像力は幼児並みなのか。

 死ぬというのは、決して取り返しのきかない、文字通り致命的なことだ。それが分からなかったなど、言い訳にもならない。

 しかも彼らは、面白半分でそれをした。中途半端な軽い気持ちで、他人の人生を終わらせた。篠原を死に追いやった連中は、決して許されるべきではない。

 それほど長くない自分の人生の中で、当たり前に信じていた何かが音を立てて崩れるような気がした。

 ふと、佐伯の人間不信に思い当たる。かつての彼女が、周囲の人間を信じられなかったことだ。これまでの手紙に綴られていた彼女の人間不信は、振り返れば少し普通ではない気がしてくる。

 まさか彼女は、篠原の事故の背後にある事実を、全て知っていたのだろうか。もしそうなら、彼女の周囲に対する不信感にも納得がいく。

 井上は、佐伯にはまだ何も言わず何も訊くなと言った。確かに篠原の事故死は、彼女にとっても心の痛む問題だろう。ここで敢えて蒸し返し、彼女の傷口に塩を塗る真似はしたくない。しかし、このままでは倉本とまともに対峙もできない。

 これまでやこれからのことが、全て根底からくつがえされた思いに囚われた。こちら側にあった完全な正義が、揺らぎ始めている。

 何かに裏切られた気がして、自分の立ち位置がぐらつき始めた。


 一週間、何事もなく過ぎた。井上は倉本の件で何も話そうとしない。坂田さんは、藤波や加藤から聞き出した情報の裏付けを取っているに違いなかった。そして井上は、坂田さんと何かを話しているはずだ。

 それでも井上は、沈黙を守っている。それが自分を不安にさせているにも関わらず、自分もやぶを突くことができないでいた。

 それはまさに、藪蛇だった。

 聞きたくないこと、すなわちこれはもう倉本を追い詰める根拠が薄いということを言われたくないが故のだんまりだった。それは摩擦や厄介事からの逃避だった。そんな自分に嫌気がさし始め、僕の気持ちがますます淀む。

 淀んでしまえばろくなことはない。水と同じで腐り始める。腐り過ぎれば、表面から腐臭を伴うガスまで発生する。

 しかし絶えず動かしていれば、不思議なことに水は腐らない。タンカーの飲み水と同じで、とにかくいつでも動いてさえいればいいのだ。

 それでも僕は、動けなかった。これではいけないと分かっていてさえ、僕の気持ちはますます淀んだ。

 そんなときに、佐伯自身がきっかけを作ってくれた。彼女は何かに気付き始めていたのだ。バイト出勤前のコーヒーショップで、彼女は唐突にそれを口にした。

「遠藤君、最近少しおかしくない? 暗いというかよそよそしいというか、そんな感じ」

 僕は波打つ心臓を意識しながら、平静を装った。

「え? いや、そんなことはないと思うけど、どうして?」

「なんとなくよ。ときどき沈んだ顔で何かを考え込んでいるし、そうなると上の空になる。ねえ、わたし、何か気に障ることをしている? もしそうだったら教えて欲しいの」

 そう言った彼女は、僕のことをじっと見つめた。

 僕はすぐに何もないと答えるべきだったのに、つい黙り込んでしまった。話を聞くいい機会かもしれないと思いながら、つい迷ってしまったのだ。

「遠藤君は、やっぱり正直ね。そんな様子を見せられたら、誰だって分かるわよ。ねえ、何を気にしているの? よかったら教えて?」

 今度はこちらが佐伯の顔色を伺うことになった。

 ここで動かないと、何かが腐ってしまうかもしれない。彼女には薄々勘付かれているようだから、このまましらを切れば佐伯に不安を与えてしまう。もう潮時だと思った。

「実は最近、倉本のことを考えているんだ」

 佐伯は意表を突かれた形で、小さく「え?」と声を出した。平和な正月を過ごし、倉本が彼女の意識から、随分遠ざかっていたかのような反応だ。いや、僕の意識から倉本の件が消えてしまったと、彼女が思い込んでいたのかもしれない。

「どうして今更……」佐伯は途端に暗い顔になった。「あんな目に遭ったんだから、気にする気持ちは分かるわよ。でも、気にしても仕方ないことってあると思うの。それに彼は、もう私たちのことを諦めたかもしれないし……」

 彼女は不安な顔で、自信なさげに言った。

「いや、奴は諦めてなんかいないよ。必ずまた、何かを仕掛けてくる。篠原和夫の怨みがある限り」

 篠原の名前を出した途端、佐伯の顔が凍り付いた。彼女の周囲にある空気の密度が変わったように、血の気が引いた顔の中で目が見開かれ、怯えに揺れる瞳が僕を捉えた。

「どうしてそれを……」

 彼女はそう言うだけで、精一杯だったようだ。

「ごめん、突然こんなことを言って。佐伯は一年のとき、彼と同級だったよね。倉本のことを色々調べて、篠原に行き着いたんだ。佐伯は篠原が倉本の弟だって、知っていたよね?」

 彼女は息苦しそうに、弱々しく「ええ」と言った。

 僕の予想は当たっていた。佐伯はきっと、全てを知っていたのだ。

「だったら僕たちが倉本に襲われたのは、篠原の死と関係あるということも知っていたの?」

「隠していてごめんなさい。でも言えなかった」佐伯はそう言って目を伏せる。うつむいた顔が苦痛で歪んでいた。

「簡単に言えることじゃないのは分かる。だから責めてるわけじゃない。ただ、何が起こったのか知りたいんだ。そうじゃないと、二人はまた倉本に襲われる」

 彼女は体をすぼめるようにして、「本当にごめんなさい」と声を振り絞った。かしこまって頭を下げて、それから目を合わせようとしない。頭を下げる動作も、体の芯を抜かれたみたいに若干ふらついて頼りなかった。

 そんなふうに萎縮されると、僕はますます傷付いてしまう。彼女の感じる罪悪感は、彼女の自分に対する裏切り度合いと等価な気がしたのだ。謝られるほど、僕は傷付く。

「顔を上げてくれないか。これじゃ、きちんと話ができない」

 自分の言い方に、とげはなかったと思う。しかし、責めるような言葉になってしまったかもしれない。

「心配しなくていいよ。佐伯は悪くない。それは分かっている。何を聞いても驚かない。どうすればいいのかを一緒に考える」

 佐伯はゆっくり顔を上げた。彼女の瞳から、静かに涙がこぼれ落ち、一筋の道を描くように頬を伝う。佐伯はそれを、直ぐに手の甲で拭った。

「ごめんなさい。泣くつもりはなかったの。ただ篠原君のことは思い出すと辛くて、自分が壊れそうになって、だから私、自分の中でそれを封印していたの」

「封印したい気持ちは分かる。けれど、人一人が亡くなっているんだ。簡単な話じゃない」

 彼女は唇を噛み締めて、赤い目を見せながら素早く二度頷いた。

「みんなで海に行って、じゃんけんの罰ゲームで、ビールを飲ませた篠原を泳がせたことは聞いた。それで彼が帰らぬ人になったんだね」

 佐伯は眉根を少し寄せた顔で、ただ頷いた。

「事前に打ち合わせをして、最初から篠原が負けるように計画されていた」

 佐伯は再び頷く。加藤の言ったことは、やはり正しかったようだ。

「最初から篠原を嵌める計画や、泳ぐ前にお酒を飲ませたことを、佐伯は何も知らなかったんだよね」

 彼女はそれにも頷く。その点も加藤に聞いた通りだ。それだけが、この悲惨な事件の中で唯一の救いだった。

「倉本が篠原の死んだ背景を知って、海へ行ったメンバーに復讐を始めた。それでみんなが進学を断念したんだと思う。分からないのは、佐伯は何も知らなかったのに、なぜ倉本に狙われたかなんだ。この件で知っていることがあったら、教えて欲しい」

 昼過ぎのコーヒーチェーン店、周囲のほとんどがカップル客だ。静かにジャズが流れるゆるやかな空間で、お茶を飲みながらみんなが楽しそうに歓談している。その中で自分たちが、随分世間からずれているような気がした。佐伯と交わしている話題は、人の死が関わる話しや、それにまつわる罠や復讐など、血なまぐさい内容だからだ。周囲に聞こえたとしても、映画かドラマの話しだと誤解されてもおかしくないほど、現実離れした話題だ。

 佐伯と関わるようになってから、彼女の悩みや現状に他人を寄せ付けない空気があったことは確かだし、そこへ足を踏み入れることを自分が躊躇したのも事実だ。線をまたいではいけないと、自分の第六感がそう告げていた。

 しかし僕は、それを踏み越えた。踏み越えてしまったなどと、受動的な言い方をするつもりはない。僕は自発的に、彼女を救いたい一心でその線を踏み越えたのだ。

『人は原点を忘れたら、自分が今どこに立っていて、どこに向かっているのか簡単に分からなくなる』

 井上はそう言った。そして僕は、目の前にいる佐伯をどうにか救いたいと思っている。それが自分の原点だ。その気持ちがなければ、踏み込んで事情を聞き出すことなどできない。

 かつて井上のしぶとさを、彼の才能かと思ったことがある。しかし何のことはない。強い気持ちがあれば、人は井上のように随分しぶとく、そして強くなれる。

 あとは自分の気持ちが、独りよがりで空回りしないことを祈るばかりだった。

 佐伯は思いつめた表情で、静かに語り始めた。

「あれは一年の夏休みだった。突然みんなで海に行くことになったの。せっかく誘われたから、私も行くことにした。駅で待ち合わせをしていたら、そこに篠原君がやってきて、少し意外だった。だって、彼は自分たちのグループに混ざって、そんなことをする感じじゃなかったから」

「つまり、仲間外れになっているはずの彼がその場に現れたのが、意外だったってことだよね?」

 真剣なまなざしを自分に向けて、彼女は再び頷く。

「簡単に言えばそう。でも私は彼を除け者にしていたわけじゃないの。だから彼とは、電車の中や海で普通に話しをした。だって他のみんなは、やっぱり彼を除け者にしていたから。だからできるだけ、私が彼の相手をしたの。でも、みんなの仕打ちは、それだけじゃなかった……」

 そこで佐伯は、一度話しを区切った。区切ったというより、その先の話を躊躇うように、彼女の語りが途切れたという感じだった。

「罰ゲームの件だよね。最初からみんなで打ち合わせをして、彼を嵌めようとしたこと。そして佐伯は何も知らなかった」

 彼女は息を飲み、ゆっくり首を縦に振る。

「そのとき私は、確かに何も知らなかった。そんなことが相談されていたことを知ったのは、随分あとのことなの。しかもそれを教えてくれたのは倉本よ」

「え? つまり盛岡時代、佐伯は既に倉本を知っていた?」

「そう、向こうから接触してきた。そのときは、篠原龍二って名乗っていた。篠原和夫の兄ということで、突然自宅に電話をもらったの。篠原君のお兄さんであれば、会って話をしたいと言われると断れなかった。だって篠原君は亡くなったのだから、家族にしてみればとても大きなことなの。あって色々な話を聞きたければ、一緒に海へ行ったメンバーの一人として、私は誠意を尽くさなければならないと思った。それで駅の近くの喫茶店で彼と会ったの。彼は真面目そうなサラリーマンふうで、せめて弟の最期の様子を聞かせて欲しいと言われた。私は自分の知っていることを正直に話したわ。篠原君がお酒を飲んでいたことは、警察から聞いて初めて知った。倉本に、どうしてお酒を飲んで海へ入ったのか理由を訊かれたけれど、私は正直に知らないと言った。それにあのゲームのことも訊かれた。それについては、ありのまま彼へ伝えた。でも、彼が海へ入ったところを私は知らないの。みんなが無理やり彼に罰ゲームをやらせようとして、私は反対した。そんなのただの遊びじゃないかって。それでもみんなが、強硬に彼に罰ゲームをやらせようとしたの。ルールに従わないなら、篠原くんと私は、これからクラスで誰にも相手にされなくなるって言われた。それでもいいと思って、私は篠原君に、無視して一緒に盛岡へ帰ろうと言ったの。でも彼は泳ぐと言った。おそらく私のためだと思う。それで私、そこから一人で帰ってしまった。だから彼が海へ入るところも、そのあと亡くなったところにも私はいなかった」

 加藤の話の内容は概ね正しい。

 そして倉本は佐伯に会ったときに、既にゲームの話を知っていた。それは当時海へ行ったメンバーでなければ、知ることができないはずだ。

 彼はどうやってその情報を入手したのだろうか。佐伯と会う前に他の誰かと接触し、暴力を振るい無理やり聞き出したのかもしれない。そうだとすれば、倉本はほぼ全ての真相を知っていたことになる。

「盛岡で倉本に会ったのは、それが最初で最後なの。でも、再び仙台で偶然会った。お店に彼が遊びに来たの。彼は私があそこで働いていることを、本当に知らなかったみたい。私を見て、とても驚いた様子だったから。それで彼は、私を店から連れ出した。でも彼は、私に指一本触れなかった。その後もいつも同じ。ただ店から連れ出すだけで、暴力も振るわないし会話もない。私はただ、彼の傍らに座っているだけ。動こうとすると、そこに黙って座っていろ、お前は俺が買ったんだって言われた。酷いときは他の女性を連れ込んで、私の前で裸で抱き合うの。目を逸らすと、しっかり見ていろって言われた。だから私、一度彼に訊いたの。どうしてこんなことをするのかって。そしたら彼は言った。

『本来はお前を犯してぼろぼろにしてやりたいが、死んだ和夫の気持ちを尊重し、お前には手を出さない。しかし俺はお前を許せない。これはお前の弱さが導いた事でもあるんだ。俺が手を出さない代わりに、お前はここで不幸になれ。それが嫌なら死ね』

 感情を殺して静かに言われた。怖かったわ。でも、それが自分の罪滅ぼしかもしれないと思った。それ以外、彼との会話らしい会話はなかった。ただ、不幸になれ、嫌なら死ねっていう言葉が、いつまでも私の耳に残ってる」

「罪滅ぼしと言っても、佐伯は何も悪くないじゃないか」

「でも、もし私があのとき一人で帰らなければ、彼を救うことができたかもしれない。私は自分一人で勝手に帰ったことを、すごく後悔している。それにね、篠原君が除け者になっているのを見て見ぬ振りしていたのは事実なの。この事件があってから、私は凄く孤独になった。誰も信用できないの。相変わらず友だちみたいな人はいたけど、私の方からは深く関わらないようにしていた。

 そんなときに、私はあなたに気付いたの。遠藤君は他の人と何かが違っていた。誰にも迎合せず、いつも退屈そうで、でも退屈しているわけではなさそうだった。私はあなたをずっと観察して、自分をあなたの世界の中で匿って欲しいと思ったの。でも私のせいで、あなたにも篠原君のときと同じようなことが起こってしまった。私、今度はどうすべきか凄く悩んだ。でももう家の方が大変になっていて、それどころじゃなかったの。それにあなたは、あんなことがあっても淡々としていた。偶然あなたのライブを観たとき、私は凄く驚いた。ひたむきでエネルギッシュで、クラスで仲間外れになってもあなたにはそんなこと、全く関係ないことなんだって分かったの。私はそのことに、随分救われたわ。だから私からは遠藤君に、関わらないようにしたの。そのことで遠藤君へのクラスのいじめがエスカレートしたら困るから。

 結局倉本は、私が自分の好きな人と逃げたから、幸せになろうとした私を許せなかったんだと思う。不幸になるのが嫌だったら死ねという言葉を、彼はきっと自分の手で実行したの。私が死ぬのは自業自得みたいなものよ。でも、もしあなたに何かあったら、私はもう絶えられなかった。自分のせいで二人も死んだら、私は生きていられない。だから遠藤君、危ないことはしないで。倉本の件は放っておいて欲しい」

「でも、倉本は絶対に諦めないよ。またいつか襲われる」

 そう言った僕を、佐伯はじっと見つめた。

「遠藤君、私が倉本の元へ戻れば、彼はおそらく満足よ。また私が嫌な仕事をして不幸になれば、彼はそれでいいの」

 随分屈折した話だ。しかし、血のつながる弟を殺されたようなものだから、屈折するなと言う方が無理かもしれない。

「僕はもう、佐伯を守ると決めたんだ。佐伯が不幸になったら、自分も不幸になる。だから、倉本の元へ戻るなんて考えないで欲しい。僕は大丈夫だよ、井上や一円連合の坂田さんが助けてくれる。一人じゃないんだ。佐伯だって一人じゃない。松本だっている。一人で全てを抱え込もうなんて考えるなよ。それだけは約束して欲しい」

「分かった。その代わり、あなたも忘れないで欲しいの。あなたの命はあなた一人のものじゃないってこと。あなたに何かあったら、私は本当に生きていられない。それだけは忘れないで。危ないことはしないで欲しい。お願い」

 彼女は、自分が関わる二人もの人間が死ねば、おそらく本当に耐えられないだろう。それは充分理解できた。

 そして僕はここで、破ることになるかもしれない約束をするしかなかった。

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