第31話 リベンジの思考

 入院は自分にとって初体験だけれど、二日も経てば院内の様子が分かり、気分的には落ち着いた。

 一旦落ち着き出すと、今度は退屈との闘いになった。そこにあるのは三度の食事と傷口の確認、そしてたまの検査という、極めて単調な生活なのだ。

 この場合、食事の内容を選べないのが致命的だった。贅沢な食事をしたいのではない。気分で何を食べるか決められないのが辛いのだ。栄養バランスが考慮された健康的で素晴らしい食事かもしれないけれど、美味しいと感じられずに食べる食事が果たして健康的と言えるのか疑問だ。

 自分が我儘なことを考えている自覚はあった。腹が空いてひもじい思いをするより、遥かに恵まれている。

 しかし、腹が空かない。従って食欲も出ない。しかし体力をつけるためには食べるしかない。とどのつまり、食べるというより食物を体の中に押し込むという体になるのだ。闘病は、生活の中で食の楽しみが如何に重要かを実感するものになった。

 大した娯楽のない病室で食の楽しみもないとくれば、僕は病院のベッドの上で、倉本にどう落とし前をつけさせるかそればかりを考え続けるしかない。この際真剣に考えるべきことがあるのは、退屈を解消するのに有り難かった。

 しかもヤクザを屈服させるというだいそれた考えは、当然簡単にまとまるはずもないのだ。簡単に解が見つかるようでは、その後の退屈と闘い様がない。しかしこの際都合よく、相手は筋金入りの狂犬だ。失敗すれば返り討ちをくらい、今度は間違いなく自分が仕留められる。だから簡単にはいかない。退屈を解消できる難題は、延々と僕の頭上で自分にプレッシャーを与え続けてくれる。

 しかしこの男だけは、どうしても封じ込める必要があった。警察に逮捕され実刑を言い渡されても、いずれはこちら側に出てくる。あるいは、壁の内側から誰かに指示を出すかもしれない。倉本の怨念を削いでしまわない限り、自分と佐伯に平和は訪れないのだ。

 まともに対決しては勝ち目が薄いし、仮に勝てたとしても、こちらが犯罪者になっては元も子もない。

 自分の危険を排除するため正面からいかず、しかし決定打を放ちたい。そんな都合のよい作戦は、簡単に見つかるわけがない。だからこそ考える必要がある。そう思ったときに、かつて井上に言われた言葉を思い出した。

『どうしようもないことだからこそ、結果を出すことに価値があるとは思わない?』

 井上はそう言った。どうにかしたいことなら、結果を出すことには当然価値がある。そして価値を生み出すには、それなりの苦悩や努力が必要なのだ。どうしてもやり遂げたいなら、考え抜いてやり抜くしかない。

 頭の中で、何度もシミュレーションを繰り返し、何度も失敗した。その失敗の末路は、ほとんどが壮絶な死だった。恐怖と痛みを伴う死。裏をかかれ、彼らに捕まり、死ぬまで凄まじい拷問を受けた上での死だ。

 これまで、これほど死を身近に感じたことはなかった。自分が一年後も生きている保証がないことを実感して、これは現実なのかと現実逃避したくなった。僕はそれまで、死というものは仮想世界で作られた一つの象徴的事象であって、自分の身に降りかかるものではないと思っていたのだ。

 しかしその死が身近にある。いや、つい最近、実際に死にかかったではないかということに気付き、唖然とする。これは逃げようとしても逃げられない現実なのだ。

 想像の中で僕は、ときには体中をナイフで切り刻まれ、ときには拳銃で脳天をぶち抜かれた。気を抜くと、簡単に死へ直結した。いつでもこちらが恐怖を味わうことになる。その恐怖に屈したら、先が望めないことも分かっているから、僕は踏ん張る。踏ん張っていたぶられ、苦しい思いをした挙げ句、いつでもジ・エンド。

 望むべくは、こちらが倉本に恐怖を与えたい。僕たちへの支配を、彼が恐怖を味わうことで諦めなければならない。

 しかし一体どうやって……。

 思考は堂々巡りになるだけだった。

 所詮は学生の素人考えだ。自分など、実際に組織を背負い、幾多の修羅場をかいくぐった人間の足元にも及ばない。

 倉本の狙いや弱みは何だろう? 考えるネタが尽きると、僕はぼんやりそんなことを思った。

 彼に弱みなどあるのだろうか。それすら想像できない自分に、勝ち目があるとは到底思えなかった。何かしらの突破口を見つけるためには、自分が倉本のことを、もっとよく知る必要がある。しかし一体、彼の何を知ればいいのか。

 しかしその前に、倉本の動向を把握しておく必要はないのか。もしかしたら、彼はふらりとこの病室に現れ、刃物を振りかざす可能性だってある。彼の動向を知らなければ、再び自分たちがいつどこで襲われるか分からないのだ。これが当面、一番重要なことかもしれない。

 この単純な気付きは、的を得ているようで、リアルな恐怖を呼び起こした。今尚狙われているかもしれない恐怖は自分の神経を少なからず蝕み、これほど深みに嵌ってしまったこの境遇の因果を、今更ながら上手く整理できなくなるほどだった。


 僕は丁度二週間の闘病生活を終え、退院した。入院中、田舎から両親が駆けつけ、一体何があったのか問い詰められたりしたけれど、ほぼ毎日が、心配した倉本の襲撃もなく平穏な日々だった。

 退院当日は、シャバに出るとはまさにこんな気分なのだろうと思うくらい、晴々とした開放感があった。

 私服の刑事が、周囲にちらほら見えていた。倉本が見つからないために、自分のガードを兼ねて張り込んでいるようだ。僕は警察にとって、ある意味餌なのだろう。倉本という大魚を釣り上げる餌。

 警察が張り込んでいようがいまいが、敵は来るときには来る。ならば自分が餌であろうとなんだろうと、国家権力を背負った専門家が張り込んでくれた方が有り難いのは確かだ。

 佐伯は一足早く、病院を出たと聞いていた。僕は真っ先に、公衆電話から佐伯のアパートへ電話を入れた。

 母親が出て、彼女は僕が元気に退院できたことを、息子の凱旋を祝うように喜んだ。しかも途端にお通夜にいるような声になり、倉本から佐伯を庇った件で、かしこまった礼を言われる。そんなことより、僕は佐伯の元気な声を、一刻も早く聞きたかった。

 母親から替わった佐伯は電話に出るなり、『遠藤君、ごめんなさい』と、震える声で謝った。

 それで僕は言った。

「佐伯が謝る必要はないよ。あれは僕のせいかもしれないんだ」

『え? どういうこと?』

 僕は自分が尾行され、倉本を仙台から新宿まで導いた可能性があることを彼女へ告げた。

 そのことに、彼女は流石に驚いたようだ。彼女は『そんな……』と絶句して、暫く無言になる。

「証拠があるわけじゃないけど、それしか考えられない」

 彼女は気を取り直して言葉を発した。

『それでも遠藤君がこんな目に遭ったのは、私に関わったのが原因よ。やっぱり謝らければならないのは私なの』

「お互い命が助かったんだし、そのことはもういいよ。とにかく、佐伯も元気そうでよかった」

 彼女は、薄幸そうな笑いを漏らした。自分たちの置かれた境遇に、彼女はまだ戸惑っているのだ。

『ありがとう。あなたが庇ってくれたお陰よ。ねえ遠藤君、あの日に言ってくれたこと、まだ覚えてる?』

「覚えてる。佐伯に会いたいという気持ちも変わらない。本当は今すぐ会いたいけど、まだ外には出ない方がいい」

『そうね。倉本やその仲間が、いつどこで現れるか分からないものね。今日は遠藤君の元気そうな声を聞けてよかった。電話をくれて、ありがとう』

 再び僕たちが襲撃される可能性は、まだ残っている。佐伯や自分が生きながらえていることは、彼らも報道を通して知っているはずだ。

 ただし僕の推測では、倉本は佐伯や僕たちの住む場所を知らないはずだ。彼らが新宿に現れたのは、自分が仙台からつけられたからなのだ。入院した病院を突き止めることは可能かもしれないけれど、この広い東京で、自分たちの自宅を探し当てるのは難しい。しかしその裏が取れるまでは、お互い慎重に行動した方がいいだろう。

「色々片付いたら、ランチを一緒に食べよう」

『ええ、是非。でもその前に、お正月を一緒に過ごさない? お父さんとお母さんがね、うちに遠藤君を呼ばないかって。狭くて落ち着かないかもしれないけど』

 翌日は大晦日だった。年末を病院で過ごしていたため、僕はすっかり忘れていた。

『私も料理を作るから、よかったら来て欲しいんだけど……』

 相変わらず佐伯は、自信なさげな言い方だった。僕に怪我を負わせたことを、負い目に感じているのだろうか。

 しかし当の僕は、佐伯に会いたかった。声だけでなく、彼女が元気になった姿をこの目で見たいと願っている。お互い命拾いしてよかったねと、冗談で笑うように、その喜びを分かち合いたいのだ。

 ヤクザに付け狙われたという深刻な考えは、さしてなかった。その点は、不思議なくらいさばけていた。怖じけ付くこともなく、悩みにもならなかった。十日間の入院中、ベッドの上で何度も壮絶な死を想像し、僕は死ぬことに慣れてしまったのかもしれない。

 早く彼女の顔を見たい僕は、行かせてもらうと返事をして、その電話を切った。

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