第33話 年越し
打ち合わせを一時間半で切り上げ、僕はその足で佐伯のアパートへ向かった。
午前中に佐伯から電話をもらい、正月の二〜三日は彼女のアパートに泊まり、一緒に過ごそうと提案されたのだ。それで僕は、洗面道具や着換えを持参しての訪問だった。
念の為、絶えず周囲に気を配った。万が一つけられていることを考え、ときどき立ち止まり周りを見回し、突然人混みの中へ紛れ、迂回したり、コーヒーショップに入り裏口から出たりした。
倉本は地方に潜伏していても、どこかに手下が隠れているかもしれない。通常、佐伯のアパートまで三十分もあれば充分なところを、そういった余計な回り道に一時間は費やす。幸い柄の悪い人間を、誰一人見かけることはなかった。
僕は途中で、日本酒の一升瓶を手土産として買った。少々値が張ったけれど、手に入りにくい銘柄だと酒屋に勧められた山形の酒だ。奮発したのは、その日のイベントが、一つの門出のように思えたからだ。
九死に一生を得た喜びや、佐伯との新たな局面を迎えようとする高揚、そして倉本との対決に弾みがついた興奮が、自分の中で入り混ざっている。
この複雑な気持ちを一言で表すとすれば、それは一体何だろうと考えて出てきた答えが、意外にも希望だった。いや、実際にはそんな輝かしいものではなく、まあどうにかなるだろう程度のものだけれど。
倉本へちょっかいを出すことで自分に跳ね返りが生じても、それはそれで仕方がない。佐伯を最後まで守ることが目標なのだ。それだけに集中するのは、大したことではない。最悪は、倉本と刺し違えればいいだけのことだ。
おそらく僕は、何かを掴み取るために熱中し、いつの間にかその熱に浮かされていたのかもしれない。あるいは一度酷い目に遭い、それでもどうにかなっていることで、体験的に何かを学んだのだろう。実際、変な度胸がついたことは確かだった。
怪我をしても、死ななければ治る。痛みはたかが知れている。そして人間、死ぬときは死ぬ。
この割り切りみたいなものが、自分を変えたような気がした。
いつでも失敗に怯え、過剰に神経質になり、挙げ句結果に恵まれない。振り返れば、そんなことの繰り返しだったように思える。
しかし、狙いを定めて一歩を踏み出すことは、初々しく希望に満ちた行為だった。つまりその感覚が、自分の中に門出らしき情緒を生み出しているようだ。
中野駅南口から小さな商店街を抜け十分も歩くと、通りの両側に小中規模のアパートが乱立し始める。とにかく詰め込んだという感が否めないほど、集合住宅が密集している。土地代が高いのだから、少しでも有効活用したい気持ちは理解できなくもない。
ひっそりと生きる佐伯一家にとり、そういった人口密度の高いエリアは、まさに木を隠すなら森の中という具合で都合がよかったのかもしれない。井上の父親は、そういったことも考えてくれたのだろう。
僕はここでも周り道をした。敢えて見晴らしのきく中央公園を通り、そこから入り組んだ道路を南西へジグザグに進み、やや疲弊気味のところで、ベージュの大判タイルで覆われる南海ハイツの前にたどり着いた。付け焼き刃で決めた割に、見栄えの悪くないアパートだ。
既に夕刻となり、日はすっかり陰っている。込み入る住宅地の中にあるせいで、人通りはまばらだ。お陰で怪しい人がいれば、すぐに発見できる。
三階建物の中で、彼女の部屋は一階だった。日当たりや見晴らしを要求できる状況ではなかったのだから、そこは仕方ない。
ドアベルを押すと、佐伯が出迎えてくれた。彼女は白いニットのタートルネックとジーンズという出で立ちで、顔に薄い化粧が乗っている。静かな笑みを見せる彼女には、可憐で華奢で、簡単に壊れそうな繊細さが垣間見えた。それは白のニットが、血の滲んだ白いコートと重なることが関係していた。あの事件から、きちんと生きている佐伯を見るのは初めてとなる。
彼女は浮足立った様子もなく、落ち着いた口調で言った。
「いらっしゃい。今日は来てくれてありがとう。お父さんとお母さんも待っているわ」
「遅くなってごめん。用心して、色々回り道をしながら来たから」
その言葉で、彼女の顔に影がさす。
「私のせいで、色々ごめんなさい」
気を遣っているつもりでも、つい彼女の自虐的な気持ちを呼び起こしてしまうようだ。
「佐伯のせいだなんて思っていないよ。お願いだから、そんなふうに考えないで欲しい」
それで彼女は、また謝った。
この部屋は、玄関からリビングまで短い廊下がついている。廊下の突き当り右手にリビング兼ダイニングのドアがあり、それ以外の二つの部屋は、リビングから繋がっていた。家族三人が暮らすには、充分な間取りと広さがある。
リビングに入ると、醤油の上品な匂いがした。懐かしい煮物の匂いだった。
佐伯の両親が夕食準備の手を止めて言った。
「やあ、よく来てくれたね」
「ごめんなさいね、無理やり誘って。迷惑じゃなかったかしら?」
父親も何かを手伝っているようだ。二人とも、努めて明るくて振る舞っているように見えた。その分、ぎくしゃくとした何かを感じる。
今回の事件は佐伯家絡みの因果によるものだから、両親が自分に対して負い目を感じるのは無理もない。自分の娘も、路上で刺されるという被害に遭っている。心中は複雑なはずだ。
「迷惑だなんてとんでもありません。お招き頂き、ありがとうございます」
「狭いですけど、ゆっくりしていって下さいね。大したおもてなしもできませんけど」
「一人でアパートにいたら侘しい正月になりますから、有り難いです。これ、途中で買ってきました」
僕は持っている一升瓶を、テーブルの上に置いた。父親が、すぐ様それに顔をほころばせて反応する。
「おや、十○代じゃないか。珍しい酒をありがとう」
この酒を奨めた酒屋のおじさんは、どうやら本当に貴重な酒を売ってくれたようだ。
母親が佐伯に言った。
「加奈子、夕食の準備が整うまで、遠藤さんのお相手をして」
二人で佐伯の部屋に移ると、彼女は僕をじっと見て静かに切り出した。
「遠藤君、私を庇って大怪我したんでしょう? 警察の人に聞いたわ。本当にありがとう」
「その話しはもういいよ。そもそも僕が佐伯を誘わなければ、あんなことにはならなかったんだ」
「うん。でも、やっぱり私が原因だから。ねえ、遠藤君、電話で言ってたでしょう? 自分が倉本を新宿まで連れてきたって。あれ、どういうことなの?」
僕は、余計なことを言ってしまったと後悔した。
「いや、待ち合わせの約束したのは一時間前だから、あそこに倉本が現れた理由は、僕がつけられていたとしか思えなかったんだ」
「でもそうだとして、やっぱり分からないわ。どうして倉本が、あなたを知っているのよ?」
倉本へ落とし前をつける件は、あくまでも佐伯に内緒だ。それに野村婦警の件は、多分に機微を含む問題だ。軽く外部に漏れるだけで、一大スキャンダルとなってしまうし、佐伯は人間不信に陥ってしまうかもしれない。
「色々考えてみたけど、僕にも分からなかった」
そのことについては、佐伯もまるで見当がつかないようだ。このまま、何も知らない方がいいのかもしれない。
「そうよね、分からないわよねえ……。でも遠藤君が元気になってよかった。死んじゃったら、私も生きていられなかった」
「それはこっちの台詞だよ。僕は佐伯が死んだかもしれないって、本気で心配したんだから」
彼女はふふふと笑った。
「私の傷は、思ったより軽かったの。ただ、お腹に二つも傷痕がついちゃったけど」
「傷痕なんて、死んだかもしれないことを考えたら大したことはないよ。死んだら全てが終わりだから」
「全てが終わりか……。だったらそれでもよかったかもしれない」
実は自分も、刺されて気が遠のいたときに似たようなことを考えた。苦しさから解放されたいために、死を選びたくなった。
だから色々な問題を背負った彼女が、死んだ方が楽だと、そちら側へ気持ちが傾くことは理解できる。生きていれば、辛いことは少なからずあるのだ。しかし実際、あるのは辛いことばかりではない。まして、せっかく授かった命を簡単に諦めることは、究極の我儘な行為だ。
「馬鹿なことを言うなよ。佐伯が死んだら、僕はやられ損になる」
僕の言い方が滑稽だったのか、彼女はまた笑った。
「そうね。ごめんなさい。折角助けてもらった命だものね。大切にしなくちゃ」
彼女は思っていたより元気そうだった。身体の傷もさることながら、受けた心の傷は小さくないはずだ。今までの佐伯なら、もっとしんみりしていてもおかしくはない。しかし彼女は、ときどき自虐的なことを口にしながらも、時折見せる笑顔は本物だ。僕はそのことが、少し不思議だった。
「ねえ、嫌なことを訊くけど、佐伯は倉本にまた襲われるかもしれないことが怖くない?」
彼女は僕の突拍子もない質問を、不思議に思ったようだ。
「どうして?」
「どうしてって、なんか佐伯、少し明るくなったような気がするから」
彼女は何かを考えて、「確かにそうかも」と答えた。
「明るいのはいいことだと思う。ただ、あんなことがあったのに、何か吹っ切れたように見えるから」
彼女はやっぱり笑った。
「吹っ切れたというより、こうして遠藤君が会いにきてくれるなら、私はそれでいいの。これからどうなるか分からないけど、今はこうして遠藤君と話しができる。それで満足。でもね、これで遠藤くんが死んでいたら、私はきっと、自分が生きていることに耐えられなかったと思う。だから遠藤君、これからもあなたの命は私の命よ。それを忘れないで」
僕の命は佐伯の命……。
つまり自分が死んだら、佐伯も死ぬということか。
まるで倉本の件に釘を刺されたようで、自分の心臓がドクリと跳ねる。何かを知っているのか探りを入れるように佐伯の顔を見ると、彼女は相変わらず穏やかな表情をその顔にたたえていた。
いずれにしても、二人分の命は少し重過ぎる気がしないでもない。
「だったら、佐伯の命は僕の命ということも忘れないで欲しい。正直に言うと、新宿で佐伯が死んだかもしれないと思ったとき、僕もこのまま死んでもいいと思った」
僕は仙台の夜に見つけた自分の気持ちを、大袈裟にならないように彼女へ伝えた。孤独を感じて、佐伯のことが恋しくなったことだ。だから新宿で、迷わず彼女の盾になることができた。
「ありがとう。私が元気になれるのはね、遠藤君のその気持ちが伝わってくるからよ」
僕は彼女の笑顔を見ながら、倉本の件はどうしても決着をつけなければならないと思う。
夕食の準備ができて、母親から声が掛かった。二人でダイニングへ移動すると、テーブルの中央にはミニコンロの上にすき焼き鍋が置かれ、その隣で真っ赤に茹で上がった毛ガニが存在感を放っていた。牛肉の煮物や黒豆、松前漬けや枝豆の皿も並ぶ。一人暮らしの自分には、過分なほど豪華な食卓だった。
僕が佐伯と並んで席に着くと、父親がにこやかに言った。
「大した料理はないけど、先ずはビールで乾杯しよう」
佐伯がビールをついでくれる。父親がグラスを持ち上げ、乾杯の音頭を取った。
「色々あったけれど、こうしてみんなで年を越せるのが何よりだ。来年はもっといい年になると思う。今日の喜びと来年の幸せを先取りして、乾杯!」
グラスを合わせると、母親が予め鍋で焼いた肉をすき焼きの中へ入れ出した。白菜、しらたき、焼き豆腐の入る鍋がグツグツ煮立ち、湯気と醤油の香りを放つ。
「頂いた酒は、ビールの後で開けよう。遠藤君は、酒がいける口かな?」
「普段は飲みませんし、自分でもどの程度いけるかよく分からないんです」
すかさず佐伯が言った。
「お父さん、彼は病み上がりなんだから、お酒はほどほどにしてね」
「おお、そうだったな」
「僕は少しで止めておきますが、お父さんは好きなだけやって下さい」
今度は母親が冗談っぽく笑顔で言う。
「遠藤さん、そんなことを言ったら、この人は底なしなんですよ」
「今日くらい、いいじゃないか。それと私は、遠藤君に礼を言わなければならない。命懸けで加奈子を庇ってくれたことだ。それがなかったら、本当にどうなっていたか……。いやあ、本当にありがとう」
父親がかしこまって頭を下げた。
「そのことはもういいんです。僕がそうしたかっただけですから」
母親が笑顔をそのままに、優しく口を挟んだ。
「私も加奈子も、そのことには心から感謝しているのよ。でも今日はもう、その話しは止めましょうよ、お父さん」
「うん、そうだな。さあ、遠慮せずに食べてくれ。ほら、加奈子、遠藤君に料理を取ってあげなさい」
佐伯が僕の皿を取ろうとして、僕は慌てて彼女の動作を遮る。
「お構いなく。自分でやるから」
「本当はね、井上さんや松本さんもお呼びしたかったんですよ。でも井上さんはご実家に行かれるでしょうしね」
「そうだね、あの二人にも随分お世話になった。今思うと、つくづく不思議な縁だったと思う」
「二人は今日もアルバイトです。おそらく明日は揃って、井上の実家へ行くと思います」
父親は「ほう」と感心したように言った。
「井上君は凄いね。頭がよくて、しかもあんな美人を射止めるんだから。まあ、うちの加奈子も捨てたもんではないけどな」
その言葉に佐伯が反応して、頬を赤く染めた。
「お父さん、何を言うのよ。自画自賛もいいところよ。恥ずかしいなあ、全く」
僕は正直に、普段思うことを言った。
「いや、本当だよ。佐伯だって、街中にいれば随分目立つ」
その言葉に、父親は満面の笑みをたたえて喜んだ。
「なあ遠藤君、そうだろう、そうだよな」
僕は「ええ」と頷いて、母親がその様子に笑った。
「お父さん、そんなことは、思っていたとしても、身内が口にすることじゃないわよ。加奈子が恥ずかしがっているじゃない」
佐伯は真っ赤になった頬に、熱を冷ますように両手を当てた。
「恥ずかしがることじゃないぞ、加奈子。これは真っ当な自慢だ」
人間、堂々と自慢できることがあるのはいいことだ。
父親の上機嫌に、上げ止まりはなかった。ビール三杯で、ウイスキーのボトルを半分も空けたように、彼は陽気だった。多賀城のアパートでムスッとしていた人間と、同一人物とは思えないほどだ。佐伯や母親は、それに呆れるように振る舞いながら、その実喜んでいる。父親の幸せそうな様子が、二人には嬉しいのだろう。
僕の買った一升瓶が開けられた。
「これはこのまま飲んだ方がいい」
そう言った父親が、母親の用意した人数分のグラスに酒をつぐ。
改めて乾杯し口に含むと、それは日本酒とは思えないフルーティーな味わいだ。日本酒独特の臭みが少ない、まさに米のワイン。
佐伯も驚いた。
「なに、これ? 凄く美味しい」
母親も頷く。
「だろう? これは全国屈指の山形名酒なんだ。遠藤君は、知ってて買ってきたのか?」
「いや、酒屋のおじさんが薦めてくれたんです。僕は酒のことはさっぱりで。それでもこの味の違いは分かります。本当に美味しいですね」
この名酒が、父親の機嫌を加速させる。
父親は意外に博識で、話題に事欠かない。経済、芸術、音楽、歴史と、次々話しのテーマが変わる。かつて色々と営業をしていたから、相手に話しを合わせるために勉強したと彼は言った。
ひとしきり話した父親は、酔も回り、一息ついてポツリとつぶやいた。
「負けた人間が何を言っても、説得力は薄いけどな」
井上に触発され続けた自分に、ついその言葉が引っかかった。
負けた?
それまではしゃいでいた佐伯や母親までもが、その言葉に納得するかのように目を伏せ、突然しんみりする。しかし僕には、妙な違和感があるのだ。
「あの……、済みません。負けたというのは、どういう意味ですか?」
父親は意表を突かれたように、一瞬彼の時間が止まった。佐伯や母親も同じで、みんなが僕の顔を見た。
父親は僕の問いに、酔いに任せて安直に答えた。
「つまりだね、金も地位も失って、卑屈に生きるしかない境遇になった、ということだよ」
あくまでも、素朴な疑問をぶつけるように僕は訊いた。しかし自分の問いには、娘をあれほど辛い目に遭わせて後悔したはずなのにという、反感めいた感情があった。
「お父さんの一番大切なものは、お金や地位ですか?」
彼は押し黙った。そうだと答えることができなかったようだ。
「僕には、負けたという意味が分からないんです。百メートル走なら理解できます。目的が走る速度を競うのだから、勝敗が明確です。でも、人生の勝ち負けって何だろうって思ったんです。人生って、何かを競い合っているのでしょうか?」
父親は困った顔付きになり、苦し紛れに言った。
「きっと、君はまだ若いから分からないんだ。でも、君にだって競争はあるじゃないか。いい大学へ入るために勉強して、少しでもいい会社に入るために競争する」
しかし、入った大学で人生が決まるわけではない。まして、大学へ行かなかったら負けということもない。人生を決めているものは、おそらくもっと別なことだ。
「僕の大学へ入る目的は、東京に住むことだったんです。恥ずかしい動機ですが、とにかく目的は果たしました。でも、勝ったとは思えないし、負けたとも思っていません。勝ち負けの感覚がないんです」
父親はふんと鼻で笑い、呂律の回らない口調で言った。
「社会に出れば、足の引っ張り合いなんて普通にあるから、そのうち分かるよ。まあ、君の人生、まだまだこれからだ」
「お父さんの人生だって、まだまだと思います」
彼は手のひらを、自分の顔の前でゆらゆらと左右に揺らす。
「私は駄目だよ。もう四十七歳になった。何かを始めるには遅すぎる」
僕は少しだけ勇気を出して、生意気なことを言った。
「僕の祖父がよく言ってました。もう四十だと思っても、五十になったらもう十年若かったらと思う。もう五十だと思っても、六十になればまた同じことを考える。つまり人生、何かを始めるのに歳は関係ないって。僕にはそれが本当か分かりませんが、過ぎた時間を取り戻せないことは分かります」
父親は酔が覚めたように、顔付きが引き締まった。そして何かを噛みしめるように考え込み、小さく二度頷いた。
「うん、いい教えだ。確かに私も、もう十年若かったらとよく思う。十年先にも同じことを考えるとしたら、その言葉は正しいのかもしれない」
「済みません、団欒に相応しくない話題で」
「いや、そんなことはない。勇気を貰える、いい話しだった」
母親も嬉しそうに言う。
「本当にそう。お父さん、最近ちょっと気力が足りないから、とても有り難いお話しだったわ」
「おいおい、私はまだまだだやれるよ。いや、やるしかないんだよなあ」
父親は、自分を納得させるようにそう言って、自身の言葉に再び頷く。
佐伯がすかさず言った。
「私は、やる気のあるお父さんの方が好きよ」
彼は、そう言う娘の顔をじっと見た。
「うん、お父さんはまだまだ頑張るよ」そう言った彼は、嬉しそうに笑う。
負けた話しが、無事に着地した。
それから再び、和やかな家族団らんが続く。年越しそばを食べながら年末恒例の歌番組を見て、除夜の鐘を聞いた。
酔った父親は年が明ける前に寝床へ入り、暫く佐伯の母親を交え、緑茶を飲みながら三人で話したけれど、その母親も遂に就寝した。
テレビも消えて、リビングが途端に静かになった。部屋の外は、車の音もなく、人の気配は全く感じられない。
もう、新しい年になったのだ。こんな静寂な中で迎える新年も、佐伯がいるお陰で悪くなかった。
僕の布団は、佐伯の部屋に用意されている。まるで、久し振りに帰省した、娘夫婦に対する扱いのようだった。僕が人畜無害な安全男とみなされているのか、それとも、仙台で既に夜を共にした仲で、何を今更ということなのか、あるいはこういうことは、こうしたスタイルが普通なのか僕には分からない。しかし、隣に両親が眠る中で佐伯と同じ部屋に寝るということが、自分の中で妙な緊張感を生んでいた。
彼女の部屋に入ると、佐伯のベッドの横に、自分の使う布団が敷かれていた。
「遠藤君、ベッドがよければ、私のを使っていいけど、どうする?」
「いや、僕は布団でいい。普段も布団だし」
「そう、じゃあ、先にシャワーを使って。バスタオルは後で用意するから」
自分のバックから着換えを取り出し、シャワールームに入る。
素っ裸の無防備な姿で他人の家のシャワーを使うのは、心もとない気分だった。途中で佐伯が、バスタオルを届けてくれる。扉一枚挟んで丸裸の自分がこちら側にいるのは、僕を戸惑わせるのに充分だった。お互い、もう子供ではないのだ。佐伯と結婚したかのような環境が、自分の足元を揺さぶっている。
パジャマに着替えた彼女が、僕と入れ替わりでシャワールームに入った。僕は布団の上に仰向けになり、さきほどから動揺気味の心を落ち着かせるため、天井を見つめて倉本のことを考えた。
佐伯はこうして、自分の手の内にいる。彼がそのことを知ったら、どう思うだろうか。やはり気が狂ったように怒るのか。
ふと、倉本がなぜこれほど佐伯に執着するのか、不思議な気がした。彼は佐伯を真剣に愛しているのか。そうだとして、あんなふうに彼女をナイフで刺せるものだろうか。まして、倒れた彼女に蹴りを入れた。まるで仇を目の当たりにしたような所業だ。自分ならばどんなに憎むことがあっても、一度愛した人を殺すことはできない。
完全な異常者ならば、それもあり得るだろう。しかし倉本は、元々エリートだ。あの落ち着いた態度や物言いも、異常者のそれではない。組の長として、風格さえ感じられる。ならばあの異常な行動は、一体何だったのか。冷静になって考えてみると、少し不自然な気がした。
しかし、その理由はやっぱり分からない。井上が言うように、単に面子を潰されたことが原因なのか。ああいった世界に生きる人たちの考えは、自分たちには分からないことなのかもしれない。
この謎解きは変なモヤツキを残したまま、一旦自分の中で幕を下ろす。
シャワーを終えた佐伯が、部屋に戻るなり言った。
「遠藤君、冷たいお茶を飲まない?」
彼女は、グラスに入った緑茶を持っている。
「ありがとう。貰うよ」
グラスを受け取る際、彼女から石鹸の匂いが漂った。彼女はベッドの端に腰掛ける。化粧のない顔はシャワー上がりで上気し、とても綺麗だ。
佐伯は自分のお茶を一口飲んで言った。
「遠藤君、今回はありがとう。でも、気を遣って疲れたんじゃない?」
「大丈夫だよ。結構楽しんでる。こっちこそ、色々気を遣わせているんじゃないかって心配になるよ」
彼女の顔に、笑顔が浮かんだ。
「そんなことはないわよ。お父さんとお母さん、今日は嬉しそうだった。こんなふうに家族で過ごすの、本当に何年かぶりなの。こういうのって、何か一つが欠けてもだめなのよね」
「欠けるって?」
「私のことよ。二人とも腫れ物に触るように、私に遠慮してきた。私にもそれが分かってしまうから、辛かったの。だからお祝いごとがあっても、どこかぎこちなかった」
佐伯は暗い過去を思い出しながら語っているようだけれど、その表情は優しく穏やかだ。彼女は自分のグラスを、サイドテーブルへ静かに置いて言った。
「でも今日二人は、地で夕食を楽しんでいたわ。これまでのつっかえが取れたみたいに、晴々としているの。だから私も嬉しかった。本当にありがとう」
彼女は両手を膝の上に重ねて、頭を下げる。そうやってかしこまられると、こちらも恐縮してしまう。
ようやく僕は言った。
「いっ、いや、こちらこそ」
こちらを見下ろす佐伯は、サイドテーブルに乗るスタンドの灯りを不意に消して、布団に座る自分の傍へ降りてきた。そして僕のグラスを取り上げ、それをサイドテーブルの上に置く。薄暗い中で、彼女は正面から、両腕を僕の首に回した。
そのとき僕には、佐伯が何を望んでいるのかが分かった。僕も彼女の腰へ手を回すと、くびれた胴回りの華奢な感触が、パジャマ越しに伝わってくる。暗闇に目が慣れ、正面の彼女の顔が次第にはっきりする。彼女は目を開き、こちらをしっかり見据えていた。その真剣な表情は、彼女の美しさを際立たせている。
僕は、初めて彼女を欲しいと思った。そのときの自分の願望は、極めて欲望的だった。
彼女を引き寄せ、唇を合わせる。佐伯の自分に回す腕にも力が入った。彼女の胸の膨らみが、弾力として自分の肌に伝わる。パジャマの裾から彼女の背中に手を回しても、彼女は拒まなかった。唇を合わせたまま、彼女の素肌の上に自分の手を這わせる。彼女を愛おしく思う感情を、素直にその動きに乗せた。それに呼応するように、彼女はますます執拗に唇を押し当ててくる。
そして僕と彼女は、初めて一つになった。身体を重ねる間、彼女は声を押し殺した。佐伯には、隣室に両親が寝ていることを気にする理性が残っているようだ。逆に、彼女の艶かしい息づかいやかすれた声が、自分の理性を粉々に砕く。そして彼女の美しい裸体に、僕は全てを奪われる。
彼女が、今日は安全だと小さな声で言った。僕には、元々彼女や周囲を気遣う余裕はなかった。感極まった僕は幸せの絶頂の中、彼女の中で果てた。しかし、すぐに萎えることはなかった。暫く一つになったまま、二人で抱き合っていた。
彼女が言った。
「今日はこのまま眠りたい」
そんなことを言う佐伯が、僕はまた愛おしくなる。僕たちは裸で抱き合ったまま、一緒にゆっくり眠りに落ちた。
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