第32話 作戦会議1

 年末の忙しい時期、いっぺんに二人のバイトが欠けたのは、居酒屋にとって相当痛かったらしい。

 電話口で、珍しく井上が愚痴をこぼした。

『臨時のバイトを入れて、僕はインカム指示と作業を同時にこなしながら、どうにか客をさばいてるよ』

 彼の話しに依ると、井上と松本はバイトが終わると毎日へとへとで、会話をする元気もないそうだ。あのパワフルな松本がそうだとしたら、店の忙しさは想像を絶するほどなのだろう。井上の手腕で店の常連客が増加しているのだから、混雑具合は昨年の比ではないのかもしれない。ダボハゼの小さく丸い目が、変につり上がっている顔をついつい思い出す。

「本当に申し訳ない。年明けに復帰するから、年内はどうにか踏ん張ってくれ」

『身体が完治するまで、無理することはないよ。せっかくだから、佐伯さんと一緒にゆっくり過ごしたらいい。こっちはどうにかなるから』

 確かに井上なら、何があっても不屈の精神でどうにかするような気がした。バックアッププランも、しっかり考えているのだろう。

 子供の頃からよく聞かされた、頑張れや諦めるなという言葉がある。言われている意味は分かるけれど、それじゃあ一体、どうすればいいのかといえば、大人は教師も含め、その具体的な方法を教えてくれない。掛け声は大きくても、中身は単純な精神論でしかない。しかし、精神論で全てが片付いたら世話はない。だから優秀なスポーツコーチは、頑張れとは一言も言わず、その代わりにああしろこうしろと具体的指示を出す。井上を見ていて、僕は頑張ったり諦めないという言葉の裏にある意味を、理解することができた。彼の不屈の精神は、分析と方策と予測の上に成り立っている。

 だから彼が大丈夫と言えば、大丈夫なのだ。彼の言葉に甘えても、大きな問題にはならない。

「ありがとう。年越しは彼女のアパートになりそうだ。招待されてるんだ」

『それがいい。寂しく一人で年を越しても、ろくなことはないよ』

「それでさ、倉本の件で相談があるんだ。忙しいときに申し訳ないけど、明日にでも会えないかな」

『そうだね。こっちにも話しがあるから、丁度いい。明日、前と同じコーヒーショップで会おう』

 こうして僕は、大晦日で世間が混雑を極めている中、井上と二人で会って倉本の件を話し合うことにした。


 コーヒーショップは世間のざわめきを遮断し、いつもと同じ落ち着きを見せていた。そこにいる人たちは、年の終わりや始まりなど関係ないように、読書や会話にふけっている。

 そもそもその年最後の日だと思わなければ、あとは普段と何も変わらない。そう考えると大晦日も元日も、単に誰かが決めたお祭りに過ぎない。コーヒーショップで普通に落ち着いている人たちは、とっくにそんなことに気付いていて、頑なに普段と変わらない態度を貫いているように見えなくもない。

 僕は佐伯一家と一緒に新しい年を迎えるというイベントを控えていながら、やはりその日が特別な日という感覚は薄かった。倉本の件で、頭の中が埋め尽くされているせいかもしれない。それはその年最大のやり残し案件なのだ。年が変わったら、できるだけ速やかに解決しなければならない。

 井上は、約束の時間より早めにやってきた。彼は店に入ると、最初に店内を見回し僕の姿を確認してから、カウンターでコーヒーを買った。

 ダッフルコートで着膨れした彼は、大きな顔がぼんやりした印象であることも相まって、やっぱり感性の鈍い凡人以下の人物に見える。

 僕の座るテーブルへ歩み寄る彼は、両手に二つのコーヒーを持っていた。彼はそれをテーブルに置くと、「元気そうだね」と言った。

「お陰でどうにかね。ところで井上、コーヒー、二つ飲むの?」

「いや、もう一人合流する予定だから」

 僕の心臓が跳ねる。松本も来ると思ったからだ。自分の考えていることが彼女へ知れたら、話しがややこしくなる。

「誰?」

 そう訊いた瞬間、井上の視線が店の入口に移った。思わず僕もそちらを見ると、背がひょろりと高い三十半ばの男性が、こちらに気付いて寄って来る。井上が立ち上がって、彼を僕たちのテーブルに迎えた。

「坂田さん、忙しい中済みませんでした。こいつが例の遠藤です」

 坂田と紹介された人物が頭をかいて、笑顔で「どうも」と小さく頭を下げる。

「遠藤、この人が、以前僕をヤクザの監禁から救ってくれた、一円連合の坂田さんだよ」

「え?」

 坂田さんの見た目は、どう見ても気弱でうだつの上がらないサラリーマンかフリーターだ。コンビニのレジでアルバイトをしていると言われても、全く違和感がない。

 僕は言葉を失い、それから慌てて挨拶を返した。

「初めまして、遠藤です。坂田さんのお噂は、井上から聞いております」

 僕は途端に緊張した。彼が一円連合総長の娘婿で、あの大組織の中では陰のドンと呼ばれている人物だからだ。一円連合は関東を牛耳り、全国トップの一大暴力団だ。その世界では、他を寄せ付けない力を持っていると聞いている。そこでトップの位置にいるのだから、彼はとてつもなく怖い人であるはずだ。

「遠藤、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。坂田さんはこの通り、普通のサラリーマンだから。倉本の件で、ちょっと相談に乗ってもらっているんだ」

 今度は坂田さんが言った。

「大体のことは、賢治君から聞いて知っています。新宿の事件も、ニュースで見ましたよ。その被害者が賢治君の友人だと知ったときには、正直驚きました。何せあの事件は、極道の世界でも注目を集めていましたからね」

 柔和な表情や丁寧な言葉遣いは、やはり普通の人だった。むしろその辺のぎすぎすしたサラリーマンより、よほど親しみやすい印象さえある。

「僕はあの事件をニュースで知ったとき、暗い気持ちになったんです。また暴力団が嫌われるってね。こう見えても僕の身内は、みんな暴力団関係者ですから」

 坂田さんはそう言うと、白い歯を見せて笑った。

 身内はみんな暴力団関係者……。よくよく考えれば、凄い自己紹介だ。いや、単純に考えても怖い。

 それでも坂田さんが演技をしているようには見えないし、裏表のある人にも思えなかった。

 井上が言葉を継いだ。

「それでさ、倉本の件で、坂田さんに協力してもらうことになったんだ」

「同じ業界に近い者として、少し罪滅ぼしをしたいという気持ちになりまして。ただし協力といっても、一円連合を全面に出すわけにはいきません。個人的な事情で、組織を動かすわけにはいかないんです。しかし水面下では組織の力を使えます。総長や若頭といったトップは、倉本という男を、『そんな輩は生かしておけねえ』って憤っていましたよ」坂田さんは、ヤクザの口真似をしてまた笑う。「だから充分ご協力できると思います」

 生かしておけねえという台詞は気になるものの、同じ業界の人に手伝ってもらえることは心強い。

 しかし僕には、一つの心配事があった。

「あの、最初からこんなことを言うのは失礼ですが、僕には謝礼を払う財力がありません。その世界では、こういった場合、それなりの謝礼を支払うのが普通だと聞いたことがあるのですが」

 しかし坂田さんも井上も、僕の心配を笑い飛ばした。

「心配要りませんよ。謝礼は不要です。もし必要経費があれば僕が出します。正直に言うと、システム管理者の名目で、毎月使い途のない金が一円連合から支給されているんです。税金申告できず銀行へも預金できなくて、本当に困っているんですよ。だからこんなことでお役に立てるなら、喜んでそれを使います」

 井上が補足する。

「坂田さんは、元々普通のサラリーマンなんだ。結婚した相手が一円連合総長の一人娘という事情で、一時期若頭代行なんてやっていたけど、それが終わってまたサラリーマンに戻った。捜査四課のヤスさんとも親しい間柄だし、人柄は僕が保証する。だから何も心配は要らない」

 話しがとんとん拍子過ぎて、怖いくらいだった。井上が絡んでいなければ、何かの詐欺ではないかと疑いたくなるほどだ。

 僕は狐につままれた状態を引きずったまま、彼らと具体的な相談を始めた。

 坂田さんは早速、倉本の調査書をこちらへ差し出した。紙の上に、彼の経歴が並んでいる。卒業した小中高の学校名、そして大学、犯罪歴、交友関係だ。生まれは盛岡で、自分と同じ県内の進学高校から国立の有名大学へ進み卒業している。

 彼の姓が何度か変わっていた。

 生まれたときは、永井竜二となっている。

 倉本が五歳のときに両親が離婚。性はそのまま引き継いだようだ。十三歳で母親は篠原幸喜と再婚し、彼は篠原龍二となる。

 その後再び両親の離婚により、彼は母親の性である倉本を名乗る。時を同じくして、倉本は八年間勤めた大手証券会社を退職。その一年後に倉本は仙台へ移動し、金井組に入っている。そしてまたたく間に頭角を現し若頭へ就任後、金井組長の死去に伴い組長就任、組織を倉本組と改めた。

 大手証券会社からやくざへの転身は不思議だった。しかも驚いたのは、彼の生まれや育ちが、自分や佐伯と同じ盛岡ということだ。

「どうしてこれを? 実は、最初にこれを知りたかったんです」

 井上がにやけた。

「賢治君と相談した中で、先ずは敵をよく知る必要があるということになり、調べてみたんです。一円連合本部に諜報を専門にしている人間がいるので、そこへお願いしました。特にここが重要です」

 坂田さんが、紙の上の一点に指を置いた。そこに倉本愛人という名目で、野村恵美という名前が記されている。僕はそれを見て、思わず大声を上げそうになった。

 全ての詳細を知っている人間は限られている。おそらく一番事情を知っているのは、宮城県警本部で佐伯に事情聴取をした、野村という婦警なのだ。僕は病室で色々考え、彼女に突き当たった。彼女ならば、僕と佐伯が久し振りに再会した経緯を知っている可能性がある。そしてライブハウスの情報を追いかけていれば、僕が仙台へ行くことを知ることができたはずだ。しかも彼女は、僕の顔を知っている。県警本部の廊下ですれ違ったからだ。そのときあの婦警は、『その彼が遠藤君?』と言って僕のことを確認した。

「どうして倉本が新宿へ現れたのか、その理由について賢治君とあなたの推測が一致していると聞きました。確かにその点は重要なので、二人の推測の裏を取ったんです。お二人の考えは、正解でした」

 情報源が野村婦警だとすれば、倉本は佐伯や僕たちの現住所を知ることはできない。バイト先がどこかも知らない。それらを確認できたことは、とても大きかった。僕はこの部分を確実にするため、もう少し掘り下げてみた。

「一つ分からなかったのは、野村が怪しいとしたら、なぜ彼らは仙台で行動を起こさなかったのか、という点です」

 井上はその点を、上手く説明してくれた。

「よく考えてみてよ。野村は倉本にとって愛人だよね。だったら倉本から、敢えて佐伯さんの件を野村に尋ねることはしない。それにあのときの佐伯さんは、倉本のことを警察に話していなかった。だから安藤本部長が、佐伯さんに訊いたんだ。倉本という男を知っているかと。つまりあの時点で、野村の中では倉本と佐伯さんの件が繋がっていなかったんだ。それが何かの拍子で繋がった。だから野村は情報を倉本に提供した。おそらくそのとき倉本は、佐伯さんを自分の女だなんて言わなかったはずだ。管理している店から逃げ出した女だとか、それとも借金を踏み倒されたとか、適当に誤魔化しているはずだ」

 合理的な説明だった。一つ不安があるとすれば、井上が警視総監の息子という情報が、相手に流れているかどうかだ。そこからこちらの足がつくことはないだろうか。その心配に対しても、井上が言った。

「安藤さんは、そこまで部下に話さない。警視総監絡みで動いたなんて外部に漏れたら、大変なことになるからね。野村だって何らかのコネには勘付いているだろうけど、それがどんなコネかは分からないよ」

「なるほど。それで、この話しは警察にもう伝えたの?」

「まだ伝えていない。これは手持ちのカードとして使えるかもしれないしね」

 そこで僕ははっと気付いた。それほど調べがついているなら……。

「まさか、倉本の居場所も分かっているのですか?」

 坂田さんはゆっくり頷く。

「彼は今、青森県の三沢市に潜伏しています。野村の実家が三沢でアパートをいくつか持っていて、その一つの部屋を借りたようですね。倉本はああ見えてエリートヤクザですから、頭が切れる。当然潜伏場所として仙台は危険だし、田舎過ぎればそれも目立つと分かっている。三沢市はそこそこの規模ですから、隠れるにはいいでしょうね」

「新宿に現れたのは三人の男ですが、残りの二人は?」

「二人はそれぞれ自分の田舎に隠れているところを警察に見つかり、既に逮捕されています。すぐにばらばらになったというのが少し不思議ですが、逮捕された二人は倉本の隠れ家について何も聞いていないらしく、警察はまだ、倉本の潜伏先に気付いていません。もっとも、捕まった二人は何も手を出していないので、すぐに開放されるはずです」

 つまり現時点で、僕や佐伯が倉本本人に襲われる心配はないということだ。

 既に三つの課題をクリアできた。倉本が受けた情報提供ルート、倉本の経歴、そして彼らの現状。予想外の進展に、僕は興奮した。

 僕たちは、倉本をどう追い詰めるかについて、議論の的を移した。これについては、意見が乱立し対立した。坂田さんは、一円連合の力を使いねじ伏せてもいいと言ってくれる。確かにそれが手っ取り早い。

 しかし倉本は、それで心が折れるのだろうか。奴は信念を曲げたり面子を踏みにじられるくらいなら、死ぬまで抵抗し一矢報いるタイプではないのか。

「倉本の一番大切なものって、何でしょう?」

 僕のその問いで、井上と坂田さんの言葉が止まった。

「奴の心を折らない限り、平和は実現できない気がするんです。変に痛めつけたり追い込めば、奴は執念深く復習の機会を伺い、それを実行するように思えます」

 そこで井上が言った。

「だったら、放置か殺すしかないね」

 不穏な会話が周囲に聞こえたのか、隣の人間がこちらをちらりと見る。

「倉本の一番大切なものですか……」

 坂田さんはつぶやくようにそう言って、黙り込んだ。

「そう、大切なものです。立場、組織、面子、理想、名声、家族、恋人、何でもいいんです。それをネタに取り引きする、あるいはそれを壊してしまう。大切なものが壊れたら、踏ん張る意味がなくなるじゃないですか」

「遠藤、なんか矛盾しない? 信念や面子を損なわれるなら死んだほうがましと考える奴は、死ぬまで抵抗すると思うけど」

「そう、いろんな矛盾がある。だから分からなくなる。もっと倉本のことを深く調べたいんだ。今のままだと作戦を立てにくい」

 そこで坂田さんが言ってくれた。

「分かりました。もう少し考えさせて下さい。倉本のことをどう調べるかも検討します」

 本来、坂田さんには関係のないことだ。しかし彼は、自分のことのように真剣に関わってくれる。本当に有難かった。

「我儘を言って、本当に申し訳ありません。しかしこの件は、僕や彼女の人生を左右するくらい、大切なことなんです。もし自力でやらなければならなくても、僕は遂行します」

 坂田さんは、暖かい眼差しを僕に向けながら頷く。

 井上が言った。

「遠藤が、これほど執念深いとは思わなかった」

「井上に教わったんだよ」

 井上は嬉しそうに笑った。

「うん、悪くない」

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