第30話 謎

 ほんの三分立っているだけで、背中が随分疼いた。傷口が、再び開いてしまったような痛みだ。

 幸い井上は、三度目の呼出音で電話口に出た。

「井上? 遠藤だけど……」

『おお、遠藤、もう大丈夫なのか?』彼は、天地がひっくり返ったかのような、裏返った声を出す。『病院へ行ったら、ICUで眠ってたんで、心配してたんだ』

「やっぱり来てくれたんだ。ようやく普通の病室に移ったよ。それで、佐伯がどうなったのか、井上は知ってる?」

 彼はすぐに答えた。

『彼女は遠藤と違う病院に運ばれた。怪我は思ったより軽くて、まだ入院しているけど元気だよ。遠藤が庇っていなかったら、どうなっていたか分からないけど。結局怪我の具合は、遠藤の方がよほど重かったんだ』

 それを聞いて、自分の中に巣食っていた息苦しさや動悸を伴う圧迫感から、僕は一気に解放された。

 井上が続ける。

『ただね、流石に彼女はショックを受けている。遠藤も命に別状はないって伝えたら、ほっとして泣いていた。今は彼女の両親と美香ができるだけ付き添ってるから、そっちの心配は要らないと思う。それより、早く自分の身体を治した方がいい』

「佐伯が無事でよかったよ。死んだかもしれないって思ってたんだ。もう知ってると思うけど、犯人はあの倉本って奴だよ」

『知ってる。警察が倉本を追ってるよ。まだ捕まっていない』

「そう……」不思議とそんな予感があった。「そのことで、相談があるんだ。時間があるときに、病院に来てくれないかな。できれば一人で来て欲しい」

 井上は怪訝そうに、『一人で?』と言った。

「そう。女性二人には悪いけど」

『つまり、美香や佐伯さんに秘密の相談ってこと?』

「そう、彼女たちに知られたら、色々反対される相談」

 井上は少し考えて、『分かった』と言った。勘のいい井上のことだから、彼には僕の考えていることが、もう分かったのかもしれない。


 井上はその翌日、早速一人で病院へ来てくれた。丁度二人の刑事が事情を聞くために来院し、話しが終わる頃だった。

 井上が病室に入ってくると、ベテラン老年刑事が驚いて言った。

「賢治君じゃないか。一体どうして……」

 井上は逆に全く驚かず、そこにその刑事がいることが当たり前のように言った。

「ヤスさん、お久しぶりです。今回は、流石に本庁が動いているんですね。彼は僕の親友なんですよ」

 ヤスさんと呼ばれた刑事は、またわざとらしく驚いた。

「そんな奇遇があるものなんだな。いやあ、不思議だ。それじゃあ、命が助かって本当によかったじゃないか」

 もう一人の若い刑事が、困惑している。

「ヤスさん、一体誰なんですか?」

「井上さんの息子さんだよ」

「井上さんって……、え? まさか、井上警視総監の?」

 ヤスさんは、にんまりとして頷いた。

 井上が刑事に訊いた。

「それでヤスさん、倉本はまだ捕まらないんですか?」

 ヤスは眉間に皺を寄せ、困った顔付きになった。

「全く足取りが掴めないんだ。あれだけ派手にやらかしといて、見事なもんだとしか言いようがない」

「ヤスさんがそう言うのは、よほどのことですね」

 ヤスは頭をかきながら、「いやあ、申し訳ない」と、如何にもばつが悪そうに答える。

 二人の刑事は、その後逃げるように病室を去った。井上に色々質問されたら、その問答全てが、警視総監に筒抜けになると思っているのかもしれない。

 刑事が去った後で、井上が教えてくれた。

「あのヤスさんというのはね、本庁捜査四課のマル暴担当刑事さんで、僕が暴力団に拉致されたとき、一円連合の坂田さんを紹介してくれた人なんだ」

「世の中、狭いね」

「今回の事件は、マスコミが大々的に取り上げたから、本庁が動くと思っていたよ」

 白昼堂々、しかも人の多い新宿駅前で行われた傷害事件だ。ワイドショーが倉本の猟奇性を強調し、散々取り上げたことを井上が教えてくれた。被害者である佐伯と僕の名前は伏せられたようだけれど、マスコミは佐伯の過去を調べ、一部番組で匿名報道したらしい。

 せっかく平和な生活を取り戻し、過去を忘れる努力をしていたのだから、全く忌々しい事件だ。

「それも倉本が計算した、復讐の一つなのかな?」

 僕がそう言うと、井上はそれを否定した。

「いや、倉本は単純に、面子を潰されたことに強い怒りを感じただけだと思う。おそらくだけど、本当に二人を殺そうと思ってたんじゃないかな。公衆の面前でも、手下にやらせず自分で手を下しているところが怖い。よほど肝の座った奴だと思う」

「それなんだけどさ……」

 僕はICUで検査と薬漬けになっているときに考えた、この事件の不思議な点を井上に話した。つまり倉本が、事件当日僕をつけていた節があることだ。一体彼が、どうやって自分のことを知りどこから尾行していたのか、皆目見当がつかないのだ。そして倉本の、女を仕留めたら次はお前の番だという台詞だ。彼は佐伯だけではなく、僕のことも狙っていた。できれば僕に、佐伯の苦しむ姿を見せつけようとした疑いもある。

「僕もずっとそれを考えていたんだ。当日の状況は、美香を経由して聞いているよ。二人があの場所で会うことを決めたのは、ほんの一時間前だよね。そして倉本は、おそらく遠藤と佐伯の二人を狙っていた。それを考えると、遠藤か佐伯のどちらかが、つけられていた可能性が高い。僕はね、つけられていたのは、遠藤だと思っているんだ」

 自分もそんな気はするけれど、一体どうやって自分を知ってつけていたというのだろう。

「井上はそのことで、何か心当たりでもあるの?」

 彼は「ふむ」と小難しい顔を作り、鼻の穴を膨らませる。

「ないわけでもない」

 僕は驚いて、思わず身体に力が入った。その瞬間、背中に激痛が走り、悲鳴を上げてしまう。

「遠藤、先ずは身体を治すのが先だよ。謎解きと復讐はそれからだ」

 僕はここでも、心臓が飛び跳ねた。

「井上、どうしてそれを?」

 僕が井上に相談したかったのは、倉本に対する復讐の件だったのだ。倉本を完全に潰しておかなければ、この先も佐伯が危険だ。それは、事件の謎についても同様だった。自分たちの気付いていない何かがあるとすれば、それらを解消しておく必要がある。

 井上は一転笑顔になり、さらりと言った。

「女性二人に内緒の話しなら、それしかないじゃないか」

「流石だよ。それで心当たりっていうのは?」

「それはもう少し調べさせてくれ。自分の推理が当たっていたら、僕や美香も危ない。そうであれば倉本を潰す件は、基本的に賛成だよ」

「もったいぶらずに、教えてくれてもいいじゃない」

「どうせ入院中は暇だろう? ヒントを上げるから、それで考えてみたらいい。要は、関係者のカードを全部並べてみること。それで何かが見えてくる」

「なんだよ、それ。考え過ぎで眠れなくなったら、治るものも治らなくなるじゃないか」

 それでも井上は、全く想像の段階だからと教えてくれなかった。最後に井上が言った。

「こんな目に遭っても倉本を潰すことを考えられるようなら、先ずは一安心だ。思ったより元気でよかったよ」

 井上は笑って、病室を去った。

 気付くと、窓辺に雀がたむろしていた。明るい陽射しが、レースのカーテン越しに部屋の中へ届いている。刑事や井上が帰ると、部屋は途端に静まり返った。師走には似つかわしくない平和的な静けさだ。

 僕は一人になって、再び考えた。

 当日佐伯の行動を知り得たのは、彼女の両親だ。しかし、彼らが倉本と通じているわけがない。尻尾を捕まれ、両親が倉本に脅迫されていた可能性はないだろうか? いや、それでもあの人たちが娘を売るとは思えない。

 佐伯が密かに、倉本と通じていたのか。何かの事情があって、倉本と連絡を取り合っていた可能性がないわけではない。しかし彼女が、自分の居場所や待ち合わせのことを話すとは思えかった。

 その日の彼女の様子はどうだったか? 僕の誘いを彼女は喜んでいた。駅前で倉本を見たとき、彼女は驚いていた。

 やはり、後をつけられたのは自分だろう。仙台から尾行されていたとすれば、一体どこからつけられていたのか。ライブ会場かホテルか、あるいは路上か駅で見つかったのか。そうだとして、倉本はどうして自分の顔を知っていたのか。

 自分と倉本にわずかな接点があるとすれば、店の前で彼を見掛けた国分町だ。しかしあのとき、倉本と佐伯は全くこちらに気付いていなかった。

 松本の場合はどうだろう。彼女が僕たちを裏切れば、自分の素性が彼らにばれることはあり得る。仮に数日間でも、松本はあのバーで働いた。こうして考えると一番怪しいけれど、彼女が裏切るなら多賀城から東京へ戻るとき、既に何かが起こっていたはずだ。

 引っ越し業者はどうだろうか? これは何とも言えない。ただし彼らは、届け先の一円連合本部しか知らない。そこから佐伯が東京のどこかへいることは分かるけれど、具体的な住所を探るのは難しいだろう。

 ならば、一円連合が裏切って、知る限りの情報を倉本に流したとすればどうだろうか。井上のことが知れて、そこからバイト先がばれる。そしてそのバイト先には佐伯や僕がいる。この推測は、もしかしたら繋がるかもしれない。しかしそうなら、なぜ新宿駅前だったのか。もっと人気のない場所で、いくらでも狙えるチャンスがあるような気がする。

 結局僕は、決定的に怪しい何かをひねり出すことができなかった。その後に考え続けても、結果は同じだった。

 自分は一体、何を見落としているのだろう。考えるほど僕は迷路にはまり込み、可能性の薄い推測の洪水に翻弄された。

 しかし今回僕は、諦めかけては考え直し、何百通りもの可能性を探った。時間はたっぷりあるのだ。自分でもしつこいと思えるほど考え抜いた。お陰で暇を弄ぶことがなかった。

『関係者のカードを全部並べてみること』

 井上はそう言った。佐伯を売った辻本、ローズマリーのママ、店の実質オーナーである岡本、そして街金の清水興業と、関わりのありそうな人間を、何度も頭の中で並べ直してみる。同じ登場人物でも、配置を変えて考えてみた。そこから極めて低い可能性を排除し、カードを絞り込んでは再び並べ直す。

 そして僕は、遂に一つの落とし穴に気付いた。あくまでも推測だけれど、それはどの可能性よりもしっくりと事実に馴染んだ。

 僕は自分の推測が正しいかどうかを知りたくなると、いても立ってもいられなくなり、すぐに病院の公衆電話で井上へ連絡を入れた。

 幸い彼は自宅にいて、いつもののんびりした口調で、『どうしたの?』と訊いた。

「井上、倉本がどうして新宿に現れたのか色々考えて、怪しい可能性を見つけたんだ」

 僕は自分の考えを、一気にまくし立てた。説明が終わると、井上が言った。

『よく思いついたね。僕の推測と同じだよ。二人の人間が同じ結論に至るということは、この考えはやっぱり正しいような気がする』

「あとは、どうやって証拠を見つけるかだね」

『うん、それは僕に考えがある。意外に簡単かもしれない』

「つまり、こっそりつけ回していれば、姿を消している倉本にたどり着く……」

『その通り。この情報を警察にリークすれば、彼らが勝手にやってくれる。何せ警察は、倉本を追っているんだから』

「問題は、倉本が警察に捕まってしまうと、奴に直接天誅を与えるチャンスがなくなることだね」

『遠藤、よく分かってるじゃないか』

「入院って、考える時間が腐るほどあるんだよ」

 井上が、受話器の向こうで笑った。

『それだけ元気になったということだね。本当によかったよ』

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