第34話 佐伯の変化

 目覚めると、隣はもぬけの殻になっていた。佐伯は先に起きて、布団を抜け出したようだ。

 僕は布団の中で、まだ素っ裸だった。明るくなってみると、そのことに少し恥ずかしさを覚える。カーテンを通して部屋に入る陽射しの具合から、その日も晴天であることが伺えた。

 服を着てリビングへ行くと、正真正銘の朝の陽射しが、リビングを明るく覆っていた。キッチンでは佐伯が、母親と朝食の準備をしている。味噌汁の香りが、部屋に漂っていた。久しぶりの暖かい家庭の匂いに、僕の心は和んだ。

「遠藤君、おはよう」

 エプロン姿の佐伯が、優しい笑顔をこちらに向ける。僕は彼女に軽く手を上げ、母親におはようございますと挨拶をした。母親も佐伯とよく似た笑顔で、挨拶を返してくれる。二人はとてもよく似ていて、親子というより姉妹のような雰囲気を醸し出していた。

「コーヒー、すぐに淹れるから。そこに座ってて」

 これまで佐伯を覆っていた殻が綺麗さっぱり消えたように、彼女はその日の陽射しと同じくらい輝いていた。コーヒーを淹れると言った佐伯を見て、母親も機嫌よく笑顔を浮かべている。

 カップを僕の前に置いた佐伯に、母親が言った。

「加奈子、お父さんを呼んで。朝ごはんにするわよ」

 暫くすると、頭髪が飛び跳ねたままの父親が、まだ眠そうな顔で席についた。一応着替えてはいたけれど、スリッパも履かず素足のままだ。父親と朝の挨拶を交わしているところへ、ぜんざいと空のお椀、そして鍋に入った味噌汁がテーブルの上に並ぶ。それらを眺める僕に、佐伯が言った。

「我が家の元旦の朝は、ぜんざいを食べてから、筍の味噌汁を飲むって決まりなの。もしご飯が欲しかったら、すき焼きの残りを暖めるわよ」

 郷に入れば郷に従えという教え通り、僕はご飯を断り、佐伯家の習慣に従うことにした。

 テーブルについて四人で同時に、明けましておめでとうございますと声を揃える。それもこの家の慣わしのようだ。

 甘いぜんざいを食べたあとの味噌汁は、格別だった。出汁もしっかり効いている。

「上手い」

 思わず声を上げると、母親が嬉しそうに言った。

「それね、加奈子が作ったのよ」

 佐伯が頬を赤らめて、僕を見る。

「凄いね、こんなに美味しい味噌汁を作れるなんて」

 佐伯がはにかんだ。

「味噌汁なんて、簡単なのよ」

「加奈子の味噌汁は、お母さんの味と同じだ。美味しいよ、これは」

 父親も味噌汁の味を褒めて、しみじみとまたそれを味わう。

 味噌汁の味に幸せを感じるその日は、幸先のよい元日だった。佐伯一家が、そのことに満足しているようだ。そこに他人の自分が、家族のように混ざっている。不思議な気がしたけれど、大きな違和感はない。そして自分も、ありきたりな日常の幸せに、ひれ伏したいくらい感謝していた。

 喧騒の微塵もない、鳥の鳴き声だけが響く穏やかな朝だ。

 この平和を脅かす脅威として、ふと倉本の影が脳裏をちらつく。彼は絶対に諦めていない。直接倉本と接触した者にしか分からない独特の威圧感が、自分の奥底に植え付けられている。それが自分の確信を導いているのだ。

 倉本の黒い影と家庭的な正月光景が、自分の中で見事な対照を成していた。気を抜くと、自分の平衡感覚さえ脅かされるほど、黒い影は大きく重苦しい。僕は気を取り直し、度々自分の中からその暗い影を追いやらなければならなかった。

 昨夜の出来事は、佐伯の態度に微妙な変化をもたらした。自分との物理的な距離が縮まり、ちょっとした拍子に彼女は僕の身体に触れるようになった。例えば、コーヒーを飲むかと尋ねるときに僕の肩に手を置いたり、隣り合って話しをしながら、笑うときに僕の腕に触れたりという具合に。

 佐伯本人は無意識にそうしているようで、自分は彼女のそんな変化が心地よかった。つまりそれは、二人の距離が安定的に接近したことを物語っている。同時に佐伯が、自らの呪縛から開放されつつあることを意味しているのだ。

 母親は佐伯のそんな変化に気付いて、彼女の様子を嬉しそうに見ていた。母親というものは、娘に何が起こっているのか分かるものらしい。昨夜のことも、母親にはとうに見抜かれているような気がした。しかし母親は、そのことを咎めるより、それがもたらした佐伯の変化の方が嬉しいようだ。つまり彼女も、佐伯がある呪縛から解き放たれようとしていることを、感じ取っているのだろう。母親は、佐伯の心の傷が癒えることを、切に願っている。

 昼過ぎからおせち料理で日本酒を飲み、その日は緩やかに、怠惰に過ごした。僕はほどほどしか飲まなかったけれど、父親は再び上機嫌に酔っぱらい、夕方にはダウンした。

 二日目は外の空気を吸うため、朝食後に二人で近所の公園へ散歩した。冷気が大気を澄ませ、真っ青な空が頭上に広がっている。多くの人が実家へ帰省し、抜け殻となった東京は静かだった。倉本や借金取りのことなど、遥か遠く昔の出来事だと錯覚させるくらい平和だ。

 佐伯はブランコに乗ったり滑り台に登ったりした。自動販売機で温かい缶コーヒーを買い、ベンチに二人で並び、外の開放感を満喫した。

 ふと、佐伯が言った。

「ねえ、遠藤君。私たち、恋人同士になったのよね」

 僕は不思議と、言われるまでそのことを意識していなかった。

「そう言われてみれば、そうだね。改まって、どうしたの?」

 彼女は手のひらを暖めるように、両手で缶コーヒーを大切そうに抱えている。

「うん、ただ確認したかっただけ」

 唇や身体を合わせ、年末年始にこうして一緒に過ごす仲になっても、それはまだ、恋人同士とは言えないのだろうか?

「友だちと恋人って、何が違うの?」

「恋人同士はね、お互いの感情を態度で示していいの」

「態度で?」

「そう、手を繋いでもキスをしてもいいし、身体を求めても許されたりする。友だちは、それ、だめでしょう?」

 彼女はくすくすと笑う。

「それは確かにだめだね」

「ただし、色々なことが許されるけど、前提があるの。それは、お互いが愛し合っていること。つまり私は、そういうことも含めて遠藤君に確認しているのよ」

 僕の心臓が高鳴った。答えははっきりしているけれど、それをどう言葉にすればいいのか分からなかったからだ。

「そういうことを含めて、恋人同士になったと思ってる」

「そっか。よかった。私も同じ答えだから。恋人同士というのはね、相思相愛じゃないと成立しないの。遠藤君は私にとって、初めての恋人よ」

 佐伯は倉本の件を否定するように、そのことを強調した。僕は素直に、その言葉を信じることができた。

「僕にとっても、佐伯は初めての恋人だよ」

 佐伯は顔に笑みを浮かべて、こちらに手を差し伸べる。僕がその手を握り返すと、彼女が言った。

「さて、そろそろ帰ろうか。遅いとお母さんが心配するから」

 僕たちは繋いだ手を離さずに、彼女のアパートへ戻った。

 こんな穏やかな正月は、僕が佐伯のアパートを出る四日まで続いた。引き止められるまま、僕は彼女のアパートへ四泊もしたのだ。

 年明けの四日間、もちろん佐伯家への訪問者は一人もいなかった。豪邸に住んでいたかつての頃は、おそらく数え切れない訪問者を抱え、毎年にぎやかな正月を送っていたのだろう。だから母親は、こんなにゆったりとしたお正月は、久しぶりだとしみじみ言った。別段寂しい正月を憂いているのでもなく、むしろ幸せを噛みしめるような言い方と表情だった。自分も同じ気持ちだったし、おそらく佐伯もそうだったに違いない。

 自分のアパートへ戻る前夜、母親が言った。父親は酔って寝床へ入り、佐伯がシャワーを浴びている間、ダイニングのテーブルには緑茶を飲む自分と母親の二人だけになった。

「遠藤さん、今回はここへ来てくれて、本当にありがとう」

 僕は恐縮して、慌てて言った。

「こちらこそ随分長居してしまい、本当に済みません」

 母親は、頭をゆっくり左右に振る。

「あなたが来てくれたことを、私も夫も心から喜んでいるの。何よりも、加奈子が変わった。前は笑っていてさえ影があったのに、今のあの子は表情が柔らかくなった。いつも優しい顔付きで、昔の加奈子に戻ったみたい。それはきっと、あなたのおかげなのよ」

 母親が、こちらを穴の開くほどじっと見て言うから、一体どんな魔法を使ったの? と訊かれそうで僕は少し焦りながら答える。

「もしそうなら、自分の心も救われます」

 その言葉に母親は、ただ静かに微笑んだ。余計なことは、一切口に出さずに。

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